第捌拾話:長丁場

 雪がちらつく中、とうとうその報せが連合軍側に届いた。

「……馬鹿、な」

 扇谷上杉家当主、上杉朝定は報せを聞き激怒していた。両上杉家、古河公方は早速三家での話し合いの席を設け、突然届いた信じ難い情報を整理しようと、四苦八苦していた。何しろ、今川と北条が和睦したと言うのだ。どうやっても勝てる状況であった。今川と連合軍で挟み続ける、局地戦で勝つ必要すらない。

 この状況を維持するだけで北条は滅ぶ。

 それなのに今川は――

「あの、公家気取りめが。よくも我らを裏切ってくれたな」

 激怒する朝定の想いは、ここにいる皆の代弁でもあった。

「ううむ、この情報はまことなのか? 意図がわからぬぞ」

 古河公方、足利晴氏も頭を抱える。そもそも彼は今川が絶対に勝てる構図を作ったからこそ、この北条を切って連合軍に与したのだ。

 その発起人が一抜けた、と言うのは正直理解出来なかった。

「端から傷浅く河東を得るために我らを利用するつもりだったのだろう。度し難い男だ。坊主に御されている噂はまことのようだな。大うつけめが。御両人、今川が下りたとてこの戦いの趨勢は変わるまい。重要なのは我ら三家が手を取り合い、協力体制を崩さぬことだ。我ら三家が乱れねば北条に付け入る隙などなかろう」

「しかり。大事なのは扇谷殿の言う通り、狼狽えぬことである」

 朝定の言葉に山内上杉家当主上杉憲政も同調する。そう、彼の言う通り三家が結び、北条への反発も利用して関東諸侯をまとめている今、どうあってもここから北条が巻き返す隙間など存在しないのだ。

 隙間が生まれるとすれば、それは内輪での争いしかありえない。

「いずれ今川には今回の件、ご清算いただくとしよう。北条の次は今川、坂東武士の力、駿河の公家気取り共に見せつけてくれようぞ」

「うむ」

 憲政は嬉々として呼応し、晴氏もまた首肯する。ただ、正直古河公方側とすれば今川と対立したいとは思っていなかった。今川家は駿河、遠江の二国を抱える大大名である。しかも、初代、二代目が勝ち過ぎたツケを払わされている北条とは異なり、今川に対して関東諸侯はさほど反感を抱いていないだろう。

 この連合軍は北条への敵愾心があればこそ成ったもの。

 今川を相手に同じ兵力を動員できるとは限らない。

「今一度結束を強く、しかと戦うべき時。本日は我ら扇谷が先陣を切ろう」

「我ら山内も続こうぞ」

「うむ、よきかなよきかな」

 とうとう西側の情報が届いた。されど、三家は思う。だからどうした、と。北条一家が動員できる兵力などたかが知れている。今回、連合軍に与しなかった下総の千葉家のみ。よもや加担することもなかろうが、加担したとしても脅威にはならない。やはり、どう考えても足並みが揃っている限り負けのない状況である。

 無論、この大軍勢の足並みをそろえるのは並大抵のことではないが――何だかんだと彼らも名門の生まれ、崩れるほどのへまはしない。

 改めて彼らは誓う。共に戦い東国の安定を図ろうと。

 その後のことは、その時考えればよいのだ。


     ○


 久方ぶりの大攻勢にも、北条方は狼狽えることなく、緒戦に見せた粘り強い守りを見せ、河越城の敷居を跨がせぬ奮闘を見せていた。

 やることは変わらない。来るなら来い、と笠原率いる白備が中心となって城を堅守する。北条綱成が率いる黄備は各種防衛拠点に散らばり、彼らもまた奮戦する。彼らは知っているのだ。本当は先陣を切って戦いたい男が、統率に注力するため槍も持たずに指揮を取ることの辛さを。

 なまじ、人よりも遥かに強いからこそ、己が出れば局地戦での犠牲を少なくすることが出来る。されどそれは悪手なのだ。

『総大将なんですから、後ろで腕でも組んでてくださいよ』

 笠原が綱成に投げかけた楔。彼が前に出れば優位となる場所が出る一方で、何処かの前線に赴けば別の前線に目が届かなくなる。応手が遅れることもあるだろう。それでなくとも前線には危険がつき物。

 総大将が負傷、戦死してしまえば士気を保つことなど不可能。籠城の態勢など瞬く間に崩れてしまう。だから、猛将綱成は腕を組み耐える。

 皆が戦う姿を見つめながら、不測の事態に備えていた。

「殿の分も戦うぞ!」

「おう!」

 力闘が続けばこそ、綱成の拳に力が入ってしまう。

 ここに氏康がいれば、己は前線で彼らと共に戦っている。今更ながら彼は総大将としてただ在り続けることの苦悩を理解した。

 前線で暴れ回ることの、何と気楽なことか、と。

「……突然の攻勢。何か状況が変わったのか? 西側で何か……いや、憶測に縋るのは意味が無い。確たる情報を得るか、自らの眼で兆しを見つけるまでは」

 今はただ、耐え忍ぶまで。その姿勢を見せ、河越城自体を耐え忍ぶ空気で満たさねばならない。難解な仕事である。前線とは別種の苦労がある。

 されどやり遂げねば、明日はない。やるしかないのだ。


     ○


 長引く戦場に、関東諸侯の士気は徐々に低下しつつあった。北条綱成率いる河越城驚異の粘り。未だまともに城へ踏み込めてすらいないのだ。先行きが見えない。冬に至り、雪も降り積もり、もはや最初の頃の勢いなどなかった。

 これが長期の戦の難しさ。本来であればここに兵站の問題も関わってくるのだが、そこはあの三家が手を組み、関東全体が後押しする陣営ゆえ、何とか堪えていた。されど寒さは中々我慢できない。薪を集め、常に火を絶やさず、炎の周りに皆が集まり、寒さをしのぐ。辛いのはどちらも同じである。

 されど、モチベーションは籠城する側、される側、大きく異なってくる。

 明らかな士気の差が、生まれつつあった。

「寒いのお、上泉の」

「ですな、長野殿」

 あの報せが届き、三家が一丸となって臨んだ大攻勢も跳ね返された。大した精神力だ、と長野業正は心の中で彼らを称賛していた。そもそも、普通ならば八万に囲まれた時点で勝負はついている。城が堅牢であるとか、それ以前の問題で、城内の統率が大軍を前に乱れ、離反する者が後を絶たなくなるから。

 この軍勢相手に籠城出来ている時点で、河越城を指揮する者やその下の三千の兵力全てが業正にとっては眩しく見える。

 同じことが山内上杉の中で、果たしてできるだろうか。

「あちらも辛いでしょうに、堪えている様子はありませんね」

「よほどの才人が詰めておるのだろう。羨ましい限りだよ」

「何処に耳があるかわかりませんぞ」

「ぬしがおれば、間者の耳とて届くまい。私は達人の気配を察する力を信じておるのだ。ぬしが止めぬ限り、如何なる言葉でも吐くぞ」

「御冗談を」

 大笑いする業正に、上泉秀綱は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「冗談はさておき、ああも微動だにせぬと言うことは、しっかり冬を越す支度は済んでいるのだろう。冬は我慢せねばな」

「もう少し開戦が早ければ、もしかすると決着は既についていたかもしれませんな」

「……何故そう思う?」

「丁度稲刈りを、収穫を終えた頃に開戦だったと記憶しておりますが」

「……そう、であったな」

 長野業正は上泉秀綱の言葉に引っ掛かりを覚えていた。確かに開戦前、業正らは頃合いの良さに浮かれていた。収穫を終え、潤沢な糧食がある。

 これで大軍でも長く戦える、と。

 しかし、よく考えずともそれは北条方も同じこと。こちらが潤沢な兵站を用意できたように、彼らもまた潤沢な糧食を蓄え、冬を越さんとしている。

 逆に、もし少しでも開戦が早ければ、今の状況はありえなかったかもしれない。稲刈り前であれば、もちろん連合軍側も苦しい部分はあったが、それでも河越城を干上がらせる意味では、早い方が絶対に決着は早まったはず。

 収穫前の稲を奪い、連合軍側が活用することも出来た。

「……この戦の発起人は……そして、時期を決めたのも」

「どうされましたか?」

「いや、何か、大きな掌の上で踊らされているように感じてな。ふと怖くなった。深読みし過ぎとは思うが……しばらく寝つきが悪くなりそうだ」

「童のようなことをおっしゃる」

「上泉の。もし神がこの戦を俯瞰し、操っているとすれば、ぬしならばどう捌き、どちらを勝たせたいと思う? ここだけの話だが」

「ふむ」

 秀綱は考え込み、

「質問の意図はわかりかねますが、私ならば東国を安定させるために連合軍側に勝たせるでしょうな。北条側が勝った時、関東は絶対に荒れまする」

 そう答えた。業正の答えとは真逆であったが、考え方は同じ。要は関東を安定させようと思えば、今のままはありえない。どこもかしこも煮詰まった状況であり、いつ破裂してもおかしくはなかった。だから、整理せねばならない。

 どちらか一方を削ぎ、どちらか一方を選ぶ。

 今の今まで業正はあの男の意図が読めなかった。何を考え、絶対に勝ち切れる構図を崩したのか。朝定などは矢面に立つことを嫌い、無傷で得ることを優先したのだと言っていたが、本当にそうなのかと言う疑問はあった。

 もし、あの男の考えが業正のそれと合致するならば、どちらが勝つかどうかはさほど重要ではなく、どちらかが消えればそれで良いという考え方。その上で彼は選別のために試練を設けた。名門が威光を示す機会と、

「新鋭が、立つ機会……か」

「……?」

 どちらでも良い。が、折角だから良い方を選びたい。この妄想が真実であれば、もはやあの男は人の、武士の枠に収まらない。

 業正の知る誰であっても届きはしない。

 それこそ、神そのものでもなければ、崩れない。そんな気がした。

「長野殿」

「ん?」

「人が来ます」

「そうか」

 業正と秀綱は何食わぬ顔をして、気付かぬそぶりを見せる。

「長野殿、ご無沙汰しております!」

 現れたのは一人の若き武士であった。ご無沙汰、と言われたが業正の記憶に彼のような若者のものはない。ただ、何処かで見たことがあるような――

「千葉采女の息子、三太郎にござる」

「おお、千葉殿の」

 そう言われてようやく業正の記憶と結びついた。彼の遠縁である千葉一族、名門である下総の千葉氏とは名前以外似ても似つかぬ家柄ではあるが、目の前の男もそうだがこの一族は全体的に顔が良く、特に娘は一級品の美貌を持っていた。

 そこに業正は眼をつけ、己の縁戚であると嘯き、政略の道具とした。無論、そこは千葉の家も織り込み済みの話。双方に利があったからこそ、上手くやっていた。

 最後に会ったのは確か――

「末の娘が平井伊勢守殿の下へ嫁がれた時に、一度お会いしたかな」

「はい。小梅の件はお世話になりました。まさか、あれほどの名門からお声がけいただけるとは。父も夢ではないかと喜んでおりました」

「娘子の器量あってのこと。私は何もしておらぬよ」

「飛ぶ鳥を落とす勢いである長野殿の縁者、と言う箔があってこそ。お忙しい時にご迷惑かと思いましたが、せめてご挨拶だけでもせねばと思いまして。遅ればせながらこうして参った次第でございます」

「嬉しいことだ。気のつく良き息子を持って采女殿も鼻が高かろう。今後ともよろしく頼むと御父上に伝えてくれぬか? この戦いが終わった後に」

「必ずや」

「頼むよ」

 あの長野業正に覚えていてもらえた。その上で言付けを預かったとあって、千葉の三男坊は意気揚々とした様子。言わずとも父にしかと伝えるだろう。

 多少話を盛って。

「確か千葉采女殿は、あのお二人の世話をした家でしたかな」

「よく覚えておったな」

「印象的でしたから。今頃は龍か虎か、想像するだけで身震いしてしまう」

「何の話だ?」

「……おっと」

 秀綱は業正があの少年を少女と認識していたことを失念していた。咄嗟に口をつぐむも、笑いをこらえるのに必死である。女装した少年とかなりの経歴を持つ僧侶の二人組など、あの後一度として遭遇することはなかった。

 おそらく、生涯を通じてあれが最初で最後であろう。

「結局当てが外れた形。だが、あの覚明殿は近く、越後の、何と言う寺だったか、そこの住職を継がれるそうだ。近くに湊がある寺だ。市も栄えよう」

「歓待も無駄ではなかった、と?」

「うむ。良い出会いであったかを決めるのは今後の話だが、やはり物流はあちら側の海が強い。越後の湊との繋がりは、薄くとも欲しかろう」

 長野家のさらなる発展につながる可能性。それを前に業正はニヤリと笑う。やはり彼は戦場でより、そちら側でこそ輝く男なのだろう。

 逆に上泉秀綱は――

(……越後からやって来た小さな虎、順当に旅が進めば駿河に、駿府にも足を踏み入れることだろう。相手は大大名、軽々に会える相手ではないが……もし会っていたとしたら、今川の立場なら北への備えが欲しくなるはず)

 あの少年を知るが故、業正とは別の観点から答えに近づく。

(この戦いは、そのための選別、なのかもしれない。あの虎を、いや、あの時の感覚が正しければ、龍と成ったあの少年を阻むための、盾であり壁。その役目に能うはどの陣営か、それを占うための一戦、と言うのは考え過ぎ、か)

 長野業正はこの戦の構図から神の手を見た。

 上泉秀綱は思い出からその手が恐れる何かを、見た。

 今はまだ、誰も答えを知らぬ、知り得ぬ先の話であるが。


     ○


 冬を越す長丁場、誰も彼もが言葉少なく、時が過ぎるのを待っていた。如何に着込もうとも寒さはきつい。食べるものに不足はないのはこのご時世嬉しいことだが、それでも辛いことには間違いなく、不平不満も溜まっていく。

 士気は、時が経つごとに低下していた。

 誰かが漏らす。

「いつまで続くんだよ」

 と。

 誰かが溢す。

「寒ぃ」

 と。

 また朝日が昇る。今日もきっと戦わない。明日もそう。明後日も同じ。敵は寒さ、とにかく暖の取れる場所を確保する。

 火を巡る争いは大小絶えることはない。

 早く終われ、その想いは次第に広がっていく。

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