第捌拾伍話:虚実混交

 難波田憲重はその勝鬨を聞きながら、恩讐に顔を歪めていた。河越城を奪われ、息子たちを奪われ、今度は主君まで奪われる。北条が、伊勢が、関東にやって来ることさえなければ、こんなことには――朦朧と、そんな夢想を浮かべる。

「終わりだ」

 黄備が一角の槍が、難波田の身を貫く。血を吐きながら、先ほど貫かれた場所とは別の痛みに、難波田は嗤う。関東が雄、関東管領上杉の系譜、それが今日、また一つ余所者の手によって潰えるのだ。

 絶対に勝てると思っていた。

 今なお、負けるはずがないと、思う。

「馬鹿、が……結局、ぬしらは死ぬ。我らが倒れようとも、坂東武士の心は一つ。精々醜く足掻き、滅べ。先に――」

「黙って死ね」

 難波田を蹴って、槍を引き抜いた男は難波田に背を向ける。よろよろ、と後ろに下がりながら、難波田は北条への呪詛を心の中で唱えていた。

 滅べ、滅べ、滅べ、と。

「坂東武士、か。笑わせる。だから滅ぶのだ」

「古臭くてかなわんな」

「しかり」

 あんなものは負け惜しみ。戦力差は圧倒的なのだ。多少想定よりも多くの兵を動員し、奇襲を成功させたとしても、そんなものは焼け石に水。

 関東の戦力の大半が連合軍側なのだ。

 どうしたって彼らが勝てるはずはない。

「先に地獄で待っておるぞ!」

 その言葉を聞く者は、もうこの場にはいなかった。北条の勝鬨が耳朶を打つ。難波田にとっての悪夢、扇谷上杉にとっての悪夢――

「滅、べ、北条ォ――」

 難波田憲重は何かに躓き、後ろに倒れる。それは扇谷上杉の陣で活用していた井戸であった。彼は落ちる。意識も、落ちる。

 どん底の、暗闇へと。


     ○


 二人で掲げた扇谷上杉当主の遺体。束の間の、ほんのひと時の余韻に浸る。

「今度の傷は、よう目立つところだな、新九郎」

「御本城様と言え、孫九郎。いいさ、これで箔がついた」

「……そうだな」

 一つ山を越えた。連絡なしの夜襲、呼応無くば闇夜で行き詰まり、今頃は戦力差によって引っ繰り返されていたことだろう。夜明けと共に希望が絶たれていた可能性すらある。だが、結果は上々、これ以上ない戦果。

 奇跡と呼んでもいい。

「次だ」

「今日だけで幾度、奇跡を起こせば良いのだ?」

「勝つまで、幾度でも、だ」

「……承知した」

 遺体を下ろし、すぐさま氏康は腰に差していた刀で朝定の首を断つ。敵の総大将が一角、されど礼節を持って手を合わせ、

「存分に目立て」

「ハッ」

 その首は氏康の側近が槍に突き刺され、またも天に掲げられる。

「次は――」

「古河公方、だ」

 ここからは速さ勝負。一気に勝負をつける。相手に戦力を、陣容を気取られる前に、決着を付けなければならない。

 一気呵成にかき乱し、勝機を掴む。


     ○


 朝日と共に、何だかんだと楽観していた連合軍は扇谷が布陣していた北の陣に、これ見よがしに掲げられた北条の旗を見て戦慄する。逃げ惑う扇谷の兵士たち、自分たちの当主が討ち死にしたことで、彼らは全員制御不能となった。

「……な、何が起きたのじゃ⁉」

「わ、わかりませぬ。ただ、様子を見る限り、扇谷の陣が落とされたものと」

 古河公方、足利晴氏は頭を抱え、信じ難い現実に顔を歪めていた。負けるはずがない。負ける理由がない。

「ほ、北条単独で動員できる兵力は精々が一万であろう? 府中には間違いなく七千、八千の戦力がいたのだ。そういう報告を受けておる。一晩でそれらがここまで来た? そんなことはありえぬのだ! 絶対に、ありえてはならぬ!」

「しかし、現実は――」

「黙れィ!」

 時代が下り、公方家の威光もかなり薄れた。表面上、下の者は立てたふりをするが、その実腹の底では大したことないと思っている。己の方が上だとすら思っている。北条氏綱も、今の三代目氏康もそうであった。

 上杉とてそれは同じ。そんなものは見え透いている。それでも己にはそれしかないのだ。公方の血が、足利の名が、それが存在証明であったから。

 そんな現実が許し難かった。せめて、少しでも復権しようと、権威を取り戻そうと勝ち馬に乗ったと言うのに、それが引っ繰り返されたなら――

「麻呂は足利ぞ!」

 雪崩のように殺到する扇谷の兵と思しき者たち。隊列も何もない彼らを見分けるのは難しい。なにせ、北条方の人数がわからないのだ。河越城の三千はわかる。それと何千加わって、扇谷の陣を崩したのか、それがわからない。

 味方が敵に見える。敵が味方に見える。

「公方様!」

「な、なんぞ?」

「氏康です! 氏康本隊が、こちらに!」

「……府中はァ⁉」

 古河公方、足利晴氏、凄絶な貌となり、髪をかきむしる。


     ○


「お、扇谷の陣が崩れ、当主殿が討ち死にされた、と」

「…………」

 山内の陣内では誰もが言葉を失い、いつもあれだけ口うるさい古狸どもが皆、一斉に口を開かずに視線を宙に漂わせている。それも仕方がないことだろう。精々削れる程度と高をくくっていたのに、いきなり陣が崩壊、当主が死んだとあれば、もう取り返しはつかない。何故なら彼らは北条が今、どれだけの戦力を用意したのかすらわからないのだ。北条単独の動員数などたかが知れている。

 府中の七千、冷静に考えたなら千ほどしか割けないが、それで扇谷の陣が落ちるか、と考えた時に疑問符がつく。となると別の戦力の存在が匂う。

「下総の千葉か?」

 黙っていても仕方がないと、狸の一人が口を開く。

「今の北条に手を貸すか? 愚行にもほどがある」

「だが、現実に扇谷の陣は落ちたのだぞ!」

「もしや、今川が我らを嵌めたのでは?」

「何のために⁉」

「元々、伊勢の連中は今川の子飼いであった。端から今川が関東を得るために、今まで争っていたふりをしていた、とか」

「突拍子もない話だ! ありえぬ!」

「だが、よしんば千葉が伊勢共についたとして、それで勝てると思うか? この戦力と戦おうと思うなら、それこそ今川、武田ぐらいは手を結んでいてもおかしくはない。それだけの後ろ盾があるから、思い切って夜襲を仕掛けて来たのではないか?」

「そもそも、何故、城の連中は夜襲に気付き、動くことが出来たのだ? 条件は我らと同じ、世も明けきらぬ暗闇の中、見て呼応するのは不可能だ!」

「どこかしらで連絡を取ったのでしょうな」

「どうやって!? 我らはずっと河越城を包囲していたのですぞ! それこそ蟻一匹通さぬほど厳重に。如何に気が抜けていたとはいえ、間者が河越城に入り込むことなどありえぬ。そこだけは常に気を張らせていたはず」

「しかし、現実にな――」

 喧々囂々の言い争い。それを見て山内上杉当主、上杉憲政は顔を歪めていた。彼らは気づいていないのだ。今の話はここでしても仕方がないことで、時間の無駄でしかないことを。しかし、もう様子を窺うことも難しい。

 斥候の話では、扇谷の陣が崩壊したことをきっかけに、他の陣の兵も逃げ始め、敵味方もわからぬまま入り乱れ、混乱の極致にあると言うこと。

 北条は間違いなく、この混乱を煽りながら火勢を広げようとする。いや、実際に広がた結果、北側はもう取り返しのつかないほどに混沌としているのだろう。

 本来であれば今、最も対極に位置する山内が指揮を執り、この混乱を治め立て直さねばならない立場であるはずなのだ。

 だが、誰もそれをしようとしない。

 いや――

(出来ぬのだ。それが出来る者は、今の山内にはおらぬゆえ)

 長野業正は下を向く。力強く皆を引っ張る総大将がいれば、立て直すことが出来たかもしれない。北条がどれだけの戦力を用意したのかはわからないが、長野の読みではさほど大きな戦力を用意したとも思えなかった。

 府中での七千を考えたなら、精々千、二千が限度。下総の千葉が与したとも考え難く、今川など完全に夢物語も甚だしい。

 されど今、この場でそれを言っても意味がないのだ。であれば状況を治めろ、と無理難題を押し付けられるだけ。長野は己の器を理解している。血統も、才覚も足りぬ己では大軍の統制など不可能。出来ぬのだ、誰も。

 この場に必要なのは血統と実績を兼ね備えた者。

 それは、今の山内上杉にはいない。

 関東管領山内上杉ともあろう家が、このようなザマとなっていたのだ。見ないようにしていた現実が重くのしかかる。窮地に際し、力無き当主ではどうしようもない。身内から搾取することしか出来ぬ狸共でも力不足。

 さりとて己もまた足りぬとあっては八方塞がり。

「……!」

 皆、大声で話し合っているが、肝心なことは何も、誰も言わなかった。戦う準備をしよう、撤退の備えをしておこう、など、誰も言わぬのだ。彼らは皆怖れているから。この状況を治める役が己に回って来ることを。

「…………」

 憲政から長野へ助けて欲しいと言う視線が向けられる。正直、長野も今は矢面になど立ちたくなかったが、このままでは二進も三進もいかないのは目に見えている。やるしかないか、と顔を歪め、彼は顔を上げた。

「各々方、とにかく今はこちらの陣だけでも戦の備えをしましょう。北条がどれだけの戦力を擁してきたのかはわかりませぬが、さりてとここで撤退するのでは山内上杉の名折れ。関東管領家の、名門の旗の下に集い、一致団結し事に当たりましょうぞ」

「そうか、その通りだな」

「うむ、長野よ、素晴らしい。感服した」

「其の方の心意気を汲み、備えは長野殿に任せるべきと思うが如何か?」

「賛成じゃ」

「賛成」

「さん――」

 醜悪の一言。長野は笑みを浮かべながら「承知致しました」と頭を下げる。実力も無く、家名に縋り、腐り果てるだけの老人共。

 彼らの先祖が泣いている。

 名を馳せ、武功を上げ、今ここに連なるほどの者たちの血を継ぎ、何故かようなまでに腐り果てられるのか、長野は不思議で仕方がなかった。

「殿、よろしいですかな?」

「うむ、長野であれば任せられる。頼むぞ」

「御意」

 若く、未熟、彼自身に悪気はなく、彼自体がどうしようもない器だとは長野も思っていない。だが、関東管領に寄生する者たちにとって、彼が力強く成長されてしまうと厄介なのだ。だから、今日まで未熟なままで成長させぬよう気を使っていた。わざわざそのために労力を割いていたのだ。この愚か者どもは。

 この有様である山内に比べれば、扇谷の何とまともなことであった。窮地であり危機感が違うと言うのもあっただろうが、同じ若者であっても当主としての成熟度には大きな開きがあった。この若者に決断力はない。

 決断する案件を、今まで与えられてこなかったから。

 これが今の、山内上杉家の本当の姿である。

 ただ、限界が来ただけ、それだけのことであったのかもしれない。


     ○


「どれが敵で、どれが味方なのだ⁉」

「何なのだ、この戦場は!」

「クソ、やっていられるか!」

 混乱は広がり、立て直す暇も与えず北条軍は声を張り上げ、さらに火勢を強めんと煽り倒す。上杉朝定が死んだ、北条が何万もの大軍勢を率いてやって来た、もう連合軍は終わり、逃げろ逃げろ、と虚実入り混じり、敵を敗走へ誘導していく。彼らとは別に目立つ北条綱成などは「勝った勝った」と大声で叫びながら、誰よりも暴れ回っていた。あの異様もまた、彼らの虚言に真実味を持たせていた。

 これが夜襲の成果。相手に情報を与えず、状況確認すら難しくさせたことによって、圧倒的な戦力差を引っ繰り返す。今、戦場を必死に駆け回る兵士の大半は敵軍の兵であり、北条軍などその一部でしかない。

 だが、統制を欠いた彼らにそれを判別する方法はない。具足を身にまとい、識別する旗を備える時間すら扇谷には与えなかったから。

「北条は今川と組んだらしいぞ! だから、扇谷は倒されてしまったのだ! 今逃げねば大変なことになるぞ!」

 大声で大嘘を撒き散らす笠原康勝は腹の底から笑い出しそうになるのを必死にこらえていた。もはやこの混沌とした戦場で、声の主が誰なのかなど確認する者はいない。声を聞き、真贋を確かめることもせずに信じて逃げる。

 本当にあの二人は凄い、と笠原は胸がすく思いであった。今ならばあの女人にも負ける気がしない。今のあの二人なら、誰にも負ける気がしない。

 それだけのことを成した。今も成している。

「逃げろ逃げろ!」

 そう言いながら槍を振り払い、敵軍の背を突き続ける。急げ急げ、逃げろ逃げろ、北条軍が襲って来るぞ、と。

「勝った!」

 笠原康勝はこの混乱を見て、勝利を確信する。

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