第玖拾捌話:いつか見た夢
人払いした館の一室に二人はいた。殺風景な部屋である。女性は少し怪訝に思う。その部屋は何処か、彼女の知る男のそれとは趣が異なっていたから。彼ならばきっと、沢山のガラクタに囲まれて、城を築いているような気がしていた。
実際にかつての虎千代は自らの離れに何でも詰め込み、城の模型や金津の奥方より貰い受けた琵琶、弓や太刀、石ころ、あらゆるものを詰め込んでいた。
今は、何もない。
具足と太刀、碁盤、それらだけが飾られている。
「縮んだのぉ」
「……そちらが大きくなられただけかと」
「ぶは、俺は伸び、ぬしは伸びなかった、か。マタギの野望は叶わず、こうして越後くんだりまで来ることになろうとは……ぬしは運が悪いのぉ」
「運が良い方では、ないと思います」
あの頃は景虎の方が小さかった。しかし今は、頭一つとまではいかなくとも景虎の方が大きい。二人の印象も他者から見れば変わっただろう。景虎はあの頃よりもより強く、大きくなった。彼女は垢抜け、洗練された美しさを得た。
「虎はどうした?」
「嫁入りする時に、連れていけないので野に返しました」
「……そうか」
二人からはもう、あの頃の夢は感じ取れない。
「嫁入りした先はどうであった? いびられたか?」
「よくしてもらいました。不器用だったので、迷惑は沢山かけたけど」
「ぶはは目に浮かぶ」
「主人は優しい人で、子を成してからは皆も受け入れてくれて――」
彼女の話を聞く景虎の顔は穏やかで、驚くほどやさしく見える。何だかんだと人は適応し、その中で幸せを見つけるもの。そんな普通の匂いを、彼女から得る。
かつて思い、願っていた風景とは違えど、きっとそれは――
「だけど――」
彼女は突如、口を押さえ、えずく。
「……顛末は長野より聞いておる。これ以上、話す必要はない。傷を抉る話題であったな、すまぬ。俺の配慮が足りなかった」
「……いえ」
彼女にとっての悪夢。ようやく得た新たな居場所を、北条の手でズタズタに引き裂かれてしまった。優しい主人も、可愛かった嫡男も、全部。
「虎千代、いえ、守護代行殿であれば、どう、されましたか?」
奇妙な質問であった。言った本人も文脈が滅茶苦茶で、伝わったとは思えなかったし、すぐに訂正しようと口を開くも――
「それはどちらの立場として、だ?」
景虎はただ、汲み取る。彼女本人すらわからなかったことを。
「……両方、です」
それは、
「伊勢守殿の立場ならば、俺は負けん。そも、河越で北条が勝つということもなかった。と、勝手に思っておるよ、俺は。武士なれば、負けた方が悪いのだ。奪われた方が悪い。弱い者が悪い。それが武士の世界であろうよ」
「……はい」
彼女の嫁ぎ先、伊勢守の立場に彼が成った場合。
「北条側の立場なら――」
彼は長野業正の文より、彼女とその周囲がどうなったのかを伝えられていた。あの男も如歳無き男で、より悲劇の色が強くなるよう事細かに書き記していたのだ。景虎が同情するように、と言ったところであろう。
少しでも策の通りを良くするための苦心、さすがは政治屋と言ったところか。まあ、そのおかげで大体のことは頭に入っている。
その上で、
「俺も同じことをする。いや、俺ならぬしらも逃さんな。古今、同情で生かし災いと転ずる話は山ほどある。無論、災いとならなかったことも多々あっただろうが……どちらにせよ北条を恨むのは筋違い。負けた方が悪い。それだけよ」
「……あの子はまだ、何も――」
「阿呆。俺もぬしも、武家に生まれた者は皆、その時点で宿業を背負う。赤子は運が悪かったと思うがの。それも含めて、力だ」
景虎は立ち上がり、彼女一人残して部屋から出ようとする。
「ぬしは山内上杉が送り込んだ人質、それ以上でもそれ以下でもない。俺に武士以外を期待するな。ぬし同様、俺もとうの昔に夢は捨てた身だ」
背中が語る。もう、かつてとは違うのだと。
「俺はな、再会を喜ぶ気はない。あんな童の時分の薄弱な約定に縋るほど、ぬしは八方塞がりとなり、家族を失い、故郷を離れ遠く越後まで来た。不幸であろうよ。敵を憎むのも仕方あるまい。だが、忘れよ。ぬしは今、人質以外の何物でもない。俺はぬしを娶る気はなく、人質である限り誰かに嫁がせる気もない。さて、俺の言っておる意味が、わかるか? 伊勢姫、いや、千葉梅よ」
「……承知しております。御前は守護代行殿であれば、私のような後家の、格も低い女が御目通りかなうことも奇跡のようなこと。今後は謹んで――」
「ぶはは、やはり阿呆だな、ぬしは」
「……?」
「しばし待て。すぐに阿呆のぬしでもわかるであろうよ」
そう言って景虎は部屋から出て行った。千葉梅はただ一人、景虎の部屋に残されて、何をすべきなのかわからぬまま、ただ座し続けるしかなかった。
○
「随分とご執心ですね、御屋形様」
会所に集っている重臣たちの下へ向かう途中、柱の陰から誰かが声をかけてきた。普段より随分低い声である。普段より随分、
「目つきが父親と似てきたの」
「……」
鋭い目つきをした直江文がそこにいた。
「ぶは、らしくない」
「らしくないのはそちらでは? 自らの容姿に絶対の自信を持つ御屋形様が、敗れて悔しがるどころか嬉しそうに笑われる所など……初めて見ました」
「それはそうだろう。俺よりも優れた容姿など、早々巡り合えるものではない。山内上杉が自信を持って送り出してきた理由を知り、笑っただけだ」
「そうは見えませんでしたが?」
「どう見えた?」
あの男、直江実綱の娘。
「旧知の仲に見えました。何故でしょうね?」
加えてあの碁の強さ、努力だけで辿り着ける境地ではない。この眼が、どす黒く景虎を覗き込もうとする黒き眼が、微かに今の己を気圧す。
「ありえぬな」
「そうですね」
「話はそれだけか?」
「はい。お忙しい所、くだらぬ話に付き合わせてしまい申し訳ございません。彼女の身の回り、私がお世話しておきましょうか?」
自分だけならばいざ知らず、梅に文の相手は務まらない。この館で生活を共にする文が梅に近づかぬ事など、命じたとしても無理があるだろう。
暴こうとしている彼女を止めるのは、おそらく不可能。ゆえに、
「……後で話す。ゆえ、今は何もするな」
景虎は折れるしかなかった。
「……御意」
こんな部分で親子を感じたくはなかった、と景虎は内心ため息をつく。せめてこうでも言い含めておかねば、何をするかもわからない。直江実綱には何をするかわからぬ怖さはあるが、同時に武家の当主と言う縛りもあった。だが、直江文にはそれがない。それどころか彼女は、いつか父に排除される可能性を理解しながら、それでも景虎の下を選び、傍で仕え続けている女である。
失うものなど何もない。縛りもない。
敵にするのは得策ではないが、さりとて味方とするのも難しい。
今回の件は、特に。
(わかっていても譲れぬ。悪いが、これは俺の矜持でもあるのだ)
それでも景虎は歩みを止める気はない。かつて、抱えられるだけの夢を腕の中一杯に抱き、それらを宝物だと思っていた。今となってはガラクタでしかないが、それでも抱き、夢見た日々はあった。だから、今回だけは退けぬのだ。
今回だけは譲らぬと決めたのだ。
○
揚北衆はさすがに来ていないが、春日山に館を構える重臣たちは皆、この場に集まっていた。大熊、柿崎、斎藤、金津らいつもの顔ぶれはもちろんのこと、直江や宇佐美、本庄らも景虎の代になってから活動の拠点をこちらに移しつつあった。
景虎の構想は晴景と真逆、兄はそれぞれの城主らを信じ、彼らが現地で効率的に差配することを求めたのだが、景虎は彼らを微塵も信じておらず期待もしていないため、こうして春日山へ人も物も、全てを集め中央集権を果たそうと目論んでいた。最終的には揚北の面々も、己の目の届くところに置くつもりである。
こうしてちょっとした時に集まることが出来るという利点もある。
「待たせたの」
上座にでんと構え、皆を見渡す景虎。当然のように彼らの顔には困惑の色が強く在った。山内上杉から送られてきた人質、その扱いを考えあぐねているのだろう。幾人かはおそらく、彼女の素性を洗っているはず。越後と上野、山に隔てられているが、実際の距離はそれほどでもないのだ。必ずやっている。
特に、
「御屋形様、あの娘、如何なされるおつもりで?」
直江実綱は、その辺り手抜かりのある男ではない。
「どうもこうも、人質としてのびのび暮らしてもらう。気を悪くされても面倒であるからな。が、歓待はせぬよ。あまり下手に出ても越後が軽く見られかねんのでな。俺の目の届く範囲で、ただの女として扱う。問題はあるか、実綱」
「いえ、ありませぬ。ただ、この場の多くが思うことと思いますが、御屋形様の目から見てあの娘、どのように映りましたか?」
「……どのように、とは?」
「容姿はさすが山内上杉家が送り込んできただけあり、大変優れているように見受けられました。そして、御屋形様もそろそろ、そういう時期でありましょう。実力者である長野殿との伝手を鑑みても、良い相手と思うのですが?」
「直江殿!」
実綱がまさか伊勢姫との婚姻を推奨するとは、この場の誰も思っておらず皆が驚愕していた。誰よりも驚いた柿崎が声をあげる。
「何か?」
対する実綱は平静そのもの。
「その、直江殿の娘が彼の下で仕えているのですから、そのようなことは――」
「それが?」
実綱の眼は微動だにせず、ただ一つとして揺れていない。それを見て柿崎らは息を呑んだ。この男は心底、娘に対して興味がないのだ。
いや、娘だけではない。
「それで、御屋形様。どう思われますかな?」
長尾景虎だけが――
「どうも思わぬ。会ったばかりぞ。それに、俺の印象は違うの。あれは猫かぶりだ。そもそも、長野の縁者ではあるが血の繋がりはあまりにも遠い。伝手と言うには薄すぎる。後家だしの。あれを嫁に向かえること自体、下に見られかねん」
「ほう。よくご存じで」
「ぬしほどではないが、俺も調べ物は好きでのぉ。色々と調べた。あの女は俺と格が釣り合わぬ。まだ、ぬしの娘の方が釣り合おうよ」
「……ありがたきお言葉」
娘を使い。実綱を黙らせた景虎は皆に視線を向ける。
「とは言え、俺が関東管領を得るため、あの女には好きに過ごしてもらうつもりだ。無論、俺の目の届く範囲での。皆も気を付けよ。あれを傷つけるは俺の野望を損なうに等しい。手出し口出し無用、要らぬ世話は、身を滅ぼすと知れ」
空気がひりつく。これだけ真っ直ぐと脅す景虎は珍しい。金津義旧など驚きに目を見張るほどであった。だからこそ、実綱の顔を曇るのだが。
「顔色が優れんな、実綱。良い医家を紹介してやろうか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうかそうか。俺はぬしを信頼しておるし、必要だとも思っておる。身体はしかと労わることだ。何かあってからでは……遅いからのォ」
長尾景虎はわかりやすく実綱に告げた。ここが己の逆鱗であるぞ、と。もしそこに触れてみよ、直江だろうが何だろうが、跡形なく消し飛ばすぞ、と。
そう、言外に伝えた。
「義旧よ、あとで話がある、良いか?」
「はっ」
「青苧座も絡むのでな。ぬしの手がいるのだ。他の者は解散してよい。あの女に関しては俺が全責任を持つ。これで話は終わりだ」
これで伊勢姫、千葉梅が長尾景虎の嫁となる線は消えた。景虎が完全に否定し、格の話まで持ち出した以上、これはもう動かし難い現実であろう。
山内上杉、関東管領を得るために必要な人質、それが彼女の全てである。
この状況こそが、
「――まだいけるか?」
「なるほど。でしたらこの手はどうでしょうか?」
「ほほう。さすがに強請り集りは上手いのぉ」
「褒められている気がしませんが」
「ぶははは!」
長尾景虎の狙いであった。
○
全てを失い、板鼻で過ごした日々と同じ無がそこに在った。守護代行として忙しそうにする彼のおかげで、今の自分は越後にいる。だが、何の役割もなく放置されている状況は、あの頃と何も変わりなかった。
部屋を与えられ、ただ飯を頂き、寝て、起きて、また飯を食べる。
たまに夫を、子を思い出し、吐く。
そんな日々が過ぎて、
「今日は暇なのだ。狩りに付き合え!」
「……え?」
突然、景虎がふすまを開けてずかずかと入り込んでくる。
「行くぞ」
「え?」
「呆けるな、阿呆が」
そのままひょいと梅を持ち上げ、荷物のように運び出されてしまう。館の外、連れ出された先には、一頭の立派な体躯の馬が繋げられていた。
「俺の馬には及ばぬが、それなりの馬だ。うむ」
「これは?」
「ぬしのだ」
「……え?」
梅を地面に下ろし、今度はその辺の荷物を漁って、
「これもやる」
随分と厚く、頑丈に造られた手袋を彼女に向けて放った。
「これは、革の手袋、ですか?」
「おう。俺も遊んでみたが、あまり性に合わなくての。捨てるのも勿体ないのでな、それらもぬしにくれてやる」
景虎は悪戯っぽく笑いながら、布に覆われた何かに手をかけた。それを引っぺがし、布の下に隠されていたそれを見て梅は呆然とする。
「鷹」
「虎と同じハイタカだ。あれほど立派な体躯ではないが、雌だしデカい。馬も鷹もくれてやる。世話は自分でせよ。俺に生き物の世話は向いておらぬ。持の字もあれでビビりでな、鷹にも侮られているのだ。使えん近侍よなぁ」
「だって、鷹も、馬も、とても、高価」
「俺を誰だと思っておる? 越後国守護代行、長尾平三景虎様ぞ。金などな、ちょいと強請ればいくらでも湧いてくるのだ、ぶはははは!」
「私は、武家の女で、こういうことは、もう」
「やはりわかっておらんだか、阿呆が」
鷹の目隠しを外し、檻から彼女を解放する。彼女は一目散に飛翔し、迷うことなく『ご主人』と判断した者の腕に、停まる。
「今のぬしは人質以外の何物でもない。俺が娶らず、俺が嫁がせぬ以上、ぬしは武家の女ですらないのだ。人質と言う役割以外、今のぬしを縛る物は何もない」
「……あっ」
ようやく、梅は景虎の真意に辿り着く。
「故郷とは勝手が違うだろう。人質の役割を剥ぎ取ることも、俺には出来ぬ。だが、それ以外は俺が奪わせてもらった。俺の膝元、春日山であれば、ぬしの生き方に誰も指図はさせん。これでも偉いのだ、俺は。ま、あとは好きにせよ」
あの頃夢見た妄想。絶対叶わなかったはずの、馬鹿げた夢。
「だけど、私は、虎千代に、何も、してあげられない。それなのに――」
「阿呆。俺に出来なかったことを、ぬしが体現するのなら、それはまあ夢の続きで、俺の馬鹿げた夢たちも、多少は浮かばれるのだ。それで充分」
武士の、国の、柱と成った男は満足げに微笑む。
「ぬしは自由だ」
春日山ではな、と重ねて付け足す景虎。
千葉梅は泣いていた。今まで流していた、枯れ果てるほどに流したものとは全然違う温かい涙であった。どうしようもなく、ただただ助けて欲しいと手を伸ばしただけなのに、彼は自分ごと風化していた夢まで一緒に引っ張り上げてくれたのだ。
ほんの僅かな、ほんの少しだけ道が重なっただけなのに。
「ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない。俺は俺のためにやったのだ」
「それでも……ありがとう」
「ふん、阿呆が」
千葉梅は泣き、そして笑った。その笑顔を見て、景虎もまた静かに微笑んだ。
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