第伍拾参話:直江文の選択

 天文十二年、8月15日、長尾虎千代は元服を経て、諱を景虎、仮名を平三とした。親族や親しい間柄、明らかに目上が相手ならば景虎と呼ばれ、それ以外には平三と呼ばれるようになる。これ以後、幼名の虎千代と呼ばれることはない。

 兄晴景が烏帽子親を務め、つつがなく元服の儀を終えた景虎は、数日後、離れを引き払うため林泉寺を訪れていた。来月には古志郡司、古志郡という地域を束ねる者として栃尾城に入ることとなっており、それほど余裕はない。

 光育や覚明らとの別れを済ませ、自らの小姓である甘粕を引き連れて離れにやって来た景虎であったが、戸の前で悪寒を覚える。

 この感じ、どこかで――そう思いながら戸を開けると、

「ご無沙汰しております、平三様」

「……文か」

 直江文、彼女が待ち構えていたのだ。光育らは知っていたのだろうに、何も言わなかったところにそこはかとない悪戯心を感じてしまう。

「父の葬儀以来か?」

「はい」

 景虎は甘粕に表で待つよう視線を送り、彼はすぐさま意図を読み取り退室する。

 小さな離れに残るはただ二人のみ。

「また勝手に片づけよったな」

「失礼と存じながらも、散らかっておりましたので」

「ぶは、相変わらず口が悪い」

「平三様ほどではありませぬ」

「くく」

 景虎は笑みを溢しながら、彼女の前に座り込む。

「して、何用だ? 俺はこう見えて存外忙しい。元々の城主である本庄と話しておくことも多くての。さっさとここを引き払いたいのだが」

「そう思いまして片付けておいたのです。そしてその分の時間を――」

 文は自らの背後に置いていた碁盤を、二人の間に置く。

「私にください」

「何がためにだ?」

「ただ、決着を。平三様に勝ち逃げされ、石を拾わされ損では寝覚めが悪うございます。今後健やかなる日々を過ごすために、どうか一局」

「……ガキの道理だな。遊戯に俺が付き合う義理はない」

「お逃げになられる、と」

「先ほどより随分な口ぶりよな。もはや俺は虎千代ではないのだぞ? 場所が場所であれば、ぬしを手打ちとすることも出来る」

「わかっております。ですが、ここは下界の常識に囚われぬ、虎千代様の領土だと、さる御方が申しておりました。まさか、二言はないでしょう」

「……まったく、顔以外も丸くなれ。貰い手がおらぬようになるぞ」

「ご心配なく。これでも直江の娘、引き取り先はいくらでもあります」

「ぶは、姉上が聞いたら泣くのぉ」

 景虎は碁盤を見つめ、苦笑する。

「よかろう。一局、相手をしてやる。何子欲しい?」

「二子頂ければ」

「ぶは、随分大きく出たな。確かに俺はしばらく碁を打っておらぬが、そもそもぬしと俺の力差を忘れたわけではあるまい。四子だ。それで何とか互角であろう。勘違いするでないぞ。俺も色々あって上達しておるのだ。だから――」

「二子で」

「……強情な。俺は戦で手を抜けるほど、器用ではないぞ」

「その代わり、私が勝利した暁には一つお願いをさせて頂きたく存じます」

「万に一つもないが、構わん。俺が勝った場合は?」

「何でもお命じ下さい」

「ふっ、ならば石を拾わせてやろう。最後だから立派なものを頼むぞ」

「承知いたしました」

 景虎は強情な文の、真剣な表情を見て微笑んだ。本気で勝つ気なのだろう。気持ちよく明日を迎えるために。顔に似合わず勝ち気な性格を、景虎は存外好ましく思っていた。男であれば部下にしたい、などと虎千代の時分は思っていた気もする。

 だが、自分はもう長尾景虎なのだ。

「さて、その自身の源泉、この俺が見定めてくれる」

「存分に」

 遊戯とはいえ立ちはだかると言うのなら、踏み潰すのみ。


     ○


 直江文は武家の女である。とある異質と出会うまではそのことに疑いもなく、言いたいことは山ほどあれど、その全てを飲み込む気でいた。そもそもこの時代、女が一人で生きられるようには出来ていない。武家から離れて生き抜く自信もなく、それならば流されて生きるしかないし、そうすべきとすら思っていた。

 だが、異質と触れ合い、その生き方に感化された今、普通に用意された相手に嫁ぎ、普通に子を成し、普通に家を盛り立てる。

 その生き方をつまらないと思うようになってしまった。

 全ては異質、眼前の男のせいである。

『なるほど。直江に、しかも女に、こういう才が芽生える、か』

『お父様、私は……使えると思います』

『……私に売り込むか、娘でありながら』

『はい』

『よかろう』

 ならば――

「……どこで学んだ?」

「お父様から大陸の文献を集めて頂きました」

「なる、ほど」

 長尾景虎は信じられない面持ちで盤面を覗き込んでいた。今の自分ならば覚明相手にも劣らぬ、という自信があったのだ。京より帰ってから打ち合ったことはないが、それでも自分は伸び、彼は託したことにより枯れた。

 世の中を見た。駿府にて賭け碁にも興じた。大金を稼ぎ、世間の実力を知り、より自信を深めた。北条率いる五色備えも強かった。

 間違いなく己は強い。それは天下においても揺るぎない。

 それなのに――

「随分銭が必要であったろうに」

「そのようですね」

 囲碁の本場は中華、今は明である。ルールはこの時代と異なるだろうが、紀元前からそういう形式の遊戯は存在していたとされる。日本に渡ってきた時代は定かではないが、数百年、下手をすれば千年以上中華は先んじているのだ。

 明では初代皇帝朱元璋が禁棋令、あちらで碁は棋と呼ばれていることからわかる通り、碁を禁ずる法令を出さねばならぬほど、民間に広まって親しまれていたのだ。まあ、禁じられていた理由は賭け碁、が理由なのだが。

 日本も当然、貿易によって彼らの知識を得ているが、直接文献を得るとなると写しでさえ交流のある西側以外なかなか手に入るものではない。この越後ではさぞ難儀したことだろう。銭も手間もかかる。傍若無人な虎千代とて、金津らにそこまで求めたことはない。そもそも今となってはそれほど差がないと思っていたのだ。

 ただ、彼女を介し対面することで景虎は痛感する。

(強い弱いではない。筋が、違い過ぎる)

 とかく噛み合わない。定石が微妙に異なり、序盤からどうにも噛み合わぬまま盤面が進行していた。筋もこちらが対峙してきた者たちとは違う。

 その上でこの女――

「……攻撃的だな」

 苛烈極まる攻めで景虎の地に攻め寄せてくるのだ。

「平三様は守る相手には滅法強いですが、攻められると腕が一枚落ちますので。二子を守り切るより、無いものと考えた方が良いかと思いました」

(ぶは、さすがにその辺りは理解しておるかよ)

 景虎自身、攻め潰す戦いは得意だが、守らされると少し腕が落ちる。もちろんその辺の相手に後れを取るほど甘くはないが、腕の立つ相手に二子を置かれてしまえば、後手に回らざるを得ないだろう。

 必然、景虎は常に守らされる戦いを強いられていた。

「強うなったな」

「平三様のおかげです」

「反骨心か?」

「随分いびられましたので」

「ぶはは、参った。ぬしの執念が勝る。この俺が、くく、女に後れを取ろうとはな。世の中にもそうはおるまいぞ。今のぬしに勝る者など」

「二子、頂いておりますので」

「これ以上強くなられては俺の立つ瀬がない」

「では、いずれ立場を無くしましょう」

「ぶははははは!」

 遊びで教えていた相手がここまで強くなった。信じられないが、この盤面以上の言葉など必要ないだろう。彼女の研鑽、存分に伝わった。

「俺の負けだ」

「ありがとうございました」

 文は大きく息を吐き、小さく拳を握った。彼女は全力で、薄氷の上を渡り切ったのだ。一度攻勢に転じられたならば、景虎は必ず巻き返してくる。二子はその無理攻めを適えるために使った。きっちりと、使い切って見せた。

 絶対に攻めさせない。受けさせ続ける。

 それがこの怪物を沈める唯一の方法だと、彼女は考えたから。

「して、ぬしは俺に何を望む? こうまで見事に敗れたのだ。まあ、出来ることであれば何でも叶えてやろう。時期を問わずと言うことであれば、実綱めを陥れ、ぬしに自由を与えてやることも出来る。俺が銭を投じ、碁打ちとして天下に名を馳せるも悪くないやもしれぬな。くく、道はいくらでもある。好きにせよ」

「では、お言葉に甘えさせて頂きます」

「おお」

 直江文は真っ直ぐと虎千代を見据え、

「お父様に平三様より、私を傍に置きたいとお願いしてください」

「……は?」

 攻撃的な笑みを湛えながら、景虎の想像を上回る。

「……聞き違えたか?」

「何度でも申しましょう。傍に置いて頂きたい、と」

「目の前に、いくらでも道があるのだぞ! 俺はもう諦めたが、ぬしは違うだろうに。そのために腕を高めたのではなかったのか⁉ 可能性が――」

「私が決めたことでございまする」

「ふざ、けるな! 此度の混乱、元を正せば実綱めの仕掛けぞ。俺はもちろん、兄上も許さぬ。今は緊迫した情勢ゆえに留め置いておるが、少なくともこれから先、兄上が直江の力を高めるような手は打たぬ。その意味、ぬしならわかろうが!」

「長尾本家に連なる平三様と結ばれることは、ないでしょうね」

「わかっておるなら前言を撤回せよ。その選択は考え得る限り最悪だ。結ばれる可能性が存在せぬ相手の世話をするなど、無意味を通り越して害しかない。実綱めに何を吹き込まれたか知らぬが、俺を信じろ。あの男の好きにはさせぬ」

「そうでしょう。お父様は絶対に、平三様には逆らいませぬ。それに、自らの娘を譲ろうなどと考えてもおりません。神のように崇め奉る相手に誰が女を差し向けましょうか。私に銭を投じた理由も、平三様の遊び相手になれば、くらいのもの」

 景虎には文が何を言っているのか、微塵も理解できなかった。どう考えてもあり得ない選択肢である。合理的に考えれば、一番ありえない。この時代、女性の婚期はそれほど長くない。十代を過ぎれば行き遅れ、出戻りしか考えられぬような世界である。そんな貴重な時代を、浪費するのはあまりにも愚か。

 自分の価値を自ら貶めるに等しい。

「それでも私は、私がそう決めたのです。まさか武士の男に二言はありますまい」

「ぐ、ぬ」

「私には綾様とは違い、平三様のおかげでこうして選ぶことが出来ました。どうか、どうか、私の選択を、受け入れてください」

「……必ず後悔するぞ」

「選ばずに流される方が、悔いると思いここに参りました」

 考えていなかった。そもそも好かれているとも思っていなかった。今日も散々石を拾わされ、その復讐のために、最後の機会だからやって来たのだと思っていたのだ。それがまさか、このようなことになろうとは。

(石を置かせねば……馬鹿か、俺は。未だ、何も見えておらぬではないか)

 景虎は天を仰ぐ。まさか越後に、しかもこんな身近に、自分の想像を超えてくる者が存在するとは、それも元を正せば自身が育てた人材である。

 まさに驚天動地。

「いつからだ?」

「何がですか?」

「いつから俺を好いておった?」

 景虎の質問に、文は目を丸くする。そして、まこと嬉しそうな笑みを浮かべ、

「あら、私がいつ平三様を好きだと言いましたか?」

「んなッ⁉」

 景虎を嬉々として大いに煽る。

「さすが一城の主ともなると気が大きくなられるようで。もちろん、私も平三様に求められるのであれば、立場上受け入れるしかありませぬが」

「あ、ありえぬことを申すなよ、丸顔がァ」

 自身がまたしても嵌められたことを知り、景虎は顔を真っ赤にする。

「雅な女性は古来より丸顔と相場が決まっております」

「ほざけ!」

 ものの見事に転がされた景虎は大きく息を吐いた。

「……赤っ恥だが、前言まで冗談、と言うことはないか?」

「……はい」

 少し複雑そうな表情で、彼女は微笑む。

「……そうか。ならば、もう良い」

 景虎もまた苦笑し、

「実綱には俺から伝えておく。表におる持の字と共に、支度を手伝え」

「ありがたく」

「姉上といい、ぬしといい、どうして俺の周りにはろくな女がおらんのだ」

「方以類聚、物以羣分、吉凶生矣」

「……なんぞ?」

「周代、易経の言葉です」

「意味は?」

「要約すると、似た者同士が集まる、と言うことですね」

 ちなみに類は友を呼ぶの語源である。が、今はまだ無い。

「……ほざけ、丸顔」

 まさか元服してすぐにものの見事に負かされると思っていなかった景虎は、もはや笑うしかないと乾いた笑みを浮かべていた。

 のちに彼は言う。

 二度負けたが、誰も知らぬ一度目に比べれば軽傷であった、と。

 景虎は肩を落としながら表に出ると、

「いやはや、実に見事な言い負かされっぷりだな、平三殿」

「久方ぶりに境内が賑やかになってよかったですねえ」

「……殿には奥方など必要ないと思います」

 最近姿をくらましがちな癖にこんな時だけちゃっかり現れた覚明、童の時分と変わらぬやり取りに嬉しそうな光育、とかく不満そうな甘粕。

 あとは賑やかしに僧侶たちが大笑いしていた。

「覚えておれよ、ぬしら。俺はのぉ、記憶力が良いからなぁ」

「忘れませぬよ、私たちは」

「……まったく、どいつもこいつも」

 景虎は少しだけ微笑み、

「ではな、ハゲども。精々修行に励め。ハゲだけにな」

 最後の最後まで最悪極まる口の悪さを残し、林泉寺を後にした。


 こうして長尾景虎は兄から与えられた家臣と、幾人かの人間を連れて春日山から旅立っていった。それほど遠くはないが、これから先そんなに戻って来ることもないだろう。自分は分家の古志長尾としてこれから生きるのだ。

 その時、景虎はそう思っていた。

 景虎のみならず、誰もがそう思っていたのだ。

 されど、時代はうねる。

 うねりとは、予期せぬ状況を生むことも、ある。

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