第伍拾話:父のような子のような
天文十一年、初冬。雪がちらつき始めた季節、寺の境内で太刀を振っていた長尾虎千代は天を仰ぎながら、同じ一年であってもここまで密度が違うか、と自嘲していた。一年、越後から関東、関東から伊勢、畿内――ぐるりと回った一年間とここ林泉寺で過ごした一年とではまるで意味が違う。
あの激動の一年が嘘のように時が流れた。
おそらく、来年辺り自分は元服することになるだろう。兄晴景がそう匂わせていたし、年齢的にも頃合いと言える。そうなった場合、母の出自であり越後長尾家の分家である古志長尾家を継承することになる、と虎千代は読んでいた。春日山にいる晴景以外の兄たちとは母親の格が違うのだ。
その辺りを加味すると、分家の当主は収まりが良いだろう。栖吉城を守る古志長尾家当主長尾房景は虎千代の母、虎御前の父であり高齢で、息子はすでに守護上杉家の諸流、上条上杉の名跡を継いでいたため後継者不在なのだ。
(まあ、俺がおるからそうなったのだろうがな)
その辺りの流れは虎御前の腹から本家筋の男児である虎千代が生まれた時点で決まっていたことなのだろう。今は引継ぎの段階で、まずは栖吉近郊の城を任され、経験を積んだのち、正式に栖吉城主として古志長尾家を背負う。
その流れに異論はない。最も収まりが良く、だからこそ父為景の代から水面下で準備が行われていたのだ。春日山からは離れることになる。
そう遠いわけではないが、軽々に行ける距離でもない。
そもそも軽々に行く身分でもなくなるのだろうが。
「虎千代、今手すきですか?」
「ジジイよ。俺がこの寺に来て手すきでなかったことなどあったか?」
その返しに光育は苦笑し、
「狩りが用事でなければ、なかったかもしれませんね」
「ぶはは、それがあったか」
虎千代もまた苦笑する。戻って来てから弓の練習として山の動物を狩ったことはあれど、あの頃のような気分で狩りなど出来ていない。
もう、どう足掻いてもあの頃には戻れないのだ。
「随分長く世話になったな」
「光陰矢の如し、月日が経つのは早いものです」
「ジジイになると時を早く感じるのはまことか?」
「ええ。私はそう思います」
「……そうか。では、早う死ぬるのだな、ジジイは」
「そうなります」
虎千代は太刀を鞘に納め、自分を父のように育ててくれた男に向き直る。
「今更だが、ジジイには感謝しておる」
「ならば和尚と呼びなさい」
「それは嫌だ」
「まったく、身体ばかり大きくなって」
虎千代がケラケラ笑っていると、光育は少しだけ目を伏せ、
「……私を恨んでいますか?」
あまり虎千代には見せなかった悲痛なる面持ちで、問う。
「今感謝したばかりであろうが。ボケたか?」
それを虎千代が鼻で笑うも、
「旅の件、背中を押したのは私です。私もまた、覚明殿同様に、畿内の仏教に絶望し、こうして地方に根差した僧の一人。すでに離れ、かなりの年月が経っておりますが、それでもなお、私の中にはどす黒いものが蠢いているのです」
光育の眼を見て、笑みを消す。
「潔白であろうとするには、世はあまりに乱れています。落ち着く気配すら見えません。むしろ乱れに乗じ、私腹を肥やす者が大勢出てくる始末。しかもそれが、清貧たるべき仏教徒なのですから、性質が悪い。本当に、度し難いものです」
「仕方あるまい。所詮は人だ。欲望に蓋など出来ん」
「それでは修行の意味が無い」
正直者ほど馬鹿を見る世界。今も昔も変わらない世の中の常。神仏を信じる者よりも、神仏を利用せんと考える者の方が宗教を経営するのは向いているのもまた事実。宗教とは民からの集金装置であり、民を律するための法でもある。
正しさの基準を設け、それを他者に強いるための方便に神仏を利用する。仏の語る正義の何と為政者に都合が良いことか。
利用する者が強い。それはもうどうしようもないほどの真理。
「神仏は強いな。どの国に行っても当たり前のように土着し、民からの信仰を集めている。寺院の僧侶が如し厳格なものではなく、緩く、浅く、広く普及しておる。無理のない形だ。これは、使えると俺は思った」
「……そうでしょうね。虎千代ならば、そこに思い至るでしょう」
「皆、ある程度理解しておる。だが、武士のそれは少々堅苦しいな。俺ならもっとふざけた、分かりやすい形で利用する。物を良く知らぬ百姓でも分かりやすいよう、俺自身が神を気取ればよい。それが一番、強い利用法だ」
「その力で何を成しますか?」
「知れたこと。俺の目につくすべてを破壊するのみよ。人が多いのならば減らそう。神仏を利用する者が腐っておるのなら、腐った母屋ごと磨り潰す。幕府が、朝廷が、ろくに機能していないと言うのなら、そんなもの必要ない」
強き嫌悪。光育が、覚明が、数多の僧が、正しさを求めた者たちが最後に宿す絶望の炎。どろりとまとわりつき、心を蝕む毒のようなもの。
世に正しさなどないと知った。必要ないのだと、痛感した。
「俺が通った痕に、他の者が道を創ればよい。俺はただ、通り過ぎるだけだ」
これ以上なき、正義足り得なかった者たちの代弁者。
その空虚な眼に、かつての輝きはない。
「……この前、上等な酒が手に入りまして」
「おお。戒律に縛られるのをやめるか」
「私も虎千代と酌み交わしたいものですが、こればかりはもっと相応しき方と飲まれるがよいでしょう。私なりの餞別です」
「……一応、誰ぞ、と聞いておこう」
天室光育は哀しげな笑みを浮かべながら相応しき者を述べる。
「ご隠居、先代長尾家当主、虎千代の、実の御父上です」
先代当主、長尾為景。虎千代を疎み、林泉寺に預けた張本人である。物心ついてから虎千代は父とまともに目を合わせたことすらない。
それを光育は知っていて、それでも行けと申すのだ。
「ここまで全て、父の謀であったか?」
「いいえ。ただ、訪ねて来られた折に話す機会があり、旅の件は伝えております」
「父は何と?」
「そうか、と。ただそれだけを」
「……く、くく、結局そう成るか。それはそうだ。避けては通れぬ。危うくしこりを残すところであったわ。土産、ありがたく頂戴しよう」
「ええ。どうぞ」
虎千代は光育に背を向け、
「俺はぬしを父のように思うておったよ」
「光栄です。本当に、心の底からそう思いますよ」
「ふっ、だが、結局俺は長尾為景の子か」
「はい」
「……そうか」
万感の想いを込めて、虎千代はただ「そうか」とだけ呟いた。父のように思っていた。息子のように思っていた。だけど、二人は親子ではない。
どこまで行っても――それは少し、凍みる。
○
虎千代は兄に話を通し、許可を得た上で馬を駆りてその地へ向かう。
春日山からほど近く、かつて越後を統べた男が住まうには簡素とした館である。竹林の中にひっそりと、ただ静謐だけが横たわる。
館の門前で待つは、
「よくぞ参りましたね、虎千代」
「ご無沙汰しております、母上」
虎千代の母、古志長尾家の血統を持つ虎御前である。虎千代の記憶と変わらぬ美しさ、彼女だけ時が止まっているような、魔性を秘める。
ただそれは、息子も同じこと。
「……大きくなりましたね」
「しばらくすれば、元服と相成りますゆえ」
「そうですか」
母との記憶はほとんどない。金津の妻、乳母との思い出の方が遥かに多いほどである。そもそもこの時代、真の貴人たる者、子育てなどしないのだ。家によってやり方は様々であろうし、緩い所もあるだろうが、生憎彼女は厳格であった。
武家の奥方とはかくあるべし。
それを厳格に実践し、体現してきたのだ。
ゆえに記憶が無いのは仕方がないこと。それでも虎千代は苦笑してしまう。これほど彼女への思い出がないのに、それなのに何故か、彼女が母であると思うのだ。人となりすらわからないのに、その眼を、貌を、背中を見るだけで、
(……母、か)
どうしようもなく、彼女は母であった。
「大殿がお待ちです」
「母上は父上を、まだ大殿と呼ぶのですか?」
「ええ。死ぬるまで。私はそう呼び続けるでしょう」
「……なるほど」
虎御前に案内され、虎千代は館の中に入る。それほど大きくない館であるが、手入れの行き届いた内装は悪いものではない。
ただ――
「人がおらぬようですが」
人の気配がない。守護代であった男の終の棲家とするには少々手狭だが、それでも館の管理には多少の人出がいるだろう。しかし、その気配がないのだ。
「昨年より人払いを済ませておりますので。今は私と大殿のみ、ここに住んでおります。何故、そんなに驚いているのですか?」
「え、いや、では、館の掃除は、母上が?」
「他に誰がいると言うのです」
虎千代は驚愕する。他に人がおらぬことと、母がそのようなことをやっているという二つの事実に、圧倒されてしまったのだ。
「元々嫌いではないのですよ。炊事洗濯掃除、春日山では出来なかっただけで」
母の意外な一面を知り、虎千代は呆けていた。毅然とし、武家の女、その鑑たれ、と己を律していた印象の母だが、それは仮面であったのだと知った。
「さあ、奥に」
「母上は?」
「男の世界に踏み込むほど、節操なしではありません」
「……そうですか」
下働きはするが、そこは立てる。やはりよくわからない人だと、虎千代は苦笑する。そして、一呼吸置いた後、ふすまを開けた。
その奥に座す男と対峙するために。
「大殿。虎千代をお連れ致しました」
「おう。ご苦労」
虎千代は静かにひざを折り、
「ご無沙汰しております、父上」
しかと頭を下げる。そして、ゆったりと、しかし揺らぐことなく、
「ふん、少しはマシな顔つきとなったか」
父、長尾為景の姿を、直視する。
「痩せられましたか?」
「俺が瘦せるか。ふざけたことを抜かす前に、出すものを出せ」
「はっ」
光育から持たされた酒を、すっと前に出す虎千代。それを見て為景は相好を崩す。そして、はたと自らを睨む虎御前に気付き、ばつが悪そうな顔でしっしと追い払うような手ぶりをした。虎御前はため息をつき、部屋を後にする。
残ったのは親子二人のみ。
「まずは酒だ。飲めるか?」
「嗜む程度には」
「ぶはは、そうほざく奴で弱かった試しを知らぬわ」
まずは一献、親子で酒を酌み交わす。
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