第佰五話:遠き日の因果、交わる
関東の雄、山内上杉の呆気ない凋落。これは関東諸侯の多くに新たなる雄は北条である、と示し、今まで北条へ降ることに難色を示していた家も一斉に動き出す。もはや北条への抵抗勢力は風前の灯火となった。
とは言え、未だ関東には名門の佐竹や里見、小田家などがおり、予断を許さない。が、小田は河越夜戦の二年後に大黒柱であった小田政治が急死し、息子の小田氏治が後を継いでいた。急な家督相続の後、と言うのは難しいもの。
北条と手を組んだ下総の結城家にいいようにやられ、すっかり消沈していた。しかし、何故か連歌会だけは欠かさず、加えて良いようにやられているにもかかわらず、家臣団の結束は存外強い。先代が優秀だったのもあるだろうが、
「民が疲弊しておるな」
「如何致しますか、殿」
「連歌会だ」
「……また、ですか」
「皆好きであろう?」
「ま、まあ」
この男もまた憎めない何かを持っていた。のちに不死鳥として後世に語り継がれる男、小田氏治。今はまだ連歌会大好き盆暗当主である。
年末年始の連歌会は死んでも開催する、そんな鉄の意志を持っていた。
とりあえず先代の死後、小田家は順調に下降線を辿っていた。
里見、佐竹は当然油断ならない。
そんな中、
「……どう思う? 孫九郎」
平井城を得た勝利を祝う宴の席から少し離れた場所で、北条氏康と北条綱成が並んでいた。平井城を、板鼻を得たのは僥倖である。これで関東における北条の絶対的な優位が形成されたと言っても過言ではない。難敵はまだまだ多いが、すぐに北条が敗れ滅亡する、と言う可能性は極めて低くなったと言える。
順調である。少々、
「……順調過ぎる」
「やはりそう思うか」
順調が過ぎた。特に上野国、山内上杉の支配圏に入ってからは散発的な抵抗はあれど、それ以上の速度で周りがこちらへ降り、板鼻攻めですら一度目の警告段階で、これは押し切れるのでは、と思ったものである。
腐っても関東の雄、山内上杉の陣営がここまで柔いものか。難物揃いの関東諸侯がここまで素直なのも少し奇妙である。死しても余所者などには与しない、そんな家がもう少しあってもいいような気はする。
無論、武家にとって一番重要なのは家を後世に残すことであり、その観点から見れば長い者に巻かれる、強い者になびくのは当然の理。
不自然と言い切ることは出来ないが――
「長野は曲者だな」
「理由は?」
「何となく」
「酷い話だ。が、同感だ」
山内上杉の家臣をまとめ、北条へ降った首謀者は長野業正である。さすがあらゆる手を駆使してのし上がってきた男、如才ないと思ったものだが、冷静に考えた時あそこまできっちり裏切りの算段を整えていたのも妙な話である。
新たな主へ、己の優秀さを示すために端から準備していた、決してない話ではないし、あの男の経歴を考えても充分理解出来る。御家第一、自らが急伸するために娘を、血縁を駆使して遮二無二上がって来た男である。
おかしな点はない。北条としてもあそこまできっちりと他家をまとめ、無駄な血を流さずに済んだことはありがたい話であり、評価すべき点であろう。
ただ、
『申し訳ございませぬ。本来であれば憲当の首をご用意すべきでしたが、嗅ぎ付けられたのか城から逃げ果せられました』
これだけ全てを上手くやってきた男が、上杉憲当の首を逃すなどと言うことがあり得るだろうか。物事に絶対はない。それだけで疑うのは可哀そうなのかもしれない。しかし、如才無き男の抜け、果たして抜けか、故意か。
「しかし、上杉自身の亡命は佐竹から断られたと聞く」
「ああ。ただ、佐竹は清和源氏義光流の末裔として気位が高い。関東管領職に食指は動いても、上杉の家名に関しては要らぬ、と答えたらしい。そこに関しては長野から色々と聞き及んでいる。亡命を断られるように上杉家の家督継承を条件に設けさせたのは自分だ、などと言っておったからな」
「それが成れば抵抗の目はあった。と、考えると長野めは白く見えてくるな」
「確かに」
肌感覚として何か仕掛けがある気はする。ただ、佐竹を蹴って選ぶ相手、と考えると途端に思考は行き詰まるのだ。北関東の端、沼田氏も名門ではあるが最後の一線として頼りになるか、と問われたなら厳しいだろう。
されど、今の上杉憲当に頼るべき場所など、他にないような気もする。であれば、そう仕向けた長野は潔白であると言えるだろう。
実質的に彼が山内上杉を仕留めたと言ってもいい。
そこに活路が無ければ、であるが。
「……越後」
氏康がぽつりとこぼす。沼田氏の領地を抜ければ、越後には至る。だが、山内上杉にとって彼の地は鬼門、関東の雄が大きく傾いた因縁の場所である。
頼るとは思えない。頼ったとして、佐竹よりもずっと手を組む可能性は低いと思える。片や領地を脅かされた側、片や当主を討ち取られた側。
それは根深い傷であろう。
だが、
「……不思議だな。理性ではあり得ぬと出ているのに、ふっと飲み込むことが出来た。越後か、まこと、我らにとっても因縁深きところだな」
「ふふ、おとら殿、か。懐かしい」
「彼女が憲当の後ろに付いたら、くく、どうする?」
「……望むところだ」
彼らは何故か、そうなのではないか、と考えることが出来た。理屈はない。越後長尾家が山内上杉を受け入れる道理は薄い。
それでも、最悪は想定しておかねばならない。
「孫九郎、ぬしはどうだ?」
「俺も同じ、だ」
もちろん、そう思ったからと言って彼らに出来ることは精々が気構え程度。越後長尾と山内上杉が手を組む、などと言っても誰にも相手されぬだろう。
理屈を述べられぬ以上、それはないも同じである。
「おとら殿はさておき、一応頭の片隅に入れておかねばな。越後守護家は確か途絶えたのだったな……守護代行、三条長尾当主の名は――」
「長尾平三景虎、だったはずだ」
「……越後では虎の字が流行っているのか?」
「さてな」
遠い異国、今の相模と越後はそんな関係である。北条と長尾も同様、耳をそばだてねば情報一つ入ってこないのだ。現代とは情報の速度、広がり方がまるで異なり、離れた土地の情報が正確に入ってくる方が稀である。
今の彼らは長尾景虎の名は知っていても、その姿は知り得ない。その実力も、彼がどういう人物であるのかも、想像するしかない。
頭の中に座すは、あの時の女傑。北条が誇る精鋭六人と氏康を相手取り、対等に渡り合った女の顔が浮かび、消える。
再会も、再戦も、ありえない。先ほどのは冗談である。女が戦場に出ることなど、この時代ではよほど差し迫った状況しかありえない。彼女が今健在かどうかもわからないし、本当に越後の人間なのかも不明である。
まさか彼女が長尾景虎本人など、彼らの想像には存在しない。だからこうしてあの奇縁の思い出に浸り、微笑むことが出来るのだ。
もし『彼女』が本当の意味で敵として立ち塞がったら、彼らは絶対に笑わない。笑えない。全身全霊、命を賭して戦う覚悟を決めるだろう。
知ると知らぬの差、ここが後に明暗を分ける。
○
味方を失い、北関東の端、沼田氏の所領にまで落ち延びてきた上杉憲当。その凋落っぷりからして悲壮感が漂っていると思われたが――
「よくおいで下さいました、御屋形様」
「うむ、しばし世話になるぞ、沼田よ」
「はっ」
彼の周囲も、彼を受け入れる沼田家当主、沼田顕泰にも悲壮感は見受けられない。それどころかこうなるのが当然と言う風である。
「越後の様子はどうだ?」
「少し前はそれを苦慮しておりました。我らと所領を接する上田長尾が、新当主との確執のため反旗を翻したのです」
「上田が? それは大事ではないか。我ら山内との戦で名を落としたとはいえ、関東にも名が轟く名門。かなり長引くのではないか?」
「ご安心を。すでに夏を以て決着いたしました。黒田の件などもあり期待はしておりましたが、もしかすると今の当主は当たりかもしれません」
「……上田を、一年も経たずに、か」
「戦はかなり荒いようですが……成るやもしれませんな、長野殿の策が」
「そうであれば、よいのだがな」
「御屋形様の目でご覧くだされ。越後の虎、果たして関東を背負うに足るか、を」
「私の見立てに意味はない。が、見定めてくるとしよう。それが責務であろう。其の方らの献身、山内の名に懸け決して忘れぬぞ」
「はは!」
沼田は越後との接点であり、彼を通し伊勢姫などのやり取りをしている。関東諸侯の中でも今回の件を知る、数少ない人物でもあった。
長野業正、渾身の策。
面従腹背。
使えそうな関東諸侯を取りまとめ、極力傷を抑えて相手の中に入り込み、そこで雌伏の時を過ごす。いつか、立つために。
「……それはそれとして、長野殿は信頼に値しますかな? あの男のやり口を知ると、このまま北条に与することも考えられますが」
「そうさな。私もそう思った。だが、あの男は言ってのけた。今更北条に与するは時すでに遅し。北条家の長い列を待つ気はない。御家発展のため、大きく勝てる方につきまする、とな。強欲な男なのだ、あれは」
「ふは、なるほど。大きく勝つと来ましたか。なれば私も乗りましょう」
「期待せよ。私ではなく、長野の勝負強さを。何よりも、越後の長尾を、な」
「まさか、あの男の子に命運を託す時がこようとは……奇縁ですな」
「私は世代ではないのでな。その辺りの確執はわからぬよ」
「それがよろしいでしょう。今は、ただの枷でしかありませぬ。古い世代の確執など、投げ捨てられたなら、そちらの方が良い」
沼田顕泰にとって山内上杉の当主は憲当の祖父に当たる『豪傑』上杉顕定であろう。混迷を極めた関東で四十年関東管領を務めた怪物であったが、あの『百戦錬磨』である長尾為景によって討ち取られた。
彼らの世代からすれば、崩れ落ちかけた山内を潰した北条よりもよほど憎い存在が、越後の三条長尾家、と言うよりも長尾為景なのだ。
されど今はその感傷、邪魔でしかないと沼田は言い切る。
「長い旅になるな」
「はっ」
越後の虎、長尾為景の子が山内上杉の命綱となった。
その奇縁、果たして吉と出るか凶と出るか。
○
天文二十一年(1552年)、年が明けて雪解けを待ち、山内上杉当主、上杉憲当が越後入りを果たす。山内上杉当主が越後に至るのは永正六年(1509年)から実に43年ぶりのことであった。一つの因果が今日、今一度交わる。
「よくぞ参られた! 某の名は長尾平三景虎であります」
「山内上杉家当主、上杉兵部少輔である。世話になる」
「すでに館は用意してございます。ごゆるりと、お寛ぎくだされ」
「かたじけない」
長尾為景が四男、長尾景虎と上杉顕定が孫、上杉憲当が邂逅する。
これが越後にとって、いや、東国全体にとっての分水嶺であることは、今はまだ誰も知らない。今はただ、片田舎に傷だらけの権威が落ち延びて来ただけ。
それだけのことである。
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