第佰拾参話:川中島の戦い、開幕

 天文二十二年四月初旬、葛尾城の村上義清は歯噛みし、俯いていた。上田原、砥石、そして先年の常田、局地戦では負けていない。上田原ではこちらもそれなりの手傷を負ったが、砥石は巷では砥石崩れなどと呼ばれるほどの大勝である。

 しかし今、村上は窮地に立たされている。

 上田原では勢い任せの未熟者の印象を得た。砥石では退き際こそ多少の凄みを感じたが、それでもなお上回っていた感覚はある。されど、その後は一方的に踊らされているだけ。常田での勝利も、敵味方共に大勢に影響はなかった。

「武田、晴信」

 上田原で確実に仕留めておくべきだったのだ。まさか、あの若者がここまで化けるとは思っていなかった。もちろん甘利ら忠臣の犠牲あっての生還であるが、それでも無理をすればあの時、勝ち切ることは出来たかもしれない。

 過ぎったのは戦後の事。ここで無理をして、自らの兵を減らせば小笠原や高梨らに足元をすくわれかねない。その保身が、虎を生かした。

 保身が、虎に化ける時間を与えてしまった。

 砥石城は元信濃勢の真田幸綱が手により、彼の弟である足軽大将が内通、ほぼ無傷で奪われたことから、村上勢は転がり落ちて行った。負けてはいない。むしろ勝っている。それなのに一人、また一人と村上方の諸侯を削り、つい先日も土豪の大須賀が謀反し、武田方に寝返った。負けていないのに、気付けば後がない。

 崖っぷち、いや、もはやとうに崖から手を放して――

「……殿」

「言うな。全ては俺の弱さゆえよ」

 戦場に対する視野の違い。局地で勝ちながら大局で惨敗を喫したのは、結局はその違いなのだろう。そこを読めなかったから、信濃勢は中々皆でまとまらず、それぞれの保身がゆえに一枚ずつ、武田に食われたのだ。

 村上もその内の一つであったに過ぎない。

「葛尾城を放棄する」

「……はっ」

 断腸の思いで居城を捨てる。もはや武田を止められる勢力など信濃には存在しない。その話は既に仇敵であった高梨とも充分にした。

 信濃勢が独力で抗うのは不可能。なれば、取るべき道は一つ。

 誰かに下るのみ。

 そして大事なのは誰に下るか、であろう。武田か、それとも――


     ○


 縁戚、長尾景虎にとっては祖母に当たる人物が信濃高梨氏の娘であった。それゆえ窮地に陥ればこうなるのもまた必然か。

 高梨氏より届いた救援依頼。それを見て景虎は微笑む――

「戦である!」

「おう!」

 獰猛に。


     ○


「何と言う早さか」

「……事前に読んでいたのだろうな」

 信濃が国衆、高梨政頼と村上義清が驚く中、高梨の救援依頼からひと月も経たぬ間に越後勢が北信濃に現れたのだ。五千の兵、率いるは関東遠征同様、平子孫三郎と前回も彼の下で働いていた庄田定賢が続く。ちなみに彼、古志長尾の家臣であり、実は栃尾時代から景虎の家臣として働いていた男であったが、

「しょ、庄田殿⁉」

「こちらにいたのですか⁉」

「……ずっといたよ」

 とかく影が薄いことで逆に有名であった。目立ってなんぼの武士としては致命的だが、景虎は逆に気に入っており、様々な局面で仕事を任せていた。が、如何せん影が薄く、先の関東遠征も平子や宇佐美らばかりが目立っていた。

 正直、若手の本庄繁長の方が活躍していたようにすら、見える。

「高梨殿、村上殿、お待たせ致した」

「よく来てくださった」

 しかし、景虎は彼に「遠路一入陣労案之候」というねぎらいの文書を届けさせており、目立たぬが良く平子を盛り立てた、と仕事ぶりを評価されていた。

 平子からも信頼厚く、かつて宇佐美と諍いがあった折、派遣された庄田がしれっと間を取り持ち、和解させたこともあったのだ。

「某らが間を取り持ちますゆえ、村上殿が指揮を」

「よろしいのか?」

「それが御屋形様の命なれば。ただし、相手が返す刀で反攻に転じた際は、どのような状況であれ素直に退いて頂きたく存じまする」

「心得た」

 歴戦の猛者、村上義清はまだ見ぬ長尾景虎に感謝する。どちらも精鋭、村上が上に立つという条件であればこの二人以上はそういない。

 双方仕事人、村上のやりやすいように、と言う景虎の言葉が透けるような人事。まずは武田晴信本人を二度下した男の実力を拝見、と言う所だろうか。

「では、命令を」

「出陣する!」

「「承知」」

 もう一つ付け加えるのであれば、武田の出方が見たいのかもしれない。

 かつて二度直接敗れた相手に、果たして彼はどう立ち向かうのか、を。


     ○


 八幡(長野県千曲市)まで攻め上がって来た武田晴信の軍勢は突如現れた五千の兵を率いた村上義清率いる軍勢を見て驚愕していた。

「……随分、早ェな」

 晴信は戦場全ての情報を掴んでいた。葛尾城を村上が放棄した日取りも、高梨を頼った道も、高梨に頼る以上越後勢が出てくる可能性も、すべて把握していた。

 だが、それにしても早過ぎるのだ。日付が噛み合わない。

 先回りでもせねば――

「なるほど……ここまで読み切ったかよ」

 五千、と言う絶妙な兵数も晴信に迷いを与える。理性も感覚も、相手の読み通りにやり合うのは悪手では、と出ているが、彼が率いている諸侯にまでそう見えているか、と言えば怪しいだろう。晴信が率いる軍勢、その半分以上が信濃で引っこ抜いた将兵である。甲斐の直参で固めていれば、即撤退に踏み切れたが――

「一戦交えて退いた方が、旨いか」

「御屋形様、何かおっしゃいましたか?」

「何も。とりあえず、やりますかね」

 武士は面子第一。阿呆ほどそれにこだわる。今の晴信はあまりこだわらなくなったが、こだわっている者たちの考えはわかるのだ。

 即退けば臆病者と思われるだろう。そんな状態で籠城でもしようものなら、調略されて寝首をかかれかねない。自分ならそう仕向ける。

「工藤、春日」

「「ここに」」

「使える奴は少し下がり目で、退く準備をさせておけ」

「「御意」」

 合戦前にとんでもないことを口走る晴信に対し、迷いなく「応」と言うは工藤祐長と春日虎綱であった。甲斐の武門工藤氏の次男坊と百姓の子というちぐはぐな出自である二人だが、共に晴信の側近として重用されていた。

 後の世に信玄、勝頼期の武田四天王と呼ばれる内の二人である。

「ほぉ、滞りなく展開するねえ。余所者が混じっているとは思えねえな、こりゃ。こういう人材もしっかり使っている所が、懐の深さだよなァ」

 晴信は軍の動きを見ただけで、そこに潤滑するための誰かを見る。戦に強い人材、戦が巧い人材、人を使うのが巧い人材、使われるのが巧い人材、知恵に富む者、士気高揚が巧い者、人間には得意不得意というものがあるのだ。

 適材適所、これが出来ている時点で、今回の絵を描いた者が相当人を見る眼に富んでいることがわかるだろう。

 無論、それがわかると言うことは――

「人を見る眼なら、俺も自信はあるぜ。なぁ、長尾景虎ァ」

 この男もまた、同じ視点を持つということなのだが。

 虎は、笑う。


     ○


 春日山にて信濃より戦勝の報せが届く。八幡にて武田晴信率いる軍勢を撃破し、敗走させ、その足で葛尾城をも奪取した、と言う報告である。

「さすがは孫三郎、まったく、大した男だ」

「村上殿も噂に違わぬ実力なのだろう。素晴らしい戦果だ」

 本庄実乃、大熊朝秀が共に勝利を喜ぶ。集まった者たちも勝利の報せを聞き、浮かれ、次こそは我らも、と息巻いていた。

 村上、と聞き顔をしかめているのは因縁のある甘粕ぐらいのもの。

 しかし、

「敵の損害は?」

 景虎に浮かれる様子はない。

「そちらは庄田殿より……敵の損害およそ二百、む、少なめですな。それと、多くが恭順した信濃勢のように見られた、と。これは、まさか――」

「ぶはっ」

 その報せを聞いて初めて、景虎の顔に笑みが浮かぶ。

 皆のそれとは異なり獣のようであったが。

「さて、と……次の手の備えをせよ、政景」

「新五郎とお呼びください、御屋形様」

「堅いのぉ。義兄上であろうが」

「……挽回の機会を与えて頂き、感謝いたします」

 上田長尾当主、長尾政景であった。かつて反旗を翻し、景虎に歯向かおうとしたところを踏み潰された男であったが、景虎は気にせず普通に重用していた。

 逆に周りが怖がるほどに。今回もまた、

「上田衆一同、全力で励みまする」

「堅苦しいのぉ。まあいい。あとな――」

 景虎の笑みが深まる。

「俺も出る」

 全員が目を見開く。当初は彼自身が出る話はなかった。何せ、彼は越後の守護代行である。特に政情不安が続くこの国を空けるのはリスクが大きい。

 信頼できる弟がいる甲斐とはまるで事情が異なるのだ。

 それでも景虎の眼は、有無を言わせぬものであった。

 近く上洛の予定が、と思う者もいたが口には出せない。反旗を翻すのは許しても、何故かこの場で異を唱えるのは許されぬ気がしたから。

 龍が、嗤う。


 これより始まる戦こそ、長きに渡る越後と甲斐の戦い、世に言う『川中島の戦い』である。龍虎どちらが笑うか、今はまだ誰もわからない。

 その一回目が、幕を開ける。

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