第捌拾肆話:明けの明星
扇谷上杉家当主、上杉朝定は信じ難い状況に顔を歪ませていた。絶対に勝てる戦だったのだ。いや、今を以て彼らの狙いがわからない。だってそうだろう。今、扇谷の陣を崩したとしても何万もの軍勢が周囲には存在するのだ。
彼らが奮戦するまでもない。普通に機能すればどうやっても北条に勝機などない。これは破れかぶれの愚策、滅ぶのが決まっているからせめて扇谷だけは倒す、と自害の代わりに選ばれただけ。理不尽だ、と朝定は思う。
山内でも、古河公方でも、誰でも良かったはず。
何故わざわざ、己のいる扇谷の陣を狙ったのか。もっと与しやすい陣営などいくらでもある。八万の大軍、その中で何故自分たちが狙い打たれねばならない。
「殿!」
馬の足音と共に自身の腹心、難波田憲重が現れた。扇谷上杉の居城であった河越城を奪われてからここまで、息子を失いながらも忠義を尽くしてくれた男である。武勇にも長け、朝定にとっては誰よりも信頼できる家臣であった。
「一時撤退を! とにかくこの場から離れたなら、我らの勝ち。日の出と共に奴らはそれを思い知ることでしょう!」
「ああ、その通りだ!」
難波田が馬を降り、朝定に乗ってくれと促す。
「其の方は?」
「某はここに残り、伊勢の弱兵共に目にモノ見せてくれましょう。殿は三家をまとめ、ゆるりと援軍に参ってくだされば」
「難波田……すまぬ!」
家臣の忠義を胸に、朝定は馬を駆る。必ず生きて、援軍と共に救出に向かう。彼は扇谷上杉が居城を失い、苦境に立たされても変わらずに仕えてくれた家臣の一人である。そしてあの日、共に屈辱を味わった同士でもあった。
「必ず、生きておれよ、難波田!」
生きねばならない。扇谷上杉をこの坂東にて復権させ、必ずや彼らの忠義に報いる。この戦はそのためのもの。ここからの政争もそのためのもの。
私利私欲ではない。大名が背負うのは家臣らも含めた大きな家なのだ。
扇谷上杉と言う家を守る。ついてきてくれた皆と共に――
「――った、か……た、かった。勝った。勝った!」
「殿、達者で!」
怪物が、迫る。血にまみれ、黄色の備えを真紅に染めながら、狂ったように勝鬨を上げ続ける化け物。何度耳の中でこだましたことか。
あの日も、この声が河越城で響いていた。
あの日も、この声に息子三人を殺された。
「北条綱成ェ!」
「勝ったァ! おう、闇夜で良く見えぬが、その声は扇谷が猛将、難波田殿かァ。であれば近いなァ。朝定の首もあと一歩よなァ」
「この、怪物がァ!」
その男、巨躯。その男、剛力。化け物じみた武力を持ちながら、頭も切れ、戦の嗅覚まで備えている。関東の武士は幾度、この怪物に泣かされてきたか。
何度この男の勝鬨に、
「勝ったァァァアアア!」
「ぐ、おおおおお!」
塗り潰されて、来たか。難波田は死力を振り絞り、北条最強の怪物と対峙する。二代目氏綱が寵愛し、三代目が信じた男の力は凄まじい。
必ず突破し、首級を上げる。鉄の意志が感じられた。
だからこそ難波田は死をも恐れずに果敢に立ち向かうのだ。この男だけは絶対に朝定に近づけてはならない。今、自分が止めねばならない。
「……うむ面倒だ。任せる」
「ハッ!」
「逃げるか、腰抜けめ!」
「悪いが今日は勝ちに来た。遊ぶ気はない」
「綱成ェ!」
そんな難波田を黄備えの部下数人に任せ、北条綱成は走り抜ける。彼の死力など、妄執など知ったことではない。これは戦争なのだ。
絶対に逃がさない。この戦に勝つには必要なのだ、扇谷上杉当主の首が。
だから追う。
「無駄だ! 殿は馬で逃げられた。徒歩では追いつけぬぞ!」
難波田の声を背に、綱成は笑った。
「それがどうした?」
彼には確信が在ったのだ。根拠はない。だが、必ずあの男が逃げ道を塞いでいることを。こちらがある程度押し込むことは織り込み済みで、あの男は動く。
それが出来るから、
「勝つぞ、新九郎!」
あの男は新九郎なのだ。
○
北条綱成率いる河越城の勢力を避ける方向に上杉朝定は馬を走らせていた。あと少しで夜が明ける。このうっとおしい暗闇も太陽が出れば終わり。
あと少し、あと少しなのに――
「弓隊、構え」
「は?」
「てっ!」
夜闇を裂き、矢が降り注ぐ。幸運にも朝定に当たることはなかったが、その分馬が不運を背負い、呆気なく崩れ落ちた。
落馬しながらも、先にいる敵から逃れようと朝定は恥も外聞も捨て、全速力で駆け出した。雅ではない。優雅でもない。名門の当主が取るべき姿でもない。それでも彼は這ってでも、泥を啜ってでも、生き延びて見せると、日が昇れば、日さえ照らせば、戦力の上では勝っているのだ。普通に戦えば負けない。
普通に組み合えば絶対に勝つ。
だから――
「勝った勝った勝った」
「……あっ」
少し離れたところから、あの声が聞こえてくる。河越城の時も耳にした悪夢の勝鬨。あの男は勝つ前からそれを言い続けるのだ。
そして、それを実現してしまう。
「ひっ」
しかし、逃げようとしても――
「御覚悟を」
こちらも闇夜の中、激戦を潜り抜けてきたのだろう、傷だらけの獅子が其処にいた。三代目、北条新九郎氏康。その貌は血に濡れている。
優しく、穏やかで、民に慕われる好青年。
だが、戦場では、
「…………」
獰猛な獣と化す。彼らは知っていた。北条氏康の戦績も、綱成の戦績も。優秀なのはわかりきっていたことなのだ。彼らは先代の、氏綱の代から頭角を見せ、名を馳せた男たちなのだから。朝定も、それは痛いほど知っている。
だからこそ、倒さねばならぬと動いたのだ。
「許せ! 和睦の話は、私が責任を持って取りまとめる! そもそも今回の件は今川の謀、我ら坂東武士は一丸となってあの男を討たねばならない! 違うか⁉」
それでも圧倒的な戦力差が、絶対的に優位な状況が、彼らの眼を曇らさていた。彼らに北条を忘れさせていた。初代、二代目は傑物だったが、三代目は臆病で惰弱、そんな幻想に彼らは浸っていたのだ。
全てはこの時のための仕込みであった。
無様な和睦も、戦う前からの撤退も、全てはこの時のために。
「違わぬ」
獅子はひっそりと牙を研いでいたのだ。
「そうだろう? だから――」
「それは我らが成すべきことだ。あの男に借りを返すのは、我ら北条の、いや、私の、三代目北条新九郎が果たさねばならぬことである!」
その男の顔は怒気に満ちていた。おそらく、それは眼前にいる上杉朝定に向けられたものではない。自身に向けた怒り、あの男に、良いように転がされた無様な己への怒りが、彼を燃やしていた。彼を駆り立てていた。
北条氏康と言う男を、引き上げていた。
彼はかつて凡夫であった。家臣すらも呆れる心根の弱さがあった。だが、それは綱成との競い合いの中で克服し、成長した。あの初陣もそう。それから先の激闘もそう。『彼女』との出会いもそう。今川との敗戦も、そう。
「和睦などない。どちらかが滅ぶまでやろう。そちらが勝てば我らが滅び、我らが勝てばそちらが滅ぶ。勝者が関東を取りまとめる」
北条氏康はあえて、自らの手で槍を構え、駆け出した。武士ならば腕っぷしも必要と鍛え続け、今では槍の腕前などそれなりのものである。
「それでよかろう?」
そんじょそこらの武士になど負けない。
まあ――
「勝った!」
この男には到底及ばぬが。
「私は、名門扇谷上杉の、当主ぞ!」
「それが――」
「――どうした」
北条氏康が、北条綱成が、槍を構えて突貫する。
日が昇る。
朝日が、射す。
「「我らは北条ぞ!」」
「あっ」
二本の槍が交差する。北条氏康の牙が、北条綱成の牙が、名門扇谷上杉家当主、上杉朝定の身体を貫いていた。
「「勝った!」」
二人はどちらが何を言うでもなく、二人で協力し合い上杉朝定の遺体を掲げる。
天よ見よ、地よ聞け。
「「勝鬨を上げろォ!」」
北条軍の勝鬨が、朝日と共に戦場に轟いた。
天文十五年四月二十日、朝焼けと共に天地が引っ繰り返った。
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