第肆拾玖話:虎千代と直江
天文十一年、秋。稲穂も頭を垂らし、百姓も忙しくなる時期である。同時に武士も忙しくなり、今年はどれだけ領内で収穫できたか、しかと見極める必要がある。百姓も愚かではない。隙あらば年貢をちょろまかそうとする輩が後を絶たない。
年がら年中隠し田など目を光らせる必要もある。
とにかく取り立てる側が間抜けでは話にならない、と言うこと。
まあ、そんなことは寺の人間には関係ないのだが。
「ご無沙汰しております。虎千代様」
そんな時期の林泉寺に、この男が現れた。おそらくは裏で守護をけしかけ、晴景に方向転換を強いた張本人、直江実綱である。
「おお、よう来たな、実綱よ」
「昨今雑事が多く、片付けるのに難儀致しましたが、それも終わり。これよりは以前の通り直江は守護代長尾家を盛り立てて参る所存にございます」
「ああ。言葉を違えたな。よう来れたな、であったか」
岩の上に胡坐をかく虎千代を見つめ、実綱は眼を見開く。雑事にかまけ、林泉寺に近づけなかったが、しばらく見ぬ間にこれほどに成長した。
体躯は二十代の成熟した大人とさして変わらず、眼の鋭さは最後に会った時とは比較にならぬほど鋭く、冷たい色を宿していた。
「と言いますと?」
「兄上の顔に泥を塗った男が、おめおめと俺の前に顔を出す。あまり愉快ではないと思わぬか? それとも俺を何も知らぬ阿呆だとでも思うたか?」
「虎千代様は誤解されていらっしゃる。私と長尾家、多少意見の食い違いはあれど、守護上杉家を盛り立てんとする志は同じ。今回の件はいわば、正しい道に戻っただけのこと。我らの主家は、越後上杉家でありますれば」
「ぶはは、あの傀儡を主家と来たか」
「虎千代様。そのようなことを軽々に申されてはなりませぬ。国とは守護があり、守護代があり、その下に国衆がいるものです」
「その守護代に噛みついた輩が、俺の目の前におる気がするがな」
「はて、何のことやら」
「まあよい。俺に其の方を咎める手段などないのだ。今はただ、この寺でくだをまく童でしかない。今は、な」
実綱は虎千代の『脅し』を聞き、零れ出しそうになる笑みを抑えた。まさにあの男の息子、釘を刺す時の眼が瓜二つである。
この年齢でこれだけの貫禄がある。
やはり己の眼に間違いはなかった、と心の中で実綱は狂喜していた。
「して、何用だ?」
「ただご挨拶を、と」
「ぶは、ならば去れ。ここは清く正しいハゲどもが修行に励む聖地ぞ。俺も真面目に修行をしておる所だ」
「ほう、修行ですか」
「岩の上で座禅を組み、瞑想をしておってな。無我の境地を模索しておる所だ。他にも様々な宗派の修行を取り入れて行こうと思う」
実綱は眉をひそめる。以前までの彼なら、間違っても言わなかったことばかりである。神仏を馬鹿にし、それを信ずる者も愚かと断じていた。過ぎる発言も多く、元服される前にはある程度矯正せねば、と実綱も思っていたものである。
「何故ですか?」
「知れたこと。それが仏の道であろうが。俺は誰よりも信心深く、神仏に対し深く広い造詣を持っておるのだ。寺育ちゆえ、なぁ」
ここでようやく、実綱は可能性に気付いた。彼が心にもないことを、わざわざ自らの前で公言した意味を。上杉を操り、長尾家の看板に泥を塗ったことはもう過ぎたこと。今更どうしようも出来ないし、虎千代に咎める資格もない。
だが、その小細工を弄した分、
「私にそれを広めよ、と」
同じように小細工を弄せ、と虎千代は言っているのだ。
「別にそんなこと言っておらぬだろう。俺がそうだと、言ったまでだ」
「心得ました」
何故、そのように無粋なことなど問うまい。長尾虎千代がやれと申すのだ。何故己に断る理由があろうか。実綱は身震いする。
ようやく、ようやく赤子であった彼が、自分に命令を下せるような歳になったのだ。これほど喜ばしいことなどない。
「虎千代様、一つお伺いしてもよろしいですか?」
「なんぞ?」
「先年、虎千代様と覚明と言う坊主、どちらにおられたのでしょうか?」
「くく、知れたこと。寺におったとも。真面目に修行し、光育和尚からの指導を受け、より深く神仏についての理解を深めたのだ。だからこそ、今の俺がある」
「……承知、致しました」
真っ赤な嘘。虎千代は隠そうともせず、実綱でなくともわかるように大噓をついた。だが、それだけ。それしかわからない。
本当のことは教えない。そう、暗に言われた。
直江実綱が長尾虎千代のことで知らぬことなどあってはならない。彼はそう考える。断じて、断じてあってはならぬのだ。
だからこそ、この罰は何よりも深く実綱を傷つけた。
つまり彼はもう、自分を看破するところまで来ている。
「本日はこれにて、お暇致します」
「そうか。これからも両家のため、兄上を盛り立ててくれよ」
「心得ております」
その成長を、原因を、理由を、自分は知ることが出来ない。こんなに苦しいことはないと実綱は思う。だから――
「虎千代様」
「む、まだ何かあるのか?」
「本日より、以前と同様春日山に娘を置いておきます。何か用向きがあれば是非、こき使って頂きたい。あれも喜んでお手伝いさせて頂くことでしょう」
「……ふっ、そうか。承知した。近々碁の相手でもしてもらうとするかの」
「それは結構。あれも喜びまする」
長尾虎千代と直江を繋ぐ者、彼女は上手く機能していると思っていた。今後も機能するだろうと思っていたが、もしかすると今の虎千代にはもう、通用しない可能性もある。あの眼は、先代同様何人をも切り捨てられるものであろう。
道のためならば、如何なる犠牲を厭うことなくまい進する存在。
人を超えた――
「……嗚呼、そういう、ことかァ」
実綱は虎千代の真意に至り、凄絶な笑みを浮かべた。もはや小細工を弄する必要すらない。ただ、彼に仕えていればいい。
どうせこの難局、長尾晴景では渡り切れまい。晴景の評価が落ちたと言うことは、長尾家の、守護代の力が落ちたと言うこと。
それ即ち、守護の力が相対的に上がった、とも言える。
復権を望む守護家、その威を借りて、長尾家を引き摺り下ろし、その地位を得んとする者は越後にいくらでもいる。ここから必要なのは為景のような腕力。もしくは先を読んで先手を打ち続ける読みの力。
ただの優秀な男に渡り切れるほど、この混沌は容易くないのだ。
○
虎千代は現在、金津の館にいた。猛烈に甘いものが食べたくなったのだ。林泉寺は寺のくせにその辺厳しく、甘いものなど置いていない。
なればもう下山して、金津の館で食べさせてもらうしかないだろう、と思い約束もなしに転がり込んだのだ。金津に対しては相変わらず遠慮がない。
一応、お供として連れてきた甘粕は金津の妻、虎千代の乳母に囲い込まれ、別室で蝶よ花よと可愛がられていることだろう。彼女も息子が大きくなり、虎千代まで一年と半年以上姿を見せずに乳母離れをされて寂しかったのだ。
ゆえに対策として甘粕を連れてきた。そして彼女に与えた。
可愛がるに足る男の子を。
今頃は絵巻でも見せているのか、琵琶や笛などをやらされる可能性もある。
「息子は息災か?」
「立派に城勤めを果たしておりますとも」
「それはいい。ぬしもそろそろ隠居せねばな」
「なんの。まだまだ家督を継がせるには線が細く、今しばらくはこの金津新兵衛、現役で家を引っ張らねば、と思うておるところ」
「しかし、ぬしは碁が弱いのお」
「……虎千代様が強くなり過ぎただけかと」
虎千代と金津新兵衛、もとい金津義旧は二人して碁に興じていた。義旧と碁をするのは久方ぶりであったが、かつてはかなり手ごわかった印象のある義旧が、こうもあっさり倒せてしまうとは拍子抜けであった。
本人も結構自信満々だったがゆえに、結構悲哀漂う状況である。
「覚明も最近は寺巡りで忙しく、もしかすると修行のため永平寺くんだりまで行くかもしれぬという話もある。退屈だ、ああ退屈だ、退屈だ」
「老兵の傷口に塩を塗られるのはあまりに非道な行いですぞ」
「とりあえず蜂蜜を寄越せ。あと酒じゃ酒」
「どうされるので?」
「二つを、こうする!」
「な、なんとォ!」
虎千代、酒の中に大胆にも蜂蜜をぶち込む背徳的飲料を生み出してしまう。これが清涼飲料水の走りであるとかなんとか、大嘘であるが。
「あまーい!」
「でしょうな」
旅を経ていつの間にか酒を嗜むようになり、元々甘い物好きが重なって大変不健康な食生活を食っている虎千代。加えて梅干しも好物となり、それを酒のあてにするのだからもはや健康など知ったことか、と言わんばかり。
「おや、表が騒がしいような」
「……嫌な予感がするのお」
何か前にもこんなことがあったような気がする。
そしてその予感は外れることなく、
「たのもう!」
勢いよく現れるは虎千代の姉、長尾綾。その後ろに付き従うは直江文。どこかで見たような構図である。違うのはこの部屋にいるのが金津の妻か金津本人かの違いのみ。何たる不幸か、と虎千代は天を仰ぐ。
「ここで会ったが百年目、姉に断りもせず何処へ姿をくらましていた⁉」
「寺」
「嘘をつけィ!」
「騒がしい! ここは客将である金津家の館ぞ。礼儀をわきまえぬか」
「……え?」
金津義旧が虎千代を二度見する。どの口が言っているのか、そう思ったのだろう。まあ、この場の全員が同じことを思っているのは言うまでもない。
「まあいいや。で、どう? 久しぶりの姉上」
「小さくなったの」
「虎千代が大きくなったの! もう、知らない内に青竹くらい大きくなってからに。そのふざけた身長をへし折ってやりたいわね」
「やれるもんならやってみろ」
「年下の分際で生意気な」
「俺は男、姉上は女、その時点で武家としては格付けなど済んでおるわ!」
「ぐ、ぬ、好き放題言って……姉上、泣いちゃう」
「泣け、たわけが。しかしあれよな、姉上も小さくなったが、ぬしも一段と小さくなったな。転んで頭でもぶつけたか、まん丸顔の文よ」
虎千代の棘しかない言葉に、口の端を僅かにひくつかせながら、それでも武家の女らしくひざを折り、頭を下げた。
「ご無沙汰しております、虎千代様」
「ぶはは、義旧のおかげで小生意気な女が随分大人しくなった。これは美味い。酒が進むのお。しかし、こう甘いと梅干しが必要だな、義旧よ」
「……身体に障りますぞ」
「俺は頑強に出来ておるのだ。食いもん如きで死ぬかよ」
ケタケタ笑いながら虎千代は梅干しを所望する。それを聞いて綾は怪訝な表情を浮かべていた。何故なら虎千代はかつて――
「虎千代、梅干し嫌いじゃなかった?」
酸っぱい梅干しが大嫌いだったはずだから。
その問いに対し、
「ぶはは、初恋の味だ」
あっけらかんと虎千代が言い放つ。それを聞いて当然、金津義旧は目を剥く。彼は旅をしたことは知っているが、その道中で恋だの愛だのの話は聞いていない。晴景は聞いていたのだが、彼以外は誰も知らなかった。
当然、旅のことすら知らぬ綾と文は、
「「は?」」
真顔。
「我が弟虎千代よ、どういうことかね?」
「俺がどこの誰を好こうが好くまいが、姉上には関係なかろうが」
「か、関係あるわい! どこの誰か知らないけど、ほ、ほら、長尾家の話でもあるわけでしょ? そうしたらほら、姉上も関係あると思う」
「長尾家の話にはならん。俺もその女も武家だ。ならば、好き嫌いで結婚相手が変わるわけでも無し。それは兄上が選べばよい。不服は申さぬ」
本当に存在するのか、と全員が唖然としてしまう。その上で虎千代が真っ当な発言をしたことで、全員混乱し、困惑していた。
長尾虎千代とは、こんな者であったか、と。
「随分聞き分けが良くなられたのですね、虎千代様」
「くく、棘があるのお、文よ」
「別に。ただ、人が変わられたようですので」
「俺も成長した、と言うことだ。武家の倣いには従う。その代わり俺も武家という立場を思い切り利用させてもらう。そう決めた。それだけのこと」
虎千代の笑みを見て、文は顔をしかめ、綾と義旧は怖気が走る。これがあの虎千代なのか、と信じられない面持ちであった。
その在り様は、何処か先代を彷彿とさせる。
「琵琶で食べていくとおっしゃられていた虎千代様とは思えませんね」
「ああ、そんなことも言っておったな。琵琶、剣豪、マタギ、碁打ち、何でもやりたかった。何でも出来ると思うておったよ。俺ならば」
虎千代は、文に向けて苦笑する。
「もう俺は、夢を見ぬことに決めたのだ」
「なぜ?」
虎千代は大いに嗤い、
「俺が長尾虎千代だからだ」
と言い切った。その眼はもう、幼き日の輝きに満ちていたそれではない。可能性を見つめていた光は完全に絶えた。残ったのはどす黒い何か。
その眼の意味を知る者は、ここにいない。
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