第捌拾陸話:人間の本質
人間とは時に理性的なことを宣おうとするが、本質的には獣と同じである。生存本能は容易に理性を食いつぶし、信じ難い行動を取らせてしまう。今回、北条氏康と北条綱成が取った行動は全て、その部分を煽り、表面化させる策であった。
夜襲からの混乱、朝日昇らぬ前からの急襲によって彼らは大いに混乱したことだろう。上杉朝定が討ち死にしたことも、大きい。そもそも北条軍の動きも、全貌すらよくわからない。人は俯瞰して物事を見ることなど出来ないのだ。
平面で、見える範囲でしか知り得ない。
そこに「勝った勝った」と勝鬨が耳朶を打つ。しかも早朝、寝起きの彼らにまともな思考力などない。慌て、惑い、とにかく生き残るために逃げる。
一度、動きの流れが出来れば右倣えするのも人の性質。ゆえに崩れた陣形を、敗勢を立て直すのは名将であっても難しいのだ。
これが少数であればまだ、どうにかなった。それなりの格を持った武将の一声でこの波を止めることも出来たかもしれない。しかし、連合軍は三万を府中に割いたとはいえ、未だ五万の大所帯である。扇谷の陣にも万を超える兵がいた。
統制が取れている時でさえ、大軍の運用は難しい。声の届く範囲には限りがあり、音や視覚を用いた合図には理性と知性が不可欠。
これが大軍統制の難しさ。
数こそが連合軍の強さであったが、理性さえ奪えば弱さに裏返る。
それを今、古河公方足利晴氏は身を持って体感していた。
「麻呂は、足利ぞ。何故、言うことを聞かぬ。何故、誰も立ち止まらぬ⁉」
誰も彼の言葉に耳を貸そうとしない。今まで公方の血が、足利の名が、彼に力と影響力を与えてきた。腹の底ではどう思っていようが、公の場では皆が己を立てた。特に他の公方が滅んだり、力を失った後は――
それなのに今、誰も耳を貸さない。
「公方様、これ以上は……誰が敵か味方かもわからぬ状況。兵たちはまとまりを欠き、逃げるだけならばいざ知らず、同士討ちまで始めております」
「しかも――」
直臣は言葉に詰まり、晴氏を逆なでせぬよう選ぼうとする。混乱の中、整然と撤退する者たちまで出始めていたのだ。連合軍陣営であった関東諸侯ら、古河公方の名で集まった者たち。そんな彼らすら、矢面に立たず混乱に乗じ逃げようとしている。彼らに見切られてしまったのだ、古河公方足利晴氏は。
勝てぬと判断された。ゆえの損切。
「その――」
だが、直臣が決死の覚悟で言葉を紡ぐ前に、彼の頭に矢が突き立った。諫言しようとした男は倒れ、息を引き取る。
「ひィ⁉」
足利晴氏は腰を抜かし、倒れた。彼もかつては父から古河公方の座を奪った男であった。戦を知らぬ男ではない。だが、長年実戦から遠ざかっていたのも事実。北条氏綱が彼を盛り立て、自らが前に出続けた。
その結果、自らすら知らぬ間に足利晴氏は腐っていたのだ。若き頃は、命知らずな坂東武士らと共に死線に立っていたにもかかわらず、今は命が惜しい。
氏綱がそれを狙って、彼を戦場から執拗に遠ざけていた、のかはわからない。だが、彼が矢面に立ち、戦ったのは父との抗争が最後。
父の代から敵対していた叔父である小弓公方との争いも、古河公方の御旗を持って戦ったのは北条氏綱、そして息子である北条氏康もそう。
「麻呂は――」
気づけば、足利晴氏は逃げ出していた。様々なことを、理性を取り繕い家臣らに言い放った。これは戦略的撤退なのだと。一旦退いて体勢を立て直し、山内上杉が踏ん張っている所を援護する、等々――
だが、周囲の目は冷ややかであった。
「んー、首級を逃した、か。でもまあ、古河殿の首なんて僕には重いから要らない、かな。残り短い公方の座、精々満喫すると良いさ」
笠原康勝はそれきり、古河公方への執着を見せることなく、敵を煽りながら、時に背を突きながら、人の流れを誘導する。
端からここは通過点。
「さあ、今度はそっちが、大きな群れを相手にする番だ。精々、足掻いて見せな。そっちに僕らの、御本城様や孫九郎殿ほどの器量を持つ者がいれば、出来るだろ? 何せ山内上杉、関東管領の家だぜ」
さあ、瀑布の如く飲み込め、全てを破壊せよ。
人間の愚かさを、生存本能の暴走を、ここに示す。
○
「こ、古河殿も、撤退されたそうです」
「……馬鹿、が。今更惜しむ命でもあるまいに、何をどうしたら逃げようなどと考えられるのだ? ここで命を張ってこその活路だぞ。唯一だ、どう転ぼうが次の敵となっていた古河殿が、唯一家を存続できる道であったと言うのに!」
山内上杉の家臣、長野業正はその報せを聞き激怒していた。元々、彼の地位は不安定であったのだ。長く北条と共にし、危ういと感じてこちらへついた。そもそも北条を大きくしたのは古河公方なのだ。全てがそうであったわけではないが、間違いなくその一因はある。それを快く思う関東諸侯はそういない。
であれば必然、彼はここで示さねばならなかったのだ。力を、立場を、身体を張って、身をすり減らし、北条を食い止めたのであれば、皆も留飲を下げよう。
それどころか強い畏敬の念を植え付け、長き安寧が手に入ったはず。
彼だけは逃げてはならなかった。その覚悟があるからこその、連合軍入りだと思っていたのに、結果としては醜態をさらしただけ。
さらに傷口を広げることになった。
「長野殿」
「……私にどうしろと? わかっているだろう、上泉の。私の器で、五万の兵は止まらん。巨大な力がいるのだ。一度生まれた流れをせき止めるには、天災の如し力が、要る。山内上杉に……そのような者はおらぬ!」
「……拙者も、一介の武士でしかありませぬ」
血がいる。力もいる。
もしかして、と思えたのは名門の血を持ち、きっちりと部下を従えていた扇谷上杉家当主、上杉朝定くらいであったのかもしれない。だが、彼は真っ先に北条の手で摘まれてしまった。山内上杉当主、上杉憲政にその器量はない。
器量を持たぬよう、育てられてしまったから。
「負けるのか、この、連合軍が」
「……龍がおれば、こうはならなかったのでしょうな」
「龍、くく、龍、か。しかり、それぐらいの力がいるとも。たった一人で良いのだ。たった一人、全てを背負って立つ器さえいれば、この状況からでも悠々と巻き返すことが出来る。どう考えたところで北条の兵数はいない。夜襲を仕掛け、この構図を作った時点で、それは透けて見える。わかっているのだ。わかっているのに――」
打つ手がない。
「殿には府中まで下がられるようお伝えせよ。三万と合流すれば、浮かぶ瀬もあろう。我らもまた、そちらへ赴く」
「承知、お伝えいたします」
古河公方敗走の報せを伝えに来た者に言付けを与え、長野は大きくため息をついた。どう考えても勝てる戦。皆が整然としていれば、今でも勝てる戦。
しかし、そうならぬのが人と言う生き物。
「ままならぬな」
「ええ。時代が、変わりますな」
一枚岩ではないのは承知していた。だが、ここまで脆いことを彼らは知らなかったのだ。そして、彼らはさらにどん底へと突き落とされることになる。
終わりは、この戦場だけにあらず。
○
府中での決戦、寡兵ながら凄まじい士気で襲い来る北条軍は、三倍以上の戦力である連合軍と正面から互角の戦いを繰り広げていた。まあ、三万を完全に展開できる地理などそうない以上、上手く地の利を生かされ食い下がられている、と言うのが本当のところだが。とは言え、これも時間の問題、いずれは連合軍が勝つ。
はずだった。
「退くぞ」
関東の有力諸侯が一角、安房の里見義堯はいずれ優勢になろうと言う戦場で、急に撤退の判断を下した。それに反発したのは、
「どういうつもりだ、里見殿!」
常陸の有力者、小田政治。里見は怒鳴り込んできた小田を見て、眉をひそめた。
「もしやと思い放っていた間者が、先ほど河越城の惨状を伝えてきた。扇谷上杉の若造が死に、混乱した兵は古河公方らの陣へ雪崩れ込み、制御能わず。まあ、敗走するであろう、とのことだ。退く理由としては充分であろう?」
「馬鹿な……いや、しかし、里見殿は何故、もしや、と思ったのだ?」
「北条がこの府中に陣取ったからだ。馬鹿正直にな。俺は本家筋との家督争いの折、連中と手を組み、人間を知っている。二代目はもちろん、三代目も才気溢れる男であったよ。ならば、勝ち目のない戦はせず、万が一を掴みに行く。そう考えた」
「何故、それを上杉に伝えなかった?」
「伝えて理解するか? あの愚図共が」
里見の歪んだ笑みに、小田は慄く。己よりも一回り若い彼だが、その道は初めから血濡れていた。本家筋から家督を簒奪するため、父と共に北条を利用し、見事それを奪い取った。その後すぐに北条から離れ、小弓公方の側に立つも、その裏で版図拡大の構想を練って、小弓公方の死すらも自らの利とした。
北条が正道の怪物とすれば、この男は邪道の怪物であろう。
「どうせ、どちらが勝とうとも関東は荒れる。今川もそう考えたのだろう。だから、無傷で利を得てさっさと手を引いたのだ。そも俺は、今川は端から北条に勝たせるつもりだったとすら思っていた。戦の仕掛け所が籠城側に有利過ぎたからな。もっと早ければ食糧が足らず、もっと遅ければ河越城に集約することは出来なかったはず。税を小田原などへ分配する前、あそこしかなかったと思わんか、ん?」
里見は言う。あれは稲刈りの時期すら見越しての仕掛けであったと。
小田は戦慄するしかない。この男は初めから全てを見通していた。そしてそれを胸の内に秘め、三家に伝えることすらしなかったのだ。
「小田殿、頭を働かせよ。其の方ほどの男が、あの阿呆共に付き合う必要などあるまい。どちらが勝っても、俺たちの利は薄い。が、北条が勝った方が美味いぞ。奴らは徹底的に両上杉家を叩くだろう。そこが好機だ。奴らの眼が連中に向かう中、版図を広げつつ足場を固め、堅牢なる姿勢を作れば、勝てはせぬが負けん。ああ、小田殿の治むる地ではそうもいかぬ、か……まあ、それも時の運、だな」
「……端から、そのつもりであったと?」
「それ以外あるか? 俺は利にならぬ戦はせん。無論、今回は参戦せぬことで角が立つ以上、一応顔を出したが……下総の千葉は慧眼であったな。だが、奴は北条についたからこそ、美味い思いは出来ん。結局のところ、こちら側で有象無象に紛れ、どっちでも勝つ態勢を作ることこそ、最上であった」
建前を除けば、おそらくこの男ほど関東の、坂東武士を体現している者はいないだろう。血で血を洗う歴史の中、陰湿なる時代の果てに彼らは生まれた。
小田政治とて、清廉潔白な男ではない。
「小田殿はどうする? 上杉と心中か?」
「……その報せを聞いた以上、選択の余地はない」
「ふはは、やはり傑物だ。さすが小田氏の版図を広めた男、俺の尊敬する数少ない才人だ。坂東武士たるもの、くかか、そうあらねばなァ」
「…………」
嗤う里見、押し黙る小田。
されど、結局は同じ穴の狢。己が家、その繁栄こそが第一であり、そのためならば泥を啜ってでもやり遂げる。その覚悟があってこそ、この混沌とした関東で生き延びる道を、見出すことが出来るのだ。
北条の布陣に違和感があった。里見のように全体像が透けていたわけではないが、何かあった時にこちらの方が安全である、と言う考え方がなかったわけではない。小田自らが古河公方の名代としてここにいる。
それを保身と言わずして何と言う。
「さあさあ、荒れろ荒れろォ。その隙に、俺は美味い思いをさせてもらう」
「ろくな死に方をせぬぞ、里見殿」
「くく、俺のようなものこそ、この関東では生き延びる。俺が証明してやる故、精々長生きしてくれよ、小田殿。息子の気骨、心配であろう?」
「ッ⁉」
蛇のような視線、絡みつくような、捕食者の眼である。関東にはこういう蛇がうようよしているのだ。この男ほどの大蛇ではなくとも、いくらでも――
「冗談だ、冗談」
「…………」
北条の士気はただ事ではない。彼らは知っているのだろう。河越城で何が起きているのかを。だからこそ、三万の軍勢に怯むことなく戦いを続ける。
信じているのだ、主君の勝利を。
「影武者にしては出来の悪いことだな、氏康よ。大方、赤備の綱高辺りか。くく、人材が豊富で羨ましいことだ。だが、やりようはある。いくらでも、な」
安房の里見義堯、この戦いの後勢力を拡大する北条に幾度も攻められながらも、その都度跳ね返し、のらりくらりと生き永らえる蛇は、あっさりと撤退を決めた。常陸の小田も続き、その波は、少しずつ伝播していく。
三万対七千、信じ難い話だが――
○
「殿、前方より兵の姿が!」
府中へ合流しようとしていた山内上杉、上杉憲政らは兵の姿を見て笑みをこぼしていた。それも仕方がないことであろう。
それほどまでに彼らは追い詰められていたのだ。
「おお、これは僥倖だ! よかったのぉ、府中では我が方が勝利し、転進してくれたのであろう。これで戦えるぞ。すぐさま長野らの下へ舞い戻ろうぞ」
「……それは如何なものかと。一旦、こちらで態勢をきっちり整えた後、圧し潰すのが上策かと思われます。何卒、ご再考を」
「ならぬ。長野らを見捨てることは出来ん」
「……御意」
狸は人形が噛みついてきたことに対し、言葉こそ肯定を返したが内心は憤怒に染まっていた。長野が余計な手を加えたせいで、この男が自我を持ちつつあるのだ。このままでは良くない。出来れば今、長野を捨てておきたい。
それが狸共の偽らざる本音である。
が――
「殿、兵の様子が――」
「どうした?」
「いえ、そんな、まさか」
見る見ると青ざめる家臣の様子に憲政は首を傾げる。狸共も、異様な様子に気付き、前方を見て、掲げられた旗を見て、顔を歪めた。
あれは、援軍にあらず。
「敗、走……している、のか?」
「ば、馬鹿な、ありえぬ! 三万だぞ、絶対に、伊勢の余所者如きに届く数ではない。そもそも、勝てぬから連中は氏康めの夜襲に打って出てきたはず。あそこの戦力は想定よりも、低くなければおかしい。おかしいのだ!」
彼らは北条軍の布陣を知らない。全体像を知り得ない。知るのは氏康らが夜襲をして扇谷上杉を破り、古河公方をも潰したことだけ。
だから彼らは混乱してしまう。
どう考えても、兵の数と事実の勘定が合わぬから。
「……ひィ⁉」
恥も外聞もない。もう、勝ち目など無くなった。
少なくとも彼らにはそう見えたのだ。
「……これが、ふふ、関東管領山内上杉の、当主の姿、か」
上杉憲政はいの一番に逃げ出す狸共を見て、嗤う。結局のところ、己に力がないからこうなったのだ。同世代、何なら自らよりも若い扇谷の当主上杉朝定でさえ、命を預けてくれる忠臣が脇を固めていた。人形の自らには、それがない。
きっと、長野とて、忠義の男ではないのだろう。
それでも――
「長野の下へ行く。ついてくる者は、好きにせよ」
「はっ」
自分を人形扱いせず、顔を見てくれたのはあの男だけであったから――
人の流れ、世の流れ、全てが今、反転し襲い来る。
○
同士討ち、敵と味方の区別も出来ず、山内上杉の陣内でも怒号が溢れかえる。元々、関東諸侯とひとくくりにしても、時には殺し合っていた者同士、陣営が違えば腹に一物あってもおかしくはない。それが顕在化しただけ。
それだけのこと――
「な、長野殿、お逃げくだされ!」
「其の方は、確か――」
「千葉の息子でございます。大恩ある長野殿に死なれては、父に申し訳が立ちませぬ。我らがここをお守りいたしますゆえ、どうか、殿と共に再起を!」
「……すまぬ!」
もはや、勝負はついた。扇谷上杉、古河公方を欠き、山内上杉の当主すら戦場にはいない。そんな中で、誰が山内の家臣、しかも成り上がりの豪族でしかない長野の言葉など、聞く耳など持たれない。取りまとめられる者がいない。
連合軍は完全なる烏合の衆と化した。
とうとう、殿を任されていた長野業正も撤退を決意する。
「父上、某は立派に務めを果たして見せまする」
千葉采女の子は、震える足を叱咤しながら槍を携え、家名のため戦場に残った。長野を失えば、千葉采女は何の後ろ盾も無くなってしまう。
彼との繋がりだけが、家に残された全てであったのだ。
「……ここで命惜しめば、ふはは、他所へやった小梅らに笑われてしまうわ!」
せめて健勝であれ、兄としてそう願い――
「勝ったァ!」
「あっ」
黄色の怪物が、全てを踏み潰す。
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