第玖拾漆話:今時を超えて――

 天文十九年、九月。信濃ではまたも武田晴信の前に村上義清が立ちはだかった。東信濃での戦いにおける重要拠点である砥石城。ここを巡る激戦が繰り広げられていた。戦力差は十倍以上、武田七千の村上五百もの差があった。

 しかし、この小城、相当な難物である。東西を崖に囲まれ、攻め所は一か所でしかもそこも砥石の名を表すような崖と言う有り様。

 天然の要害であり、小城ゆえ実際に稼働出来る人数も限られている。

「……くそ」

 それでも勝算はあった。今回、城攻めの主攻を務めるのは足軽大将の横田高松であった。弓の名手であり、高齢ながら武田軍の中でも信頼が厚い。何よりも彼は上田原で散った甘利虎泰の相備えとして重用されていた男である。

 村上相手の士気は凄まじいものがあった。

 だが、

「殺せェ!」

 それは相手も同じこと。いや、それ以上に目を血走らせ城を死守してくるのだ。おそらく彼らは志賀城などの残党。妻子が乱取りなどで辱めを受けたことで、死んでもここは通さぬという気迫に繋がっているのだろう。

 甘利の仇討ちがあってなお、士気はあちらに軍配が上がる。

「顔を出せ、村上! 臆したか⁉」

 横田の脅しも通じず、村上義清は顔を出してこない。この砥石城は東信濃の防衛線を構築するため、必須の拠点である以上、彼がここにいないとは考え難い。しかし、開戦してからここまで彼は一度として姿を見せてはいなかった。

「…………」

 死闘が繰り広げられる中、武田晴信の周りには静寂があった。戦場を俯瞰しているような感覚。味方が見える。相手も見える。

 だが、村上が見えない。

 あの砥石城に村上がいないとすれば、彼は何処にいると言うのか。現在、ここ以上に守るべき優先度の高い拠点は存在しない。

 必ず彼はここを手放さぬよう動くだろう。小笠原と連携、これをさせぬために弟の信繁らを諏訪の抑えに回した。どちらにせよ、七月に居城である林城を失った男、すでに翼はもがれたも同然であろう。今の信濃守護に力はない。

 ならば――

「……何かある、ような気がする。それが何か、わからないが」

 今まで以上に戦場が見えている。かつての自分ならば浮かれてしまうほどに。新たな確信、されど彼は知る。感覚の限界を。

 情報が足りていないのだ。僅かでも村上の足跡さえつかめていたなら、ここまで考えこむ必要すらなかった。信濃の兵、その士気が高いことなどわかり切っていた。それは自らのまいた種、信繁も気を付けて欲しいと言っていた。

 そもそもあの時、無駄に信濃の民を蹂躙せねば、砥石城の堅固さも弱まっていたはず。全ては己の至らなさが、傲慢が招いたこと。

 そこはすでに改善した、と思っている。今後は上手くやる。

 その上でまだ、必勝には足りていない。

(情報だ。村上義清は徹底してそれを見せないよう立ち回っている。俺に思考の欠片を与えてこない。それがあの男のやり方、勝ち方――)

 勝つために必要なのはより多くの情報。それを如何に自分たちだけが得て、相手に掴ませぬか、それが戦の巧拙、である。

 情報さえあればもっと見えるようになる。

 そも、戦う必要すら――

(そうか、だから――)

 脳裏にチラつくは今川義元の背中。今ようやく、あの男の背中が見えたような気がした。まだ遠い、だけど着実に近づいている。

 少なくとも底知れぬと感じていた頃とは違う。

 情報を支配し、戦いの勝敗に拘泥せず、敗北すらも次の一手のため布石とする。急がば回れ、あの男は三国を得た。

「……退くぞ」

「御屋形様⁉ ここを落とさねば信濃攻めは――」

「むしろ遅過ぎた。ここを戦って落とすと決めた時点で、俺の失着。皆には済まぬことをした。だが、次は間違えない」

 武田晴信は今、不思議な感覚に包まれていた。本陣にいるのに、戦場全体を見渡しているような、神の目線。今はまだ不完全。

 ただ、これを元にこれからの立ち回りを組み立てたなら、

(負けない。いや、負けすらも――)

 勝利は必定。否、必定とするべく動くことこそ、勝ち続ける者のすべきことであった。戦って勝つも戦わずして勝つも同じこと。

 そこに熱は、要らない。


     ○


 撤退の動きを見せた武田軍。それに対し村上義清は歯噛みする。砥石城を攻め落とす選択をした時点で、武田晴信は固執するはずだった。固執し、執着し、消耗し続ける。頃合いを見て背を突くはずが、まさか撤退の判断を下すとは。

 今までになかった立ち回りであろう。貪欲に勝利を欲する若き武士からは考えつかない選択肢を、彼は選び取った。上田原ではこちらも損耗が大きく、潰し切れなかったが、今回は砥石城を餌に潰し切るつもりであった。

 武田晴信を討ち取り、信濃を守り切るつもりであったのだ。

「殿!」

「かかれ! 武田晴信を、逃がすなァ!」

 村上義清の直感が告げる。変わったあの男を逃がしてはならない、と。若く、力が漲り、それだけだった男の危険度が跳ね上がった。上田原が、そしてこの砥石城での戦いが、村上義清の手によってもたらされた敗戦が――

「……そうか、仇敵である高梨を頼ったか」

 遠く、合うはずのない視線が、村上義清と武田晴信の間で交錯する。彼に驚きはない。すでに敗戦を受け入れている。いや、今回の敗戦を、犠牲を、痛いとも思っていない。大局での勝利をもぎ取るためならば、負けてもいい。

「ならば、もう一押し」

 武田晴信は彼が来た方向、そして陣容を見てようやく合点がいった。村上義清はこれまで対立を続けていた高梨政頼と和睦を結び、彼の兵も借りて攻め寄せてきたのだ。もしかすると、すでに内々では和睦自体結ばれていたのかもしれない。

 甲斐武田を信濃全体の脅威と認識し、信濃の国衆同士が手を結ぶ。ない話ではないだろう。てっきり居城の葛尾城から機を見計らっている、ぐらいに思っていたが、やはり情報が足りていなかった。これは見えない。

 知らぬものは見えない。ゆえに知らぬことをなくすのが肝要。

「横田」

「はっ」

「次は必ず勝つ」

「では、某が捨て石となりましょう」

「頼む」

「板垣殿、甘利殿と共に、御屋形様のご活躍を眺めております」

「おう。恥じぬ生き様を、見せるとも」

 横田高松は全盛期の武田信虎を知る。板垣を、甘利を、率いて甲斐を駆け回っていた頃の大虎を、知っている。ようやく彼は至った。

 しかも信虎より若くして――ならば、超えるのだろう。

 己が死も、その一助となる。

「甘利殿、お待たせ致しましたな」

 これで心置きなく、戦場で散ることが出来よう。良い土産話が出来たと横田は笑う。自分も、自分の部隊も、気付けば随分老いた。後進に座を譲る時が来たのだと思う。板垣や甘利ら同様、比較するほどの武士ではないと自嘲しながらも、寄る年波と言う意味では同じこと。老い、衰え、死に場所を探していた。

 ずっと戦場で生きてきた。

「さあて、最後の一仕事ぞ!」

「応!」

 ならば最後もまた、戦場で。彼らは皆、笑って散った。

 甲斐は今日、多くの歴戦なる勇士を失った。

 これが世に言う砥石崩れ、である。武田晴信二度目の大敗、失った戦力は攻城戦も含め千を超える。上田原ほどでなくとも、間違いなく大敗であろう。

 だが、

「……ぐ、ぬ」

 勝った方の、村上義清の顔に笑みはなかった。


 実際に翌年、砥石城は甲斐武田の手に落ちる。戦はなく、現地にゆかりのある真田などの手を借りた『調略』によって、武田方は無血で重要拠点を得たのだ。これで信濃における趨勢は決した。ここからはもう、血など最小限で十分。

 村上義清による二度の敗戦が、武田晴信を虎とした。


     ○


 武田晴信が二度目の敗北を喫した頃、越後では直江実綱が難しい顔をしていた。方々で集めさせた情報から、伊勢姫なる人物を調べていたのだ。

 調べれば調べるほどに、奇妙な点がいくつも浮かんでくる。まず、彼女本来の成果は山内上杉に属する千葉家、という小豪族らしい。伊勢守は嫁いだ先の受領名であり、普通女性の名は生まれた土地や家柄に付随するものである以上、彼女は千葉姫や名で呼ばれるべきであろう。そもそも、長尾とは格が違い過ぎる。

 山内上杉にとっても苦境であり、長尾家相手ならこの程度の相手で良いだろう、などと彼らが考えるわけがない。この女性よりも格の高い姫などいくらでもいるだろう。むしろこれより低い武士の娘を探す方が難しい。

 だからこそ、無理やり嫁いだ先の受領名を名乗っているのだろうが――

「……何のために?」

 無駄な手間である。腐っても山内上杉、もっと手頃な娘はいくらでもいるはず。それなのに何故、彼女が選ばれたのか。

 彼女でなければならなかったのか。

「まさか、そのようなこと、あるわけが」

 一瞬、頭の中に過ぎった妄想。彼は常々、己が見通すことの出来なかった長尾虎千代の旅路を妄想していた。如何なる道を経て、彼は歩み、帰って来たのか、を。その時の縁、そんな偶然あるわけがないと彼は己の妄想を一笑に付す。

 ありえない話である。旅先で出会い、遠く離れた異国の女が、人質役として越後にやってくるなど、荒唐無稽にもほどがある。

 何よりもありえないのは――

「…………」

 今の長尾景虎が彼女を受け入れたということは、そのようなものに執着しているということ。それは絶対に許されない。

 ただの女であればそれで良し。そうでなければ――

 直江実綱の眼が薄く、見開かれる。


     ○


 天文十九年、十月末。冬の到来を前に一人の姫が越後へやって来た。

 幾人もの従者に導かれ、大層な駕籠で運ばれているのは関東管領山内上杉の意思表示、なのであろう。安い女を送るわけではない。彼女は守護家に、我が関東管領家の女に匹敵する存在なのである、と乗り物で示していたのだ。

 春日山では早速、この駕籠に乗る御方こそ、三条長尾家当主長尾景虎の奥方になる人だ、と口々に噂していた。好奇の目が彼らに集う。

「文殿、よろしいのですか?」

「良いも悪いもないでしょう。山内上杉殿から送られてきた女性なのですし、無下になど出来るはずがありません。さ、表に参りますよ」

「は、はい」

 直江文と甘粕景持は何とも言えぬ表情で、館の外に出る。甘粕からすれば文以外にありえないのだ。景虎を理解し、支えられる女性など。

 いきなり現れた者がその座を奪うなど、道理にそぐわない。

 そう思うのは彼だけではないようで、柿崎や斎藤ら彼女の働きを知る者たちは一様に顔をしかめ、歓迎する様子は見せていなかった。

 それでも相手は山内上杉の使者でもあるわけで、春日山近郊に住まう者たちは皆、館の前で今か今かとその時を待つ。

「御屋形様」

「むう、俺も表に出ねば駄目か? 腹が痛ぉなってきたのだが」

「……え、ええ?」

 明らかな主君の変調に、呼びに来た大熊朝秀は驚愕してしまう。最近、越後の曲者共に圧を振り撒き、力関係を示さんとした男とは思えぬ縮こまり方。

 これではもう、その辺の男と変わりはないだろう。

「しゃ、しゃんとなさってください」

「む、むう」

 ごねる景虎。大熊との攻防はしばらく続き、

「変ではないか?」

「ご立派です」

「そうかのぉ」

(ど、どうなっているのだ?)

 普段は着るものなど適当な癖に、今日に限っては随分時間をかけた。と言うよりも優柔不断であった。ああでもない、こうでもない、大熊は呆れるしかない。

 とても黒田一門を滅亡させた男には見えなかった。

「来たか」

 山内上杉の従者が、次いで立派な駕籠が見える。駕籠など生意気だ、武士の娘ならば馬に乗ってこい、と柿崎らの眼は言っていた。

 まあ、確かに駕籠が移動手段として下々にも広まるのは江戸時代以降の話。今は大体馬での移動が主である。

「姫、御屋形様の御前になりまする」

「はい」

 とうとう、越後勢の前に謎の伊勢姫とやらが姿を現す。いったい如何なる人物なのか、直江実綱ほどでなくとも調べた者らからすれば奇妙な経歴である。

 そもそも、後家を送り付けて来るとは何事か、と考える者もいる。側室であればともかく、もし正室ともなれば後家では多少見栄えが悪い。それは越後の国主として如何なものか、と考える者もいるだろう。

 まあ、結婚するなどとは誰も言っていないのだが。

 駕籠から、足が伸びる。さあ、如何なる女子か、とくと――

「…………」

 見てやる。難癖をつけてやる。そう思っていた者たちは皆、言葉を失っていた。女が一人、駕籠から降りただけである。着物は確かに美しい。山内上杉から送られてきただけあって、上質な布を使っているように見えた。

 だが、そんなもの誰も見ていない。

 女が歩く。粒子のような髪が、たなびく。

「……っ」

 直江文は、彼女を見て、景虎を見て、唇を噛む。絶対ありえないと思っていた。あの男が誰かを、女性を、特別扱いすることなど。

 そんなことは絶対に、ありえないと思っていたのに――

「お初にお目にかかりまする」

 ただ容姿のみで全ての難癖をねじ伏せ、静かに君臨する女。

「伊勢守が家の女、梅と申します」

 越後のもののふ共が、誰一人言葉を発することすら出来ていない。それだけ彼女の美しさが、図抜けていたのだ。本当に人なのかと思うほどに。

「ぶはははははははは!」

 誰もが言葉を失う中、長尾景虎だけが大笑いした。

 そして、

「俺とぬし、どちらが美しいかのぉ?」

 かつて己を蹴り飛ばした女に、問う。

 女は、

「私です」

 迷わず言い放った。

「ぶは、よう来た。ゆるりと過ごせ。今日からここ春日山が、ぬしの家である」

「ありがたき幸せ」

「もっと喜べ、阿呆が」

 ゲラゲラと笑いながら彼女に背を向け、館に入る景虎。その背を見つめ、伊勢姫、かつて千葉小梅であった者もまた小さく微笑んだ。色んなものが変わったのに、彼は何一つ変わっていない。少なくとも、彼女にはそう見えた。

 それがたまらなく、胸を満たすのだ。

 擦り切れた心を、癒すのだ。

「……はァ?」

 そんな様子を見て直江実綱は――顔を歪ませていた。

 それはさておき――

「ぶは、変わらんのぉ」

 約十年の時を経て、長尾虎千代と千葉小梅の運命が今再び、交わる。

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