第肆拾捌話:火種、落ツ

 天文十一年4月、林泉寺の境内で長尾虎千代と大熊朝秀が刃をかわしていた。この一年、『たまたま』間が悪く対面すること叶わなかったが、久方ぶりに虎千代と剣をかわせるとなり、つい先ほどまでは気分も上向きであった。

 だが、

(……お強くなられた。たった一年、見なかった間にこれほど上手になることがあるのか? 確かに体も大きくなった。それによって剣の重みも増した)

 大熊朝秀の顔に笑みはない。一年前から頭一つ分大きくなった。大柄な大熊と比べるとまだ小さいが、それでも元服して差し支えない大きさではあるだろう。年齢的にはまだ少しばかり早いが、あと一、二年ほどか。

 大きくなった分、力が増した。以前は太刀の重さに振り回されていたところはあったが、今はもうそんな様子など微塵もない。

「ふしゅ!」

「なんの!」

 鋭く、重い刀の一撃。力がついたことで無駄な力みも取れ、振り自体がかなりコンパクトにまとまっている。太刀の基本型である片手操法も板についてきた。幼き頃には力がなく、両手で振り回すしかなかったが、今は片手でも十分威力の乗った剣を打ち込むことが出来ている。これに関しては一年前の時点でかなり向上していたが。それでも急激な変化ではあるだろう。

 ただ、ここまではあくまで体が大きくなったことへの副産物で片が付く。身体が大きくなり、力がつき、それによって剣が向上した。

 これは問題ないのだ。問題なのは――

「ふっ」

「ぬッ⁉」

 時折、柳のようなしなやかさで受け流される、この感じが大熊に嫌な汗をかかせていた。越後では見たことがない剣である。新しく、それでいて深い。いくら虎千代が才覚に溢れていると言っても、こんなものが寺で身に付くか、と疑問に思う。

 剣の質が向上した。もはや、戯れでは済まない。

「セェヤァ!」

「ぶは、殺す気かぁ?」

「今の虎千代様なれば、この程度で死にませぬ!」

「買い被ってくれるな、朝秀ェ」

 空気が張り詰める。打ち合う度に、自分の中でくすみ、錆びついていた剣が研ぎ澄まされていき、輝きを取り戻していくような感覚があった。

 久方ぶりの充足感、いや、これはもう新体験に近い。

「こう、か⁉」

「ぶは」

 どう攻め崩す、どう受け切る、新鮮な空気が、剣に乗って香る。胸の中にある澱んだ空気が、入れ替わるような心地になる。

 立ち位置が入れ代わり、立ち代わり、互いに躍動する。

 こういう戦いがしたかった。あともう少し、虎千代が大きくなって剣の腕を上げたなら、間違いなく自分も全力が出せる。

 そんな日を心待ちにしながら――

「ぬ、ぐ」

「まだまだですな」

 自らが抱える息苦しさもなくなるかもしれない。そう大熊は思った。

 二人は存分に打ち合って、汗をしこたまかいたため地面に座り休憩する。

「持の字、喉が渇いたぞ」

「今お持ちします」

 虎千代の命令を聞き、何処からともなく現れた少年がせっせと水を汲みに向かう。それを見て大熊は目を丸くした。

「あの童は?」

「甘粕持之介よ。その辺で拾った」

「その辺で……あの甘粕ですか?」

「遠縁ではあるが違う。信濃の家だそうだ。もう、存在せんがな」

「信濃……村上ですか」

「さすがにものを知っとるの、朝秀」

「これでも一城の主、代々段銭方を務める家なれば」

「ぶはは、顔に似合わず名門よな、大熊も」

「顔に似合わずとは酷い言い草ですな」

 甘粕持之介、通称持の字(虎千代だけのあだ名)が水を汲んできた。しっかり気を利かせ、木杯も二つ持ってくるあたりそつがない。

「かたじけない」

「持の字も稽古をつけてもらえ。この男、剣の腕前は日の本でも指折りよ」

「い、いえ、私など、まだまだ若輩者ですので」

「もう少し成長したら、虎千代様と一緒に稽古をつけよう」

「あ、ありがとうございまする!」

 礼儀正しい甘粕の姿を見て、大熊はちらりと虎千代を見る。おそらく、大熊が始めて虎千代と出会ったぐらいの歳であろうが、ものの見事に真逆の性格である。同じ童でもここまで違うか、と愕然としていた。

 まあ、修行の成果か虎千代に気取られることはなかったが。

「それで……この一年どちらにいらっしゃったので?」

「寺だ、と言っても信じぬよな、ぬしは」

「越後にはない剣でした」

 大熊はあえて踏み込む。そもそも、虎千代に隠す気があれば剣を隠していたはずなのだ。それを隠さず見せたと言うことは、聞けと言っているのと同義。

「ちと旅にな」

「どちらまで?」

「上野国」

「なるほど、山内上杉の勢力圏ですか。先代の手前、危ういと思いますが」

「から武蔵、相模」

「むさ、相模⁉ え、どういう――」

「駿河から船で伊勢、近江、京」

「……⁉」

「そこから琵琶湖を跨いで道なり、と言う旅だ」

「しょ、正気ですか?」

「ぶはは、正気も正気。そこな持の字も越中で人買いから買ったのだ。駿府で博打などして一山当てての。銭はたんまりあったのだ」

「し、信じられぬ」

 さすがに予想を遥かに超えた回答が返ってきたため、大熊は言葉に詰まる。自分は精々隣り合った国にしか赴いたことなど無く、それとて戦絡みである。

 虎千代が行ったような旅など、この時代修行僧などでなければそうそうあるものではない。考えてみれば虎千代と仲が良かった僧侶も久しく見なかった。間が悪いと思っていたが、どうやら同行していたのだろう。

「御屋形様は?」

「知っておる。あと金津辺りには伝えておった」

「何故、拙者に教えて下さらなかったのですか?」

「そう睨むな。ぬしの口が緩いなどとは思っておらぬ。だが、大熊と長尾の関係が変われば俺とぬしが敵対することもあろう。何せ大熊は上杉の家臣だ」

「名目上でしかありませぬ」

「今は、だ。俺が旅に出たことで兄上の、長尾の家に迷惑をかけるわけにはいかん。金津に伝えてあったのは客将ゆえ。無論、口外せぬ信用あってこそだが、ぬしらと金津では立場が違う。越後で役割を持つ者に、隙は見せられん」

「それは……そうですが」

 虎千代の言うことはまこと正論であった。大熊は傀儡でしかないとは言え名目上越後上杉家の家臣である。そこが割れた場合、長尾家と袂を分かつ可能性は十分にある。特に今の情勢は、非常に厄介で、その可能性自体日増しに高まっている。

「ただ、無事戻った以上、この情報を悪用される恐れはない。こうして伝えておるのはまあ、信頼の証だと思ってくれて構わぬ。ぬしは裏表がないからなぁ」

 虎千代の笑みに、大熊もまた苦笑する。意義が薄れたとは言え方々に漏らす利点がないわけでもない。それはまあせぬだろう、と大熊には伝えたのだ。

 一応信頼が向けられている、と大熊は受け取った。

「色々聞きたいことはありますが……」

「ぶはは、ぬしが聞きたいのはあの剣であろう? まこと、ぬしの性根はわかりやすくて良い。だからこそ、俺も少し惑うのだが、な」

「何の話ですか?」

「ぶはは、こっちの話よ。で、俺がその男に出会ったのは上野国、だ。名は上泉秀綱、山内上杉家の中で随一の使い手だそうだ」

 関東の雄、山内上杉家の中で随一、と言うことは限りなく関東一の剣豪だと言うことになる。無論、世の中は広い。まだ見ぬ使い手は大勢いるのだろうが。

 少なくとも上野国では最も強い剣豪。

「俺の見立てでは、くく、今のぬしよりも、強いぞ」

「……!」

 大熊は知れず、身を震わせていた。自らよりも強い存在、本来ならば凶報であるはずのそれが体を、心を震わせる。

 まだ見ぬ敵への期待が膨らむ。

「如何なる力も飲み込むような懐の深さを感じさせられた。俺はあれを見て、剣豪の道はないな、と思わされたものだ」

「虎千代様ならば――」

「熱の話だ、朝秀。俺はな、あの男のように剣に全てを捧げることは出来ん。振り回すのは好きだ。ぬしと打ち合うのも楽しい。だが、あれが目指すはその先だ。俺のような半可通では至れぬ、理を目指す剣なのだろうよ」

 故に諦めた。その事実に大熊は顔を曇らせる。虎千代ならば、そう思っていたのに、彼はもう諦めたと言うのだ。その男のせいで、その男のおかげで。

「まあ、あの男もまた武士と剣士の狭間で揺らいでおったよ。そこはぬしと変わらぬ。どうしたって今の世で、武士がただの剣士であることなど許されぬしな。特に名門であれば、なおのこと」

「…………」

「ただ、名門でなくなり、ところ変われば、可能性はあるやもしれぬぞ」

「……御冗談を」

「冗談では、無い」

 虎千代の言葉は、まるで越後に見切りをつけて新天地を目指せ、と言う風に聞こえた。そういう意図を込めて聞き返し、おそらくはその意を汲んで――

「この問答は忘れておきます」

「どうするかはぬし次第だ。ただ、息苦しいのは辛かろうと思うてな。俺がいる限り、この国はずっと戦を続ける。たぶん、そうなる。俺のそばはな、ぬしにとってあまり居心地の良いものにはならぬと、そう思ったのだ」

「…………」

 そんなことはない。声を大にして言い切るべきだ、と大熊は思う。自分が越後を捨てるなどありえない。信濃から追いやられ、没落した大熊家は越後上杉家に拾われ、今のように城を任される立場となった。恩がある。縁もある。

 それなのに自分が、自分は、何故、言葉が出ない。

「まあ、先のことはわからぬ。ただ、そういう道もあるとだけ頭の片隅にでも置いておくと良い。俺は恨まぬよ。何があろうと」

 大熊の方を軽く叩き、悠々と虎千代は離れの方に向かう。状況がわからぬ甘粕はとりあえず主である彼についていき、大熊はただ顔を上げられずに俯いたまま。幾度も自問する。何故、自分は答えられなかったのか、と。

 今はまだ、その答えは返ってこない。


     ○


 それからしばらくして、越後に衝撃が走った。

 今まで国衆に同調し、越後上杉家の養子問題を先送り、うやむやにしようとしていた長尾家が一転、推進する旨を示したのだ。

 急な方針転換に国衆は驚愕し、怒り、呆れた。今の当主は優柔不断である、と公言する国衆まで出始める始末。ギリギリのところで凪いでいた越後が、また荒れ始める。晴景の失態、世間はそう見る。愚かな選択だと、誰もが思った。

 それに笑うは推進派であった中条、平子、そして、直江。

「……刺されたか、兄上」

 間に合わなかったのだろう。伊達家の内紛、その策が間に合えば様子問題など吹き飛んでいた。こんな決断をする必要などなかったのだ。

 だが、現実は非情で、何よりも仕掛け人に隙はなかった。

 しっかり入れ知恵していたのだ。長尾家が引き延ばそうとした場合、長尾家を、長尾晴景を刺す刃を、仕込んでいた。

 越後守護、上杉定実は晴景に向けてこのような内容の書状を残している。

 後継叶わぬ場合、この身出家し、世俗を捨てん、と。

 出家をちらつかせ、晴景に脅しをかけてきたのだ。同じいなくなるでも不可抗力の『病死』などと、解決法の存在する理由では、意味が大きく異なってしまう。後者の場合は主家を助ける手立てがあったにもかかわらず、それをしなかったと取られてしまうだろう。出家し、上杉が絶えたところで、その後長尾がその位置につけるかと言えば、現状難しいと言わざるを得ない。少なくとも国衆は飲まないだろう。

 越後に争いが起きる。国が割れ、戦火が国中を飲み込む。

 まさか為景が立てた人形が、ここに来て意思を持つとは、と晴景は深く、深く、悔いる。何も出来ぬと高を括ったことで、深く刺されてしまった。

 この状況を少しでも好転させるには――

「ご無沙汰しております、御屋形様」

「……神五郎、其の方の思惑通りとなったぞ」

「そのようなことはありませぬ。しかし、これで長尾と直江、元通りになりましたな。共に守護殿を盛り立てて参りましょう。末永く」

 うさん臭い笑みを浮かべる男の、一人勝ち。

「ああ。協力を、頼む」

 それでも今は彼らと共に進むしかない。この状況で定実を出家させるのが最悪の手、ここで曲げるのが次点なれば、選び取るしかないだろう。

 元は父が残した火種。悔いても悔い切れぬ失態の尻拭いであったが、結果としてこの一件が長尾家の、晴景の立場を大きく揺らがせることになった。

「無情よな、常世は」

 兄の辛苦を想い、虎千代は静かに目を伏せる。

 火種が、落ちる。

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