第伍拾弐話:葬列
長尾為景没す。この報せは瞬く間に越後中に広がった。越後の全てがそうであるわけではないが、まだ雪深い季節である。それでも乱破(忍者)などの諜報員などを用いて大勢が彼の死を知った。越後を力にて征した男の呆気ない末期。
俄然、反長尾の勢力は活気づく。
彼らにとって最大の懸念、晴景を打ち倒した場合、隠居している為景が再び出て来るのではないか、という点があった。晴景に対し侮りや敵意はあれど、あの為景を引きずり出しかねない選択肢など越後の者には取れなかったのだ。
どれだけ腹黒くとも、どれだけ陰湿であっても、
「……怪物も病には勝てぬか」
純然たる力の前には押し黙るしかなかったのだ。
だが、これでもはや長尾家に人材無し。少なくとも揚北衆などの有力国衆はそう思っているし、野心ある者にとっては絶好機にも見えた。
そしてそんな彼らが掲げるべき存在は一つ。
「……ようやく来たぞ。わしの時代が」
越後守護、上杉定実。為景が旧来の越後守護を討ち取った際、大義を作るために用意した傀儡が彼である。上条上杉と言う越後上杉の分家に当たる家の出で、名門ではあるがあくまで分家、本来守護に座すような人物ではなかった。
それを為景が、自らの正当性を得るために無理やり当て嵌めたため、今日まで傀儡として実権を握ることはなかった。
そんな日々も今日で終わる。
為景が消え、晴景に国衆を抑え付けられる腕力はない。国衆はここぞとばかりに立ち上がり、長尾家を引き摺り下ろそうとするはず。
元々、揚北衆など古くからこの地に根差す者たちにとっては、上杉や長尾など関東から流れてきた余所者、としか見ていない。守護だろうが守護代だろうが、古くから根差す自分たちに口出しする道理はない、と言うのが彼らの考え。
ゆえに長尾家の台頭は彼らにとって非常に腹の立つことであっただろう。最終的に上杉も彼らからしたら余所者で邪魔なのだが、烏合の衆である彼らが一つにまとまるために掲げる旗は、やはり越後守護上杉定実を置いて他に無し。
流れが来た。『あの男』の言う通り――
○
長尾晴景は父の急死に天を仰いだ。厳密には急死ではない。彼が裏から政局を操っていた時も、裏でなければいけなかったのは体調が悪かったから。そのことは当時、為景から当主を任されていた晴景も重々承知していた。
よくここまで生き永らえてくれた。火種は残した。完全な継承は果たせなかった。それでも彼は精一杯生き永らえ、越後にとっての重石となってくれた。これ以上望むのは酷というものであろう。父は責務を果たした。
自分はどうか、と晴景は自問自答する。
運が悪い。そう言ってしまえばそこまでであろう。上杉定実が今しばらく沈黙を続けていれば、伊達の父子決裂がもう少し早まれば、おそらく彼の評価はまた違ったものになっていただろう。歴史もそうであるし、越後国内においてもそう。
最初の一歩目で運悪く躓いた。
それを見て彼らは晴景に才気無し、と見たのだ。
いや、そう望んだ、が正しいか。
「御屋形様。国衆が動きますぞ」
「ああ。わかっている」
父の死、それを素直に悼んでくれるほど越後の国衆とは甘くない。ここが好機とばかりに春日山へ攻め入ってくる可能性すらあり得る。間違いなくちょっかいは出してくるだろう。こちらの評判を落とすような何かを。
実際に優秀かどうか、立派かどうか、強いかどうかなど関係がない。人の評価と言うのは目に見える数字以外は他者の間に漂う空気のようなもの。彼らが優秀と思えばそうであるし、立派と思えばそうなる。
強さすら、ある程度まとうことが出来るのだ。
侮られた空気感が晴景にまとわりつき、足元をすくわんとする。
雰囲気は国を傾けることすら、ある。
「……春日山に戦力を集めろ。攻め寄せて来るならば相手取るまで」
「はっ!」
長尾晴景は意を決する。伊達稙宗に好き放題され、国衆側に立つ必要が生まれた。確証はないが直江実綱の動きで上杉が駄々をこね、結果として守護を立てる必要に迫られた。ここまでの反省はある。悔いもある。
だが、全ては終わったこと。
「新兵衛」
晴景は春日山城内にて家臣らと車座になっての軍評定の最中、客将金津新兵衛義旧に声をかける。声をかけられた金津は重々しい表情で、
「何でありましょうか?」
呼びかけに対し答えた。
「其の方から見て、今は長尾の危機か?」
「間違いなく」
言葉短く、だからこそ伝わる切迫感。
「……少し早いが、虎千代を出す」
「……⁉」
家臣らの顔色が変わる。確かに父為景と異なり、兄の晴景は末弟である虎千代と上手くやっているのは周知の事実。内々の話だがすでに古志長尾を継承させるため、彼らの本拠近くの城をあてがう予定もある。しばらくは古志長尾家のお膝元で城主の経験を積み、いずれは分家の当主となるまでが既定の方針。
それはまあ、大なり小なり思うところはあれど皆飲み込んでいる。
が、
「御屋形様、いえ、兄上! まだ元服前の小僧にこの局面で何が出来ましょう? 役割を与えると言うのなら、まず我々に振り分けるべきです!」
長尾景康、長尾景房、晴景から見て弟の彼らが声を上げる。それは城に詰めている家臣らの総意に近いものでもあった。
なぜ今虎千代なのか、そもそも何をさせるのか、
「虎千代に与える役割は大きなものではない。父の葬列、遺体をこの春日山に送り届ける役割だ。景康、其の方に出来るか?」
「その程度の使いであればお任せ――」
「国衆の手の者に襲撃される可能性もあるのだぞ」
その瞬間、景康は言葉に詰まる。意気揚々と任せて欲しいと言おうとしていたが、襲撃される可能性があると言われ、その意気が萎む。
長尾家には四人の兄弟がいる。長兄晴景、次兄、三男が景康、景房、四男が虎千代と続く。ただしこれは生まれた順番であり、継承の面での序列を表すことはない。そこに関わってくるのは主に母の血統、名門の出か、そうでないか。
彼ら二人は庶子(詳細不明)、遺された文献から彼らの序列を読み解くことは出来ていないが、少なくとも母方の記録が確認される限り残っていないのは事実。
だからこそ、功に急いている部分はあったのだが――
「戦力は春日山に集中する。そちら側に多くを回すことなど出来ん。それでもやると言うのなら、私は景康、其の方に任せようと思うが?」
「……あ、兄上、じ、自分は」
口ごもる弟より視線を外し、
「新兵衛。急ぎ虎千代に伝えよ。出来るか否か、即答であれば任せる」
晴景は当主としての命令を伝えた。
「心得ました!」
即座に金津義旧は立ち上がり、駆け出していく。とうとう出番が回ってきたのだ。自身が目をかけていた子どもが。一足早く大人の一員として。
三好しかり、偉大な人物は元服前から逸話を残すもの。
決して容易い任ではない。場合によっては長尾の名を地に墜とし、没落の切っ掛けとなる可能性もある。越後の国衆が厄介なのは誰もが知る所。
おそらく、十中八九、何か仕掛けてくる。
危険である。されど民の眼もあり、あまり大勢で向かえばそれはそれでビビりだと侮られかねない。非常に難しい塩梅。手勢は少なければ少ないほど箔が付く。
「御屋形様、今回の仕事、如何に長尾家の血筋とは言え元服前の童には少々酷かと思いまする。つきましては某がお供いたしましょう」
武骨なる声が軍評定の場に響く。
「弥次郎、案ずる必要はない」
声の主の名は柿崎弥次郎景家。越後の国衆柿崎家の生まれで、為景が取り立て、晴景も重用している若き重臣である。
文武に優れ、実直な性格は皆からの信頼も厚い。
「場合によっては国の一大事になりかねませぬ」
「ああ。わかっている」
「であれば――」
「『だから』、虎千代を出すのだ」
柿崎は主君の顔を見て目を見開く。悔しそうな、それでいて嬉しそうな、何とも言えぬ表情。しかし、言わずともこれだけはわかる。
長尾虎千代、彼に任せれば問題ない。
その一点だけは何の曇りもなく、信じていた。
「……承知」
しかもそれは晴景だけではない。今回の招集に誰よりも早く、しかも百人を動員してやってきた男、直江実綱。越後上杉の家臣として要職に就きながら、越後一と誉れ高き武人でもある大熊朝秀。そもそも先ほど喜び勇んで飛び出していった金津も春日山で知らぬモノ無しの切れ者。政の面で為景からの信頼も厚く、青苧座との攻防の際は八面六臂の活躍をしたのも記憶に新しい。
この一大事に元服前の小僧を用いる。
そこで驚きを見せず、ただ悠然と、泰然と、嬉々と受け入れたのは彼らのみ。
彼らは知るのだ。
この件、長尾虎千代であれば問題なく足る、と。
○
長尾虎千代は仏の前で座禅を組み、虚空ではなく武骨な拵えの太刀を見つめていた。父から受け継いだ名も無き太刀。何かを貰うのは初めてことであった。いや、離れにある城郭模型はおそらく、父が用意したものなのだろう。
如何に良い関係とは言え、あれだけのものを金津が虎千代に用意するかと言えば、少し怪しい気がしていた。考えれば何と言うことはない。
最初から自分は――
「虎千代様。御屋形様からの命により、御父上である先代当主の亡骸を無事、春日山城にまで送り届けるよう、とのこと」
「……それを兄上が申したのか」
「はい」
「……そうか」
「如何なされますか?」
金津義旧の試すような眼。それを見やることもなく、虎千代は背中を向けたまま笑みを浮かべた。今回の件、兄が俗物であれば絶対に、己へお鉢が回って来ることはなかっただろう。器の大きさと、家を優先する考えが虎千代の出番を早めた。
「御屋形様の命とあらば、断る道理などない」
ここに来て父の想いを知った。
改めて兄の器を知った。
ならば、
「謹んでお受けいたす」
「であればこちらへ。僭越ながら私の方で一式、揃えさせて頂きました」
「ぬしはソツがないのぉ」
「この時を待ち望んでおりましたので」
「……ぶは」
己もまた求められた役目を果たそう。
「もう少し派手な拵えの太刀も用意してありますが」
「これはよいのだ」
今、兄が、長尾が、求めるは――
○
冬だと言うのに春日山は熱気に包まれていた。雪深き道をかき分けながら、大勢の国衆がここ春日山に集まっていたのである。偉大なる長尾為景の亡骸をひと目見ようと、彼の死を悼んで、などと言う湿っぽい理由ではない。
彼らの多くは長尾家を見定めに来ていた。追い落とすためには陣容を、相手の力量を、器を把握せねばならない。越後北部の揚北衆もちらほら見受けられる。
ここにいる者、いない者、様々な思惑が錯綜する。
「末弟に亡骸の護送を任せたとか」
「先代から疎まれていた子であろう?」
「果たして、どう転ぶか」
春日山を守るという名目で戦力を近づけている勢力もある。長尾家が隙を見せれば彼らは逆に牙を剥くことになるだろう。
すでに仕込んでいる者も中にはいるはず。下手をすればここが戦場になる可能性もある。雪を理由に来ていない者もいるのは、本当のところ危険を察知して、という面が大きいのかもしれない。
「遅くなり申した。御屋形様」
「新五郎か。久しいな」
そしてここにも、反骨の心を持つ男が一人。越後長尾家の分家、上田長尾氏が嫡男にして当主名代、長尾新五郎政景。若く、それでいて才気に満ちた野心家。
それが大方の見方であろうか。
「守護殿に挨拶は?」
「先に済ませて参りました」
「……そうか」
先に本来の主君である上杉に挨拶をする。道理である。だが、その言葉の裏には凋落せんとする長尾の本家、その蔑みが見え隠れする。
本家の立場、そこに成り代わりたいのだろう。
自分にその器があると信じて疑わぬ顔をしている。虎千代よりも四つほど年上、つまりはまだまだ若造。それでありながら家の代表として、この死地に悠々やって来る程度の胆力もある。手は打ってある、と言わんばかり。
「御屋形様、何故虎千代なのですか⁉」
人混みをかき分け、長尾綾と直江文が晴景に前に現れた。
「綾、これは男の世界の話だ」
「虎千代はまだ元服前です!」
「……もう準備は出来ている。黙って見ていなさい」
「でも――」
「綾」
諭すような声色ではなく、命ずるようなそれはどこか父を彷彿とさせた。普段温厚で、父とは似ても似つかぬ長兄であったが、彼の中にも為景の血は確かに流れているのだろう。なおも食い下がろうとする綾の肩を文が押さえる。
これ以上はまずい、と。
「……そう邪険にする必要はないでしょう。綾殿、文殿、こちらで共に若様の到着を待ちましょうか。到着するかは……わかりませぬが」
政景の言葉に、綾はそっぽを向き、
「結構です!」
と言い切って文を引きずり、その場を去って行った。
「相変わらず、ですな」
「気を悪くしたか、新五郎」
「いえ。相変わらずお美しい、と思いましてね」
「……欲しいのは綾かな? それとも――」
長尾本家の血か、そんな質問で牽制し合おうとする最中、
「来たぞ!」
熱気を帯びた場から、全てがかき消えた。
「…………」
誰もが言葉を失う。
その光景に、
「……来たか、虎千代」
兄だけが様々な表情綯交ぜにしつつも――微笑む。
それは美しい鎧武者であった。漆黒の、長き髪をたなびかせ、真っ白な雪から浮かび上がるように、その男は遠目にもくっきりと見えた。
長身恵体、本当の身長はまだ、長身と呼べるほどのものでもないのだが、遠目から見ると異様なまでに大きく見えてしまう。切れ長の眼は美しき刀剣が如く煌めき、僅かに上がった口角より浮かぶは御仏が如し微笑み。
威風堂々、傷一つなく男は皆を先導し、歩む。
力が迸る。強さが滲み出る。
その上で、この上なく美しい。
「……とら、ちよ」
無邪気で口の悪い少年であった頃のことを知る綾と文は絶句する。そこにはもう、あの少年の残滓すらなかったから。
何でもやりたい、マタギでも、碁打ちでも、琵琶奏者でも、何だってやりたい。何だって出来る。全身で武士に抗っていた少年は、もういないのだ。
そこにいるのはまごうこと無き武士である。
「…………」
知る者、知らぬ者、皆一様に驚愕していた。ある者はその成長に、ある者はその変化に――噂しか知らぬ者は情報を塗り替える。
長尾家の末弟は、傑物であると。
「……馬鹿、な」
幾人かが同時に零す。その理由も様々。ようやく自分の時代が来たと思えば、突如として為景の面影を宿す怪物が現れた。驚きもする。若き俊英、晴景を無能とは思わぬが、自分ならばもっと上手くやれる。自分こそが相応しい。そう思っていた若者は、自分よりも四つも下の『本物』を前に圧倒されていた。驚きもする。何よりも、あの葬列に対し妨害工作を打ったはずの者たちが、驚愕する。
何しろ彼らは皆、傷一つなかったから。
葬列は少数である。何かしら、害意があれば妨害の一つ打てるはず。ただ、それはあくまで理屈の話。葬列を率いる男を見て、怖気づく気持ちはわかる。
何も出来なかった者を咎める気には、なれない。
「は、はは、なるほど。確かにこれは、『だから』、だ」
若き重臣柿崎は身震いする。晴景が自信満々であった理由を理解したから。言葉にするまでもない。一目見れば物が違うことぐらいわかる。実際に、戦々恐々する年寄り連中はともかく、若手は垣根を超えて見惚れているのだ。
己もまたその内の一人。
そこに彼はかつて見た主君、長尾為景の『強さ』を見た。
しかもそこに、母譲りの美しさが乗る。
「お待たせいたしました」
しなやかな動きで首を垂れる姿に、礼節をわきまえず好き放題する奔放さは存在しない。誰よりも優雅に、何物よりも不自由。
「護送の任、大義であった。面を上げよ」
「はっ」
兄弟が並び立つ。この場にいる彼らは知る。長尾晴景を討てば、次はこの男が出て来る、と。為景亡き今、絶好の機会であると思っていた者たち、その野心はことごとくへし折られていく。ただ一人の怪物と、
それを受け入れた器を持つ男の前に。
「……ここにおらぬ者は」
「ああ。間違えても仕方なかろう。まさか、噂の小鬼がこれほどとは」
「長尾家の秘蔵っ子。盤石とは言えずとも、長尾家そのものはここにきて大きく安定した。後ろにあれが控えているのだ。私なら、現当主を相手取る」
夢を見ることすら許さぬ強烈な雰囲気。強さと美しさを兼ね備えた人成らざる雰囲気に、誰もが皆息を呑む。
林泉寺の僧侶が経を読む中、城内へ棺を運ばせようとした際、誰よりも早く直江、大熊、宇佐美が動いた。城主を務めるほどの人物が、彼のために動いたのだ。
その事実もまた他の者を威圧する。
金津らも加わり、その列はより豪華さを増す。
これが彼のお披露目、実質的な元服と成った。
今日、長尾虎千代は死んだ。
今日、長尾景虎が生まれたのだ。
父から与えられた虎の字と、長尾家先祖代々の通字である景を掲げて。
春日山に集った越後の者は今日、この地に生まれていた龍を知る。
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