第捌拾壱話:いざ、大勝負

 籠城相手の包囲で戦が長引くのはままあることであるが、これだけの大軍勢が長期に渡り陣を敷くのは中々あることではない。しかも冬を跨ぐと言うのは大変なことで、食糧の供給が充分であったとしても寒さがやる気を、士気を下げて来る。

 山内、扇谷、古河公方、彼らの権威は確かに大きい。こと関東での影響力は比類なきものであろう。だからこそ、関東中から八万の軍勢が集ったのだ。

 されど、権威はあくまで権威でしかない。

 権威とは看板である。実力無き者にとってその看板は大きな意味を持つが、実力者にとってその看板は必ずしも重要視するものではない。

 自らの足で立てる者にとって、

「長くはないな、上杉も」

「公方様は?」

「論外だ」

 河越城を前に立ち止まるしかない彼らはとても脆弱に見えた。政治のことばかり考えているから、八万で包囲し続けると言う愚策を取らざるを得ない。

 本来なら軍を分け、周辺の城を落としてなお余りある戦力である。河越城にこだわる必要は薄い。だが、ここで連合軍の弱さが出てしまう。何処かの勢力が城を取れば、その城は取った勢力のものとなるだろう。あとで分ける、と言うのもおかしな話。三家、いや、両上杉にとってそれは避けたい話なのだ。

 だから軍を分けることが出来ない。足並みを揃え、同時に攻略していく手段しか取れない。その機動力の無さが、欲をかき政治に拘泥する浅ましさが、今の停滞を招いていた。すでに兵の心は離れつつある。

 一度乱れたならば、必ず離散してしまうだろう。

 烏合の衆、聡い者ほどこの大軍勢、脆く見えていた。

 とは言え、正面からぶつかれば負ける要素はない。結局のところ、無限に籠城し続けることなど出来ず、いずれは必ず音を上げる。

 その時、果たして北条に打てる策はあるのだろうか。

 少なくとも今、この時点で北条側に活路があるとは誰も思っていなかった。


     ○


 北条氏康は改めて軍を再編し、八千の戦力をかき集めて河越城の方に向かっていた。完全に包囲されている河越城に情報を伝達するのは、おそらく夜闇に紛れたところで不可能であろう。ゆえに氏康は決断する。

 河越城には何も伝えぬことを。

「よろしいのですか?」

「よろしいも何もない。伝えられないのであれば、伝えずに戦う方法を模索するしかないだろう? 幸い、城を率いているのは孫九郎だ。なら、問題ない。色々あったが、だからこそ出来ることもある。やって見せるさ」

「承知致しました」

「二人とも働いてもらうぞ。この三代目新九郎、一世一代の大勝負だ」

「「はっ!」」

 無茶も承知で五色備が二人、赤備の北条綱高、黒備の多米元忠に氏康は指示を出す。こなせるかどうか、そもそも相手が乗って来るかどうか、見切られぬか、騙し切れるか、河越城の彼らは呼応できるのか。

 全てが上手くいって初めて、

「活路はある。勝つぞ、皆の衆!」

「応ッ!」

 か細いながらも活路を造り出すことが出来る。

 北条綱成ならば、笠原康勝ならば、河越城を守り切れると信じていた。あの男ならば即座に戦えぬと悟り、出来る限り食糧を城に詰め込み、籠城の構えを取ってくると信じていた。冬を越え、未だ包囲崩れぬ状況に、氏康は思う。

 彼らがいてくれてよかった、と。

 北条は人に恵まれている、と。

 今川相手には良いところがなかった。奮闘する彼らには申し訳なく思う。鉄の意志で立てこもり、自分たちを信じて待ってくれている彼らから見れば、あまり格好のつく登場ではないだろう。今川に情けをかけられた形なのだから。

 それでも今は、恥も外聞も捨て勝ちに行く。

「勝つぞ、勝千代」

 友の幼名を口に出し、氏康は河越城の方へ拳を突き出す。

 絶対の信頼がある。あちらもきっとそう思ってくれている。なればこそ、その信頼は絶対に裏切ることなど出来ない。

 必ず、成し遂げて見せると氏康は誓う。

 不可能を可能にしてこそ、初代、二代目に顔向けできると言うもの。彼らは成した。ならば、三代目である己に出来ぬわけがない。

 今は自分が、御本城なのだから。


     ○


 雪が融け、冬を越え、時は天文十五年三月のことであった。

 士気が落ち込み、何か言い訳を見つけて連合軍から抜けられぬか、関東諸侯らは皆そればかり考えていた。本来であれば田植の時期である。

 八万の大軍勢、当然百姓も多く含まれている。

 彼らにとっては食うものを得るための田植は最も大事で、優先すべきことであり、それが出来ぬ現状にやきもきしていた時――

 とうとう北条軍の後詰、氏康率いる本隊が河越城近郊に姿を現したのだ。河越城の南を抑える山内上杉の軍勢はそれを察知し、嬉々として喜んだ。

 ようやく終わりが見えた。

 しかも軍勢は――

「七千ほど、か。勝てるな、長野よ」

「はっ」

「ようやく終わりだ。この戦も」

「…………」

 山内上杉家重臣、長野業正は氏康の軍勢を見ていぶかしむ。確かに、北条一家の動員などおそらくあれが限界。上積み出来たとて精々、千か二千が限度だろう。

 だからこそ、来るとすれば奇襲だと思っていた。

 それでもなお、八万ならば負けぬと踏んでいたのだ。

 それなのに北条軍は正面から堂々と現れて見せた。負けに来たようなものである。八万を前に数千の戦力で何が出来ると言うのか。

 三代目はうつけであったのか、など様々な考えが過ぎる。

「来たか、氏康め。もったいつけよって。これで北条は終わりだ。河越城も頼りない後詰を見て、意気消沈している頃だろう。何もせずとも落ちるかもしれんぞ」

 扇谷上杉当主、上杉朝定は大笑いしていた。

 何たる脆弱な戦力か。八万を前に高々数千の兵で戦おうと言うのだ。遠目に見えるは北条氏康の旗、白地に黒い三角が三つ合わさり、大きな三角を描いている。紛れもない北条氏康の本隊が、ノコノコと現れたのだ。

 御旗の下には北条氏康と思しき鎧姿も見える。

「三代目はうつけであったか。こちらについて正解であったわ」

 古河公方、足利晴氏も笑っていた。長い包囲に疲れていた公方は、ようやく見えた終わりに安堵していた。これで決着、全てが終わる。

 勝った、誰もがそう思った。


     ○


「……七千ぐらいですかね」

「ああ」

 待ちに待った軍勢の到来。されど、その兵数は彼らが想像していた、動員できるであろう数字とほぼ合致していた。つまり、予想の範囲内。

 これでは勝てない。勝てるわけがない。

「やばいですねえ、これ」

「笠原、今すぐ城内の味方を鼓舞して回れ」

「焼け石に水、だと思いますがね」

「それでもだ」

「承知」

 北条綱成は考え込む。あの軍勢を、正面にさらす意図を探る。八万相手であの兵数ならば、絶対に見せない方が良い。せめて姿をくらまし、相手の思考の裏をかき奇襲を敢行する。それしかない兵力差である。

 そんな中、堂々と本隊を見せた意味――

「新九郎ならば、どうする? あいつが破れかぶれで戦うわけがない。どんな状況でも諦めなかった男だ。不得手だったくせに、何だかんだと武芸も鍛え、見せられるようにもなった。諦めずに、積み重ねて、あの男は新九郎になったのだ」

 北条新九郎氏康、否、伊勢伊豆千代丸ならば、どうするか。どう考えるか。小田原で、足利学校で、戦場で、共に学び、高め合った男なら――

「……初陣の時、そして、あの碁の中で見せた、牙」

 脳裏に過ぎるは、対峙していた女人の豪腕。あれを境に、五色備の戦は変わった。自分も、他の五色備も、氏康も、『彼女』の影響を受けている。

 勝機をこじ開けるような、攻めの強さ。

「……信じるぞ、新九郎」

 北条綱成は考えに考え抜いた中で、最高の手を見出した。

 あとはそれが、氏康と合致しているかどうか、である。あの本隊を晒した時点で、氏康は情報の伝達を諦めたのだろう。確認する方法はない。と言うよりも確認しないことをこちらに伝えるための晒し、でもあるはず。

 勝つぞ、と綱成の耳に氏康の声が届いた気がした。

「もちろん、勝つとも」

 ゆえに北条綱成もまた、同じ言葉を紡ぐ。

 絶対に諦めない姿勢は、氏康が初陣で示した。ならば、己もまた絶対に諦めずに喰らいついて見せる。それが、三代目のやり方で、三代目に仕える自分たちがやらねばならぬことだと、綱成も信じていたのだ。

 ここより始まるは空前絶後の空中戦。どれだけ相手を信じられるか、全てを即興でやり抜かねばならない。

 北条氏康は、北条綱成ならば出来ると踏んだ。

 ならば、やって見せると綱成もまた意気込む。

 長き戦いに終止符を打つ、最後の大勝負がこれから始まる。

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