第玖拾玖話:ひとりじゃない
長尾景虎は実兄であり義父である、長尾晴景の下へ足を運んでいた。久方ぶりの対面である。何しろ景虎は対外的には兄を追いやった身であり、互いが険悪な関係でなかったとしても、それを皆に知られるのは当主交代が茶番と見られかねない。
ゆえに足が遠のいていたのだが――
「……景虎か。久しいな」
「……痩せ過ぎではないか、兄上よ」
「ふふ、義父上と呼びなさい」
「ふざけておる場合ではない。どう見ても異常だ。すぐに医家を――」
「景虎」
晴景は真っ直ぐと景虎を見つめ、静かに首を振った。
「土産は何かな?」
「……酒だ」
「ならば、飲み交わそうか。久方ぶりに、兄弟水入らず、だ」
「……おう」
明らかに普通の様子ではない。だが、兄の口から何かが語られることはないだろう。いつの間にか病に侵されていたのか、それとも――
「私が注ぐべきかな、御屋形様」
「馬鹿を言え。兄に注がせる弟がおるかよ」
瓢箪から兄の木杯に酒を注ぐ景虎。木杯を持つ手の弱々しさに、景虎は顔を歪めそうになる。精一杯虚勢を張り、これなのだろう。
「ああ、美味いな」
「最近、義旧のおかげで羽振りが良くてのぉ。青苧座からさらに毟り取ってやったら、もう勘弁してくださいと泣きついてきて、この酒を置いていきよったわ」
「……あまり虐めてやるな。座も悪いことばかりではない。お高く留まっているのも困りものだが、ある程度の馴れ合いは必要なのだ」
「ぶは、俺は全ての枠組みを取っ払うべきと思うがなぁ」
「……その結果、新たに台頭した枠組みが今よりも優れている、という保証はどこにもないのだ。我らの関知せぬ所で芽生え、制御出来ぬかもしれぬぞ」
「それならそれで、だ」
「全く、どうしようもない御屋形様だな」
「ぶはははは!」
景虎は国の発展など毛ほども興味がない。国主としては致命的、しかも道理を理解せぬのではなく、理解した上で捨てるのだから始末に負えない。
まあ、兄を選ばなかった者たちへの意趣返しもある。
「最近、義旧の奴がようやく覇気を取り戻し始めての」
「ああ、この前来てくれたよ。老いたが、まだまだ現役でやれる」
「おう。青苧座を強請った時のあやつを、兄上にも見せてやりたかったわ。あの狸共が平伏して仕舞いには泣いておったからな」
「ふふ、想像も出来んよ」
他愛ない話をする二人。何故これだけ衰弱したのか、どちらもそれに触れようとはしない。景虎は触れたいが、兄は絶対に言わない確信がある。
だからせめて、気がまぎれるような話をするのだ。
「お、そう言えば兄上には言っておったかの。上野国から山内上杉の手土産で、妙な女が送られてきてな。それがまた奇縁であったのだ」
「ほう。噂の伊勢姫だね」
「それがな、実は――」
さすがの晴景も、彼女との一件に関しては驚きを禁じ得なかった。まさか偶然と子どもの頃の他愛ない約束がここまで繋がることと成ろうとは。
「あと、俺は長尾の名を捨てるぞ」
「そうか」
「驚かんのか?」
「奇縁に比べれば驚くほどじゃない。景虎なら、それぐらいはな」
「……ぶはは」
家名は時に命よりも重い。そんな時代に生きる彼らが、ここまでそれに執着せぬことも珍しいだろう。それがこの二人にとっての当然、であった。
片や名など己を示す飾りとしか思わず、もう片方は国を治めるための道具としか考えていなかった。使い方は違えど、何かが先だって名がある、その考えに違いはない。ここまで考え方が衝突せぬ兄弟も珍しいだろう。
考え方の相違から骨肉の争いに発展する兄弟など、巷では溢れている。ただ、この兄弟はそこに大きな差がないにもかかわらず、国を割ってしまったのだが。
「また来るぞ」
「たまにで良い」
「俺はそう言われると逆に張りたくなるのだ」
「……まったく」
笑いながら先代当主、長尾晴景が幽閉されている館を去る景虎。兄に見える間は優しい眼であったが、背中を向けた途端に険しいものとなる。
こうなることは、正直想定していた。
誰かがやるのでは、その危惧はあったのだ。
○
館から出て、程なくして――
「わざわざ随伴しに来たのか、大熊ともあろう者が」
「……出過ぎた真似かと思いましたが」
家臣の大熊朝秀が景虎の前に現れた。明らかに待ち伏せしていた形である。
「ぶはは、そう怯えるな。俺に黙っておったのは許せぬがよ、それで下手人探しをするほど、俺も阿呆ではない。俺は、御屋形様ゆえな」
「知るは拙者と本庄殿、金津殿のみです」
「そうか」
長尾景虎と大熊朝秀、二人は並び歩く。
「毒か?」
「おそらくは。御屋形様からの贈り物、菓子を含み、体調を崩されたとか」
「……それを兄上が?」
「金津殿が御家のためと聞き出した次第。無論――」
「ああ、俺は贈らぬよ。無用な勘繰りを避けるため、当主交代した後は極力接触を避けておったからな。そこを、突かれたか」
「はっ」
差出人が長尾景虎であろうとも、彼自身が送ったかどうかなど血判でもせぬ限り、筆跡程度でしか判別は出来ない。その筆跡も、真似するための資料があれば容易とまでは言わずとも、不可能ではないだろう。
栃尾の城主として、御屋形様として、景虎はこの短期間にいくつもの書状を方々に出している。主だった家ならば、誰でも出来る。
「朝秀、誰がやったか、見当がつくか?」
「……正直申し上げますと、拙者には皆目見当がつきませぬ」
「ぶは、であろうな。俺も心当たりが多過ぎてのぉ」
「善意であれば直江殿、宇佐美殿、あとは、中条殿辺りでしょうか?」
「さてな。それこそ嘘吐きの俺かもしれんぞ。御家のために、なァ」
「御冗談を」
長尾晴景の存在は、表舞台から姿を消したとはいえ大きい。景虎がどこかで躓けば、当然彼の存在が嫌でも浮上してくるだろう。景虎に忠節を誓う者が、善意で晴景を殺すことは決しておかしな話ではない。
「冗談なものか。武士の理屈なら、生かしておく方がおかしい」
「……それは」
景虎自身、実行に移すかどうかは別にして、考えたことがなかったと言えば嘘になる。愛する兄と言う面を除けば、景虎の理屈では殺す以外の選択肢はない。相手がそれこそ活きの良い生意気な国衆なら、遊興のために生かすこともあるだろうが。
御家の地盤安定のため。表立ってやる愚か者はいないが、歴史上表舞台を降りた政敵の急死は、よくあることであったのだ。
「悪意であれば――」
「かなり絞れるが……どちらにせよ詮無きこと」
「……はい」
今の晴景を悪意にて討つ。その場合の理由もまた明白。現当主である景虎が先代当主晴景を自身の立場を確固たるものとするため、殺した。
そう内外に示すこと、であろう。
だからこそ、景虎の名を使ったとも言える。殺し切らなかったのは、晴景が騒ぎ立てることを期待した、と言う可能性もある。
どちらにせよ、想像でしかないが。
「…………」
「…………」
どちらも黙し、ただ歩く。結局、いくら勘ぐろうとも晴景が騒ぎ立てぬ以上、下手人は見つからないし、見つけようと積極的に動くことも出来ない。
景虎側としては晴景と不仲でも問題はあるが、仲が良く見られても困るのだ。
ゆえに何も出来ない。何を口にしても意味がない。
「のお、朝秀」
「何か?」
「久方ぶりに、やるか」
「……喜んで」
気晴らしでもせねば、収まりがつかない。如何に力があろうとも、如何に強権を振りかざそうとも、所詮人間一人、手の届く範囲など大したことはない。
目の届く範囲など、たかが知れている。
○
互いに太刀を操り、巧みに切り結ぶ。両者、長身であり体重を乗せた剣は重い。特に景虎の剣は、熊でも両断出来そうなほどの威力があった。だが、いなし、常に優位を保つのは朝秀の剣である。この男は見た目に反し、柔らかな剣を使うのだ。
「強くなられましたな」
「おう。強く『は』なった」
全力で振り抜きながら、景虎は悪戯っぽく微笑む。
「背も伸びた。身体も大きくなった。剣の威力は越後でも指折りであろうよ。だが、技術はあの頃とさして変わらぬ。ぬしの望む剣では、ない」
「戦場ではより輝くでしょうな。大きく、強く、誰もがその背に焦がれ、惹かれる」
「ぬし以外は、な」
「……拙者も望んでおりますよ。越後のため、ですから」
「ぶはは!」
長尾景虎は武士となった時点で技ではなく強さに特化すると決めた。戦場では精緻な技巧など大して役に立たない。力で、大きさで、相手を押し込む剣こそ、戦場では求められる。特に自らが先頭に立ち、士気を引き上げて勝つ武将からすれば、強く魅せることは至上命題であろう。そのために技を捨てた。
理合いを、捨てたのが今の景虎である。
「あまりすっきりせんな」
太刀を納め、何とも歯切れの悪い顔をする景虎。かつてあれだけ心躍った大熊朝秀への挑戦も、ここまで道を違えてしまえばただの確認。
戦場ならば己が勝つ。一対一ならば朝秀が勝つ。それだけのこと。
「申し訳ございません」
「よい。ぬしのせいではない。結局のところ、全て俺が選んだことだ。むしろ済まぬな、朝秀。俺はきっと、ぬしを活かしてはやれぬ」
「そのようなことは――」
「よいのだ」
自らそう望むように一人歩む男の背を、朝秀はただ見つめるしかなかった。何も言えなかったのだ。子どもの頃、あれだけ挑戦されて心躍った記憶も今は昔。景虎から指摘された通り、今はもう違い過ぎて、何も感じなくなっていた。
あの頃の景虎、虎千代には無限の可能性があったのだ。何者にも成れる、可能性が。それを閉ざした越後が、武士が、この世界が憎いと思うのは、八つ当たりであろうか。朝秀は唇を噛みながら、ただ主君の背を眺める。
夢を失い、自由を失い、その度にその背は寂しげに、されど力強くなっていく。この上兄を失い、他にも――その先で彼はどう成るのだろうか。
戦う以外の全てを失えば――
○
館に戻ると、そこではとんでもない騒ぎが巻き起こっていた。えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、と女中らも含めて大騒ぎ。景虎の帰りを見た瞬間、彼女たちは一様に青ざめ、自分たちは止めました、無関係ですの一点張り。
何事か、と思い騒ぎの中心に顔を出すと、
「ふん、ふふん、ふんふーん」
鼻歌交じりに、一心不乱な様子で鳥の羽を毟り続ける伊勢姫こと、千葉梅の姿があった。隣では甘粕景持があわあわと慌てふためき、近くでは直江文が頭を抱え、ため息をついていた。その理由は、彼女を見れば一目瞭然である。
「ぶは、なんぞ、その髪型は」
「……おかえりなさいませ、御屋形様。これ、明日の朝食にどうぞ」
「おう。ではなくて、その髪はどうした?」
「切った」
あっさりと言い切る梅の髪は、高貴な身分とは思えぬほどバッサリと、まるで後家の女性が出家したかのような髪型となっていた。と言うか、誰が見ても出家以外ありえない。出家だとしても短いほどである。
「な、何故?」
「長くて邪魔だったから。昔から切ってみたかった」
「……そ、そうか」
「駄目?」
「……いや、まあ、好きにしてよいと言ったのは、俺だからのぉ」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
髪は女の命、それは現代よりもこの時代の方が強い価値観である。高貴な女性が髪を伸ばすのは当然で、だからこそ武士の娘は皆、髪を伸ばしながら成長するのが普通である。適齢期で髪が短い者なれば、何らかの理由が求められる。
まあ、後家の彼女ならば、それほど不思議ではない。出家するならば、だが。
「人質を傷物にしたのと同義では?」
直江文の指摘に、景虎はぽりぽりと頭をかく。
「……まあ、誰が見てもそう思うだろうが、本人がしたかったと言うのなら仕方がない。俺も自由と言った手前、覆すのはその、面子が、の」
「お優しいことで」
ふん、と鼻を鳴らす文。当然だが、梅への当たりは強い。
「むう、しかし、何と言うか、笑えるのぉ」
「美丈夫にしか見えない」
「ぶはは、己で美丈夫と来たか。相変わらず自信家じゃのぉ」
「水面に映った自分を見て、驚いた。絶世」
「ぶははははは!」
景虎は腹を抱え、大笑いする。目じりに涙を浮かべながら、腹の底から笑った。笑い飛ばした。兄のこと、国のこと、全てがどうでもよくなるほど、彼女の髪型は衝撃的であったのだ。とてもではないが後に来る上杉当主には見せられない。
まあ、見せることもないだろうが。
「ひぃ、ひぃ、俺を笑い殺す気か」
「女装男が偉そうに」
「ぶはっ!」
再度笑う景虎。これはもう、笑わずにはいられない。
ほんの少し、彼女にそんな意図は無くとも、少しだけ、救われた。
誰にも言わないが――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます