第捌拾弐話:新九郎、逃げる
連合軍を率いる三家が集い、ひざを突き合わせる。
彼らの下には一通の書状が届いていたのだ。差出人は北条氏康、冬を跨ぎとうとう現れた北条の当主、その人である。
古河公方、足利晴氏はそれにようよう目を通し、じっくりと筆の流れを見定める。継室に北条氏綱の娘を迎え、北条と縁戚関係のある晴氏は、氏康の字かどうかなど一目瞭然。これは間違いなく――
「……氏康めの字であろうな」
「で、こんな恥も外聞も捨てた書状を送り付けてきたわけか」
扇谷上杉当主、上杉朝定は鼻で笑う。
「ううむ、このようなこと、通るわけもないだろうに。今川の恩情に味を占めたのか、意図が良くわからんのぉ」
山内上杉当主、上杉憲政は首をかしげていた。
古河公方には北条家と比較的親交深かった家臣伝手に、両上杉には関東諸侯が一角常陸の小田家を伝い、ほぼ同様の書状が届いた。
端的に言えば、詫び状、つまりは降伏の申し出である。
多少内容に違いはあれど、要は降伏し城を明け渡すゆえ、城兵及び北条綱成の助命を願い、今後は公方家にしかと仕える、と言うものであった。
「くだらん。ことここに至っては北条を騙る伊勢家を滅ぼす以外の選択などない。それは各々方も理解されていることだと思うが?」
「……そうじゃのう」
「うむ」
「焼き捨てよ」
「はっ!」
あっさりと焼き捨てられる詫び状。上杉朝定は北条家当主が見せた醜態に対し、心の底から嘲笑っていた。往生際が悪過ぎる。
武士ならば腹の一つでも切って、その上での詫び状であろう。城内の兵も、当主自らも、生き永らえたいなど武士の風上にも置けぬ振舞い。
それは名門、扇谷上杉に生まれた朝定にとって許し難い醜悪さであった。
「必死に兵をかき集め、ようやく現れたと思えば平身低頭詫びるばかり。冬を越す前であればまだ、受け入れる余地はあった。だが、この長き戦の決着を温情ですませば、それこそ三家の面子が立たぬ。明朝、各軍が持つ余剰戦力を以て北条を騙る不届き者どもを一掃する。異議のある方はおられるか?」
「それでよかろう」
「異議はない」
「であれば、明日の野戦にて決着だ」
詫び状など時間稼ぎにもならない。もう侘びで済ませられるような状況ではないのだ。それは北条方も理解しているはず。それなのに彼らはそれを出した。伝手を使い、手間暇をかけて、彼らに何かを刻み込んだ。
往生際が悪く、卑屈で、生き汚い、出来の悪い三代目を刻み込む。
○
「小田殿、少しよろしいか?」
「長野殿、これはこれは。どうされた?」
明日、北条軍本隊を攻める旨が通達され、各自準備を始めていた。八万の内、包囲を解かずに二万、三万は余裕で出せる。普通に当たれば負けようのない戦である。だからこそ、長野業正は何となく嫌な予感がしていた。
ゆえに北条家の書状を、三家に繋げた常陸の実力者、小田政治の下へ訪れる。それで何がわかると言うわけではないが――
「北条の詫び状を繋げた者、ですか。確かにうちの家臣でしたな。繋げる分にはさほど問題ないと、内容も内容でしたので」
「なるほど。何か、作為めいたことは感じませんでしたか?」
「作為、とは?」
「……二代目と共に戦場をかけ、すでに充分な経験を積む三代目にしては、この状況で詫び状などあまりにも無意味だ、と感じまして」
「……確かに。それだけ窮しているとも捉えられますが、些か不自然に感じられますな。さて、であれば何をもって自然とするか、ですが――」
結局のところ、そこで行き詰まる。どうにも引っかかる部分はあれど、その引っかかりによって何が変わるのか、それが見えないのだ。
それは小田家の勢力を引き上げた実力者、小田政治にとっても同じこと。
「明日、当たってみてのお楽しみ、ですな」
「さすが上り調子の小田家当主、肝が太い」
「ぶはは、長野殿も世辞が上手だ。さぞ山内で鍛えられたと見える」
「まさか。鍛えられましたが、こちらは本音ですので」
「……武士ゆえ肝を太く見せておるだけ。まだ息子は若く、線が細い。わしがしっかりせねば小田家は終わる。それだけのこと」
「ご子息は確か、小太郎殿、でしたか。そろそろ元服の頃合いだったような」
「驚いた。常陸の田舎者のことも御存じとは」
「関東八屋形の一角が小田家のこと。知らぬ方がおかしい」
「くく、長野殿は恐ろしい人だ」
関東管領山内上杉の有力者にまで上り詰めた男と、小田家の版図を広げ最盛期を築きつつある男の会話には世間話でも緊張感が漂ってしまうもの。
「では、明日」
「うむ。精々見せてもらいましょうか。三代目の意地とやらを」
「ですな」
一礼し、長野業正は席を立つ。何かに引っ掛かりを覚え、会いに来たは良いが何も掴めずじまい。まあ、深読みし過ぎるのもいい傾向ではないだろう。今の北条に何が出来るとも思えない。明日ぶつかって何かあったとしても、
「……我が方の勝ちは揺らがない」
連合軍側には余裕がある。
「立場上、上の方であるのに物腰の柔らかい御方でしたな」
護衛、と言うわけではないが長野業正の隣に上泉秀綱がいた。陣の前で聞き耳を立てていたのだろう。世間話が届く距離でもないのに、大した地獄耳である。
「自信があるのだ。己の実力に。ゆえ、殊更大きく見せる必要もない」
「なるほど。さすが足利に連なる血統、大人物ですな」
「足利の血など関係あるものか。それであれば公方様は皆、才人であったはず。されど、鎌倉公方の名残は、古河を残しほとんど絶えた。無論、才人でなかったとは言わぬよ。才気溢れた御方も多かった。が、それ以上がいたのだ」
先代の北条氏綱もそう。小弓公方を下し、自らの版図を大きく広げた。あの戦が彼にとって最大にして、最高の仕事であったことは間違いないだろう。
関東に北条あり、それを示した。
だが、その栄光もあとわずか――
「室町も陰り、時代は揺れておる。そこに乗じて昇ってきた北条もまた、ここ止まり。されど、この戦いの後にはさらなる戦いが待っている」
「扇谷、ですか」
「そうだ。荒れるぞ、関東は」
「乗り切りたいものですな、平穏無事に」
「馬鹿を言え。大きな争いがあれば嫌でも上の席が空く。好機だ」
「……こわやこわや」
長野業正は杞憂を振り払い、前だけを見つめる。これから先巻き起こるであろう関東を二分する戦い。山内と扇谷を中心とした騒乱。
それを上手く乗りこなせば、上が見えてくる。
上杉憲政との良好な関係、他方に張り巡らせた血族の輪。地盤は整っている。古狸どもをふるい落とし、長野家を高みへと引き上げる。
関東管領を操りて――
○
翌日、連合軍は余剰戦力二万五千を以て北条軍に襲い掛かった。最終決戦だと檄を飛ばし、久方ぶりに高まった士気は――
「……な?」
ぶつける相手を失い、宙に浮く。
「ふ、ふはははは、なんだ、それは。氏康め、父とは似ても似つかぬ腰抜けであったか。まさか、ぶは、当たる前から撤退とは」
扇谷、朝定は大声で笑っていた。それもそのはず。北条軍は連合軍の多勢を見るや否や、即時撤退、陣を引き払ったのだ。
あまりの弱腰に皆呆気に取られていたほどである。
からの、
「あはははははははははは!」
連合軍全体から響き渡る嘲笑。戦力差は明白で、勝てる見込みが薄いとはいえ、武士ならば一戦交えるぐらいすべきだろう。そうでなければ籠城側に示しがつかない。きっと今頃は、下ろうとしている兵が続出しているはず。
後詰あっての籠城。その後詰がこの有様では、籠城など出来まい。
連合軍側は勝利を確信した。
この有様を見れば、堅守を続ける河越城も崩れ落ちるだろう、誰もがそう思った。意図もクソもない。これではもう継戦など不可能。
勝った。何かあるのではと疑っていた者たち、用心深い者たちですら、確信をもってそう言い切る。もはや負ける要素など、無い。
この日、戦うこともせず北条軍本隊は府中にまで下がった。
○
後詰の惨状を見て、北条綱成と笠原康勝は目を見合わせる。
「孫九郎殿、これは」
「ああ。決まりだ」
富士見櫓の上で北条綱成は笑みを浮かべていた。己の描いた絵と、氏康が描かんとする絵、それが寸分の狂いもなく合致したから。
「……これ、連絡なしでやります? 普通」
「連絡をすれば何かあると敵に伝えるようなもの。連絡をしないという行動を、俺たちは汲み取らねばならない。さあ、盛り上がって来たぞ」
「ま、いい風が吹いてきたとしましょうか」
「冬を我慢した後の春風だ。沁みるな」
「本当に」
彼らは笑っていた。絶望ではなく、希望を浮かべていたのだ。
そして彼らは獰猛な眼を、包囲する連合軍に向ける。
「敵方に気取られぬよう、出陣の準備をさせよ」
「承知」
「勝つぞ、笠原」
「小が消えましたね」
「……そう言うことだ。頼りにしている」
「んん、孫九郎殿は稀代の名将ですねえ。信頼の分、働かせて頂きますよ」
恭しく頭を下げ、笠原康勝は櫓から降りる。
しばし、綱成は風を感じていた。
「いい風だ」
勝てる。臆病者としか思えぬ撤退を見て、本隊の醜態を見て、綱成は確信していた。八万対八千と三千、現実を覆す準備は今、整ったのだ。
○
天文十五年四月十九日、早晩崩れ去ると考えていた河越城が、なおも頑迷に堅守を貫くため、業を煮やした連合軍は府中に逃げ去った北条軍本隊を、先んじて撃滅すべく軍を再編し、先日よりも多い三万の兵を動かした。
それでも包囲側には五万の兵があり、布陣としては何の問題もない。本隊を圧倒し、全てを終わらせるだけ。河越城の糧食も無限ではない。間違いなく、そろそろ底をつくはずである。これで終わる。全てを終わらせる。
長い戦いであった。長過ぎた戦いであった。
翌日、歴史が、時代が変わる。
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