第伍拾壱話:父と子

 何年ぶりであろうか、と虎千代は思う。物心ついた時にはもう、父からは疎まれていたはずであり、こうして面と向かい合った記憶などない。

 それでも何故か、懐かしく感じてしまう。

 その根源が何か、わからない。

「――父上が越中で死した頃、俺は二十ほどであったか。父も哀れな男でな、山内上杉に呼ばれては関東へ、越中が荒れたと聞けば向かい、そこで敗死だ。無能ではない。むしろ優秀であったと思う。だが、結果は利用されたあげく、協力関係にあった越中守護代神保めに嵌められて死ぬ。まこと滑稽な死にざまよ」

「何故神保は長尾を裏切ったのでしょうか?」

「政治だ。そもそもあの時代、急進する地方の守護勢力に室町殿、いや、管領細川か、危機感を募らせておった。同時に加賀を手中に治めた本願寺めらも、越前の朝倉や能登の畠山などに挟まれ苦しい状況が続く」

「ゆえに手を組んだ、と」

「そうだ。つまるところ、あの戦は幕府対守護の代理戦争であったのだ。父上はまんまとそれに乗せられ、神保は早々に守護へ見切りをつけ、本願寺に擦り寄った。俺はそれを裏切りとは思わん。生き残る算段があれば、英断とすら思う」

 そう言った後、為景は酒をグイっと呷り、嗤う。

「が、結果は俺に滅ぼされた。つまりは、愚行であったわけだ」

 ケラケラと笑う為景の性根が腐った笑みを見て、ろくな人間じゃないな、と虎千代は思った。平素、彼が周りにそう思われていることは横に置く。

「政とはつまるところ結果よ。どれだけ優れた人物が、最善手を打ち続けていようと、何らかの要因で負ければ愚者として歴史に名を刻む。俺も危うく三分一原で宇佐美どもに土を付けられ、愚者として名を刻むところであったわ」

 だが、あの戦いは辛勝ではあるが父が勝っている。一時は劣勢、敗勢に追いやられながらも、巻き返したのはさすが歴戦の猛者と言ったところか。

「あの戦いは宇佐美が冴えた。大熊が冴えに応えた。良い戦であったとも。あれだけ追い詰められたのは関東管領山内上杉に侵攻され、越後から追いやられた時以来、などと言うのは褒め過ぎかもしれぬが、くく、良い戦ではあった」

 為景はずっと自分の戦の話ばかりをする。普段、別の者が相手であれば疎ましく感じたかもしれぬ昔ばなし、武勇伝、いわば自慢話だが、不思議と虎千代は聞き入っていた。時折どうやって勝ったのか、どう窮地を切り抜けたのか、どう攻めたのか、どう守ったのか、相槌と共に質問する。

 すると為景は上機嫌に答える。子どもに伝えるよう分かりやすく、などは微塵もせずに小難しく、己で噛み砕けと言わんばかりの投げっぱなしな回答ばかりだが。

 それもまた虎千代には心地よかった。

「酒が切れたぞ、おとら」

 びくりと虎千代が反応するも、ふすまが開かれ困り顔の虎御前がわかっていたとばかりに提を持って現れた。確かに彼女も『おとら』である。

「先ほどから耳をそばだてておれば戦の話ばかり。もっと他にないのですか?」

「ない」

「旅の話など、聞きたがっていたではありませんか」

 虎御前の指摘に、為景、沈黙。旅のことを父が知っているのは光育より聞いていたが、それを父が知りたがっているなど虎千代には思慮の外。

「……酒が足りんのだ。女が口を挟むな」

「これは失礼を。では、女は下がらせて頂きます」

 酒の席に一石を投じ、虎御前は優雅に席を立つ。残された二人は、しばし沈黙のまま酒を呷るしかなかった。

 しばらく酒を飲んでいると、

「退屈か?」

「いえ。面白い話です。どうにも俺は、血生臭いのが性に合っているようで」

「ぶは、そうか。六郎はそうでもなく、他の兄たちも血を忌避したものだが、よりにもよって末弟が似てしまうとはな。わからぬものだ」

 為景はため息をつき、

「良い旅であったか?」

 ただ一言、問う。

「はい」

 虎千代もまた迷いなく、一言で答えた。

「何処が良かった?」

「一番は駿府です。あそこは本当に全てが素晴らしかった。特に賭け事で荒稼ぎしまして、我ながら博打打ちの才があるのだなと、しみじみと思ったものです」

「く、はは、守護代の子が、博打打ちと来たか」

 尾を踏んでしまったか、と虎千代は慌てて訂正しようとするも、

「よい。負けたのであれば腹を斬れと言いたいところであったが、勝ったのであれば何の問題もないわ。何事も勝ってこそ。今の俺ではわからぬが、そうさな、全盛期の俺ならば誰にも負ける気はせぬ。誇張抜きでな」

 かっかと笑いながら堂々言い切る様は、嫌でもあの男と被った。駿府で出会ったもう一人の怪物、現役を退いてなお脂乗る圧倒的な存在感。

 つい、虎千代は笑みを浮かべてしまった。

「む、冗談だと思っているのか? であればぬしの程度も知れると言うもの。勝つべき者はな、勝たねばならぬ時を落とさぬから――」

「いえ。その、父上と同じことを申した者がおりましたので。つい笑ってしまいました。あまりに、自分の方が強かった、と言った時の雰囲気が似ており」

 強かった、強いではなく過去形。その言い草に為景は顔をしかめる。

「何者だ?」

「先代の甲斐武田家当主、武田信虎です」

「……あア?」

 その名を聞いた瞬間、為景の顔が大きく歪んだ。

「信虎が、この俺と似ているだと? ふざけたことを抜かすな。あそこで日和った男の器などたかが知れておる。この俺が伊勢(北条)の二代目(氏綱)如きとねんごろにしておったのは、全ては関東侵攻の状況を整えるためであった。あそこで山内上杉を滅ぼしておけば、関東を食い荒らすことが出来たのだぞ。ついでに伊勢も駆逐し、あの阿呆の武田も吹き飛ばしてくれたと言うのに……」

 かつて長尾為景は関東の新興勢力であった北条氏綱と上手くやっていた。やり取りした文書も残っており、表向きは非常に仲が良かった。逆に両上杉家(山内、扇谷)と上手くやっていた武田信虎は当然の如く北条と戦うこととなり、遠征をしていたのだが決着つかず、帰国してすぐに北条と和睦した。

 これぞ好機、とばかりに北条氏綱は長尾為景に上野国攻めを画策し、為景もまたやる気満々であった。武田の横槍が無ければ勝てる。勝って関東から旧勢力を駆逐し、美味しい部分を自分が喰らってやろうと考えていたのだ。

 もちろん、北条も同様に考えていたはず。

 ゆえに両家は意気揚々と信虎宛に書状を送った。内容は端的に言うと、領内を通らせて欲しいという話であった。これは武田への意思確認、何なら三勢力で喰い合おうか、と言う提案のつもりもあったのに。

 武田は和睦直後でありながら、山内上杉家に配慮してこれを拒否、無事北条との和睦は破談となり、絶好の機会は失われてしまう。

「……ま、まあ、武田からすると長尾、北条が食い込んでくるより、両上杉家の方が与しやすいという判断なのでは?」

「俺の仕掛けを邪魔したのが許せんのだ!」

「…………」

 たぶん、北条氏綱もこんな感じで激怒していたのだろうな、と虎千代は会ってもない人物の想像をしてしまう。自分勝手で、戦って勝つことしか考えていない。何だかんだ言っているが、たぶん三者とも根は似ているのだと思う。

 為景も、氏綱も、信虎も。

 時勢により並び立つことがなかっただけで。

「息子に追放された負け犬はどんな面をしておった?」

「……喜んでおりました」

「あン?」

「子の成長を喜ばぬ親はいない、と」

「……阿呆が。ガキに聞かせる話ではあるまいに」

 ムスッとした為景はやけくそのような勢いで酒を呷る。先ほどからことあるごとに酒を呷っているが、本当にとりあえずの勢いで酒を飲むので仕方がない。

 それ以外書くことがない。

「父上、その、無礼を承知でお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 虎千代は、問いながらもごくりとつばを呑む。

「……なんぞ?」

 ずっと聞きたいと思っていた。生涯聞けぬと思っていた。そもそも目を合わせることすら出来なかったのだ。それも当然のこと。

 だが、今は――

『ばはは、まあ、機会があればぶつかってみるのも一興だ。それはそれでな、親冥利に尽きることでもある。試してみろ』

 武田信虎の言葉が、背を押す。

「俺は何故、林泉寺に入れられたのでしょうか?」

 問うは、長尾虎千代のルーツ。

 答えるは、

「……未だそれがわからぬほど、未熟とは思わん。全ては家のためだ」

 先代当主、長尾為景。

「それでは答えになりません。家のためと言うことであれば、城に留め置き頃合いを見計らい殺す。それが上策であるはず。林泉寺に入れ、しかも出家もさせずでは、あまりにも中途半端な手ではないでしょうか?」

 そして、

「なれば、それもまた……答えだ」

 父、為景はそう言って立ち上がった。

「酔うた。おとら、俺は少し席を外す」

「父上!」

「…………」

 為景は黙って酒席の場を後にする。答えを得られなかった虎千代は小さくため息をついた。結局、理解は出来ぬまま。

 全てはわからぬままであった。

「虎千代。母と昔話をしましょうか」

「……は、はあ」

 虎御前はその場で座り、

「虎千代が生まれた時、大殿は大層喜ばれておりました。名を決める時も私の名と庚寅年生まれは天命だとおっしゃり、虎千代とすると聞かなくて」

 訥々と語り始める。母がこういう話をするのは当然初めてのこと。そもそも父同様、母ともこうして膝を合わせ向かい合ったことすらいつ以来か。

「本当に可愛がっておったのですよ。すでに成長していた御屋形様(晴景)はともかく、他の兄たちが嫉妬するほどには……覚えてないでしょうが」

「は、はい」

「ただ、明らかに入れ込み過ぎていたのです。嬉しかったのでしょう。虎千代、そなたは私に外見こそ似ていますが、根は大殿に似ております。良くも悪くも、上の兄たちは大殿と似なかった。それはそれでよかったのですが――」

 虎千代とて理解している。かつて甲斐が荒れた原因も父と子の確執、それによって引き起こされた兄弟による骨肉の争い、国が割れ、関東をも巻き込んだ地獄絵図が父の依怙贔屓によって引き起こされたのだ。これは別に特別な事例ではない。そもそも信虎も真意はともかく弟を推して追放され、その息子である晴信もまたいずれ同じ道を辿らんとする。歴史は繰り返す。よくある話。

 だが、それによる混沌は場合によっては国を越え、周辺諸国をも飲み込む大火となる可能性もあるのだ。それは理解している。

 だからその混沌を避けるつもりなら、先に芽を摘んでおくべきと思った。

「ある日、ご自分が入れ込み過ぎていると気づいたのでしょう。そなたは覚えておらぬでしょうが、大殿はそなたを家のため殺そうとしました。首を絞め、のちの災いを取り除かんとしたのです。私はそれを、止めませんでした」

「……初耳です」

「私と大殿、そなたの乳母しか知り得ぬことですから。しかし、殺せなかった。主君を二度も殺し、百を超える戦で血にまみれた男が、幼子一人、殺せなかったのです。その理由は、さすがにもう、わかるでしょう?」

 虎千代は信じられない。頭の中ではそれしかないと思っていた。信虎と話した時に、そうではないかと脳裏に過ぎったのは事実。そうであって欲しいと、思ったのは事実。だが、実際にそうだと言われても、容易に信じられない。

 だって父はいつも、己を冷たい眼で見下ろしてきたから。

 自分はいつも目をそらして――

「虎千代。私たちはそなたを愛していた、などとは言いませぬ。私たちは武家の人間、情愛など家を傾けるだけ。ゆえにここまでのことは世迷言と断ずるもよし。信じずとも構いません。信じずに、私たちへの恨みを募らせるもまた、武家の道」

「……今更ですか?」

「ええ。こんなこと世に知れたら、長尾家は笑い者ですので」

「ぶはは、武家とはまこと、妙な存在ですな」

「見栄と建前、覚悟することです。面子のために腹を斬れるのが、武士ゆえに」

「なれば俺は、それを利用しましょう」

「ならば、よし」

 何と言う天邪鬼。武家とはまこと珍妙なものであろう。ただ、確かに世に出せぬことではある。結局為景は武家にとって何よりも優先すべき自らの家、そのために徹し切ることが出来なかったのだから。

 確かに、御笑い種である。武家の世界では。

「……く、はは」

 虎千代は笑いながら、ほんの少し目じりに雫を湛えていた。


     ○


 虎千代が帰り支度をしていると、館の奥から虎御前とぶすっとした表情の為景が現れた。かつては怖れ、合わせられなかった眼も、今ならば合わせることが出来る。本人がそう思っていても、相手がそっぽを向くため中々合わないが。

「大殿」

「……ふん。虎千代」

 一言名を呼んで、為景は武骨な拵えのそれを放り投げる。

「これは?」

「俺が見栄えを気にせぬ戦場で使っていた太刀だ。無銘で作もわからぬが、切れ味は悪くないし頑丈でもある。兄を助け、家のため存分に振るえ」

「……あ、ありがたく」

 まさか父からこのような餞別を渡されるとは思わずに驚いていた。

「ぬしは京で何を見た?」

 為景による突然の問いに虎千代は、

「正しさを食い物とする俗物共を」

 真っ直ぐに答える。

「ぶは、青臭い。これからぬしは嫌と言うほどに見るぞ。この世はな、道理に反した者から勝ち上がっていくのだ。嗚呼、違うな。道理を創ったモノが上に立つ。その道理とは、正義とは、統治者のためにある。妄信する者は何も得ぬ」

「妄信せずには生きられぬ者もおります」

「阿呆が」

 そう言いつつも、為景は何故か微笑む。

「そ奴らに付くは、必敗ぞ」

「勝ちますとも。それに俺は彼らに付くわけではない。彼らもまとめて全てを手折るのです。創るのは、俺の仕事ではないので」

「ぶはっ、我が息子ながら、ようもまあ狂気を孕んだものだ。あのクソ坊主め、人の好さそうな顔をして、随分な狸であったわ」

 為景は大笑いして、真っ直ぐと息子を見つめた。

「俺は俺のやるべきことをやった。ぬしを生かすとしたのは今の当主、もはや過ぎ去った俺が何を言うでもない。存分に暴れろ。戦場に悔いを残すな。勝つべき戦は全て勝て。全てを踏みつけ君臨せよ」

「…………」

「万物を引き摺り下ろせば、そこが頂点よ!」

 越後守護を、関東管領を、蹂躙して長尾家を掲げた男が言う。

「心得ました」

 武田信虎の時も思ったが、時代を彩った傑物の何と大きなことか。病の噂などかき消えるほどに力強く、長尾為景はこの場に君臨する。

 今はまだ及ぶ気がしない。

 何せこれで全盛期を過ぎ去ったと言うのだから。

「また土産を携え、来てもよろしいでしょうか?」

 もう少し話をしたいと思った。この男から得るべきことはきっと山のようにある。これから先、役に立つことがきっと――

「阿呆。二度と来るな」

 背を向ける父。その姿を見て母は苦笑する。

 虎千代は、嗚呼、確かに自分も、同じことを言いそうだな、と思った。

「では、また」

 虎千代は馬を駆り、颯爽と去っていく。

「……大きくなりましたね」

 母はその背を見守りながら呟き、

「ふん、まだ小さい」

 父は背を向けながら――静かに微笑んでいた。


     ○


 天文十一年12月24日、長尾弾正左衛門尉為景、病に没す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る