第佰陸話:役者、揃う

 山内上杉家当主、上杉憲当を迎えるに当たり築かれた館は、春日山城から少しだけ離れた海の近くであった。のちに御館と呼ばれ、家督争いの舞台となる場所でもあるのだが、今はただの新築、客人を招くための場所である。

 その主殿で、

「ささ、一杯」

「かたじけない」

 越後守護代行、長尾景虎と堕ちた関東管領、上杉憲当が酒を酌み交わしていた。彼がやって来て数日は歓待の宴を催していたのだが、今はすっかりその熱も冷め、そんな折に景虎自らが単身、酒を持参してやってきたのだ。

「酒は土地によって味が変わるのぉ」

「水の違いでしょうか。私も勉強不足でして」

「いやいや、結局のところ酒の妙味は――」

「酔、ですな」

「その通り。味など二の次よ」

 宴やその後の会話を通じ、二人はすっかり打ち解けていた。元より両家の確執など代を離れた二人には遠く、周囲も時代が進み根に持つ者はほとんどいない。

 と成れば必然、

「皆には内緒ですが、実は某、釣りも趣味でしてな」

 わだかまりなどなくなってしまうもの。

「釣りをするのか⁉ 長尾家の者が」

「ええ。驚かれることでしょう。しかし、これが存外役得のある趣味でして」

「ほう、役得とな」

「自分で釣った魚をその日に絞め、刺身で食うのです。味噌から取れるスタテ(たまり醤油)にひと撫でし、頬張る。ぷりぷりで美味いですぞぉ」

「刺、か。食うたことがないのぉ」

「海沿いならでは、ですな。どうです、今度お互い変装して釣りでも」

「ふは、面白い。そなたは自由な男よなぁ」

「田舎武士ゆえ」

 景虎の冗談に二人は大笑いしてぐびっと酒を呷る。当初こそ堅い表情をしていたが、すっかり景虎の緩さにほだされ、腹を割った話も出来るようになっていた。そこに関しては家臣らも驚くほどの懐への潜り込みっぷりである。

 元々、景虎と言う人間は幼少期からよく人を見ていた。我儘放題なように見えたが、その実我儘を言える相手意外にそういう振舞いを一切してこなかった点からも、その素養は見受けられる。そこの見切りは、むしろ万人から線を引く者よりも巧いのかもしれない。人を見る眼、景虎の眼に憲当はどう映るか。

「その、伊勢姫はどうしておる?」

「元気にしておりますよ。ふふ、まさか童の時分にした他愛もない誓いが、このような縁を招くとは思っておりませんでしたが」

「そう、それをな、聞きたかったのだ。そなたはどのような理由で上野国へ来たのだ? あの時分は三条長尾の者が踏み入れるにはちと難しい時代であったと思うが」

「では、一つお話いたしましょうか。うつけの四男が如何にして旅に出たのか、を」

「うむ!」

 伊勢姫こと千葉梅の件に絡んでいる時点で、当然彼女との約定は筒抜けである。つまり、彼は知る者と言うこと。ならば内緒話として伝えても構わない。

 どちらにせよ、今となっては他愛もない過去の話である。

 板鼻でのこと、鎌倉、駿河、伊勢神宮に、京。そこから琵琶湖を渡り、越中を抜けて越後へ。その壮大極まる大うつけ旅を、笑い交じりで話す。

 暗い部分は伏せたまま――

「俄かには信じられぬな。しかし、千葉の娘との約定が証、か」

「ふふ、誰に言うても信じてもらえぬゆえ、こうして話すこと自体稀なこと。話のネタとしては良いのですが、如何せん荒唐無稽でしてな」

「それはそうであろう。知る私をして、未だに信じ難いのだ」

 話もひと段落し、しばし酒を呷りながらも沈黙が続く。嫌な沈黙ではなく、雰囲気は良好であるが、少しばかりの緊張も憲当から感じられた。

 静寂の中、景虎は静かに待つ。

 本題を――

「私を受け入れてもらい、しかもここまで良くしてもらっている。かつて、越後を攻め取ろうとした家の者に、だ」

「互いの立場がそうさせてまでのこと。それを言えばよくぞ、偉大なる祖父を討った仇を頼ってくれた、となりましょう」

「そう言ってくれるとありがたい。それで、だな」

 憲当は少し、言葉に詰まる。だが、意を決し、

「北条打倒のため、長尾家の助力を得ることは可能だろうか?」

 山内が取り付けた約定は、上杉憲当の亡命のみ。北条や周りが山内を受け入れた越後をどう見るかはさておき、彼らの口からは一度も出ていないのだ。

 山内上杉復権のために力を貸す、とは。

「某も力をお貸ししたいとは思っております。それゆえに御身を越後に招いたのです。しかし、事はそう単純なことではありませぬ」

「何が必要なのだ? 銭か、兵か?」

「そのどちらでもありませぬ。そのどちらも、我が越後は持っておりますので」

「では、何だ?」

「大義です」

 景虎は強い言葉で言い放つ。他の全ては自分たちが持っている。だが、これだけは今の越後にはないのだと、そう言い切った。

「越後の軍勢が関東へ足を踏み入れる大義がないのです。上杉殿に兵をお貸しし、一時的に戦うことは出来るでしょう。平井城を奪還し、板鼻を取り戻す、ここまでは今の越後でも可能です。ですが、その先には続きません」

「貸せる兵だけでは北条相手には足りぬ、か」

「北条だけが相手であれば、やり方次第では戦えます。ですが、越後勢を率いた上杉殿、この構図ではおそらく、北条に与する関東諸侯も少なくないはず。北条も余所者ですが、我らはより遠き者。加えて、三条長尾家ですので」

「う、む、言われてみれば、そうであるな」

 関東管領を返す刀で討ち取った三条長尾家、長尾為景と言う存在は関東にとって忌み名であろう。彼の息子、その助力を以て関東へ凱旋、この構図を気に食わぬ者は一定数存在する。越後の者に関東を荒らされる可能性、これを考慮すれば北条へなびく可能性は低くない。戦力が割れるぐらいであれば良い方、北条方へ傾く可能性がある以上、越後も、関東諸侯も、皆が惑うこととなる。

 それではおそらく、勝てない。

「大義とは、具体的に何なのだ?」

「朝廷、いえ、帝、室町様、双方からの承認があれば」

「……つまりは、上洛、か」

「はい」

 上洛とは洛中へ上る、つまり京へ赴くことである。無論、ただ京へ行くことが目的ではない。室町幕府や朝廷からの招集によって馳せ参じ、何かしらの下知を賜る。それこそが上洛の意味である。大義を得ると同時に、周囲への箔付けともなる。

 景虎の望みは一つ、

「橋渡しが私の仕事、と言うことだな」

「お願い致す。両家のため、ひいては……東国の静謐がために」

「……承知した」

「ありがたし」

 関東管領、上杉憲当の傷だらけの権威にあった。憲当に残された最後にして最大の付加価値。これをダシに畿内から大義を得る。

 彼らもまた傷だらけ、弱り果てた権威であるが、それでもまだ日の本の国においては唯一無二の権威が象徴。特に朝廷、帝の言葉は未だ千の兵よりも価値がある。

 彼らから大義を得れば、越後の軍勢ではなく幕府の、もしくは朝廷の軍勢として関東に入ることが出来るだろう。さすれば、関東諸侯はなびく。

 一気に、とはいかないが。

「聞くに……銭は、如何ほど?」

「たんまりと」

「やってみよう」

 朝廷の財布事情。彼らにも余裕があるわけではない。銭の力である程度のところまではいける。実際に為景はそうして信濃守を得た。

 だが、銭だけではそこ止まり。

 それより多くを得るためには、やはり関東管領の名が必要なのだ。

 求むるは正義の刃。

「それはそれとして……釣りはいつ行きますか?」

「ふむ……明日はどうだ?」

「手配しておきましょう」

「あははは」

 否、正義を騙るための刃が、必要なのだ。


     ○


 関東管領上杉憲当、彼の越後入りを聞き各陣営が俄かに殺気立つ。

 甲斐では、

「くく、なるほどな。そう来たか。これは好機だぜ、俺たちにとって。あいつは示したんだ。攻め筋をな。信濃と上野、どっちもはきついだろォ?」

 武田晴信が今回の力技を笑う。窮地に立たされた山内が、まさか宿敵であろう越後の長尾の手を借りるとは、十年前では考えられないことである。

 だが、その手を取った以上、越後の進むべき道は一つ。

 関東への出兵、なれば――

「次郎!」

「わかっています。急ぎ、進めましょうか」

 信濃方面に全力を注ぐことは不可能となる。これは甲斐にとっては朗報であった。厄介な敵が、わざわざ遠くに大きな敵を作ってくれたのだから。

 甲斐にとっては吉報である。ただ、関東管領の使い方、それ次第では多少厄介な状況になり得るだろうが、それでも万全の越後と、いや、『あの男』が出て来辛くなったのは、甲斐にとっては間違いなく大きなことである。

 しかも、とても間の良いことに、

「難航している……三国同盟の準備を」

「おう」

 越後が作った敵は、これからの甲斐にとって――


 駿河、今川家もまたその報せに揺れる。

「……とうとう来ましたか」

「これが、答えですね。山内側の」

「ええ。そうです。ここで、彼が出てくるのだから世の中面白い。上手く機能してくれたら良いのですがね、両家とも」

「両家とは?」

「いえ、何でもありません。さあさあ、またしても東国が荒れますよ」

 一見するといつも通りに見える今川義元だが、何故か松平竹千代の眼には彼が少しだけ嬉しそうにしているように見えた。

 何となく、だが――


 そして相模、小田原では、

「やはり、越後か」

「窮鼠と見るべきか?」

「鼠でも虎でも、獅子には勝てぬよ」

「新九郎なれば、そうでなくてはな」

 まさかの憲当越後入りに国中が揺れる中、かつて因果の中にいた五色備の面々と彼らを統べる北条氏康だけは揺らぐことなく、現実を受け入れていた。

 来るならば来い。

 我らはもう、余所者にあらず。

 関東の覇者である、と。


 時代がうねる。ここより全ての役者が舞台に登る。三英傑が名を馳せる少し前の時代、東日本が誇る英傑たちの饗宴が今、静かに始まったのだ。

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