第参拾陸話:駿府よさらば

 早朝、旅支度を済ませた虎千代は久方ぶりに化粧をし、とらの姿となっていた。駿府から伊勢までの船に乗り、伊勢神宮を詣で、そのまま熊野詣、北に向かい堺へ、そして京へ、と言う行程になるだろう。

 熊野詣をする以上、かなり南側の道を征くため、大回りとなる。とは言え何事もなければ年内に京へ入ることはできるはずである。

「おはよう虎千代。その姿も久しぶりだな」

「おう。路銀は返してもらえたか?」

「ん、ああ。偶然昨日の夜、盗人が見つかったそうでな。きっちり返してもらえた。これで路銀の心配をする必要はなくなったな」

「ぶはは、偶然とは恐ろしいのお」

「本当にな」

 互いに苦笑し合い、虎千代と覚明は湊へ向かう。

「随分世話をかけたな」

 道中、覚明の言葉に虎千代は顔をしかめる。

「何もしておらんし、何もさせてもらえなかった。礼なら太っ腹で腹黒の今川義元に言え。俺はもう、あれと争う気にもならん」

「あっはっは。虎千代にそこまで言わせるか。ただ、間違いなく承芳はそなたを認めていたとも。あれはな、本質的に自分が面白いと思った相手にしか興味を示さんのだ。あれだけ惹きつけたなら大したもの。自信を持っていい」

「くだらん慰めだな。しかし、随分深い仲のようだなァ」

 虎千代の指摘に覚明はため息をつく。

「そうでもないぞ。嫌われてはいないのだろうが、昔からよく悪戯されたり、嵌められたり、泣かされてばかりだ。器用で要領、愛想がよく、皆には好かれて見せるのに、何故か私にそれを示さんのだ。おかげで苦労したぞ」

 覚明の返しに、虎千代は唖然とする。

「それが何故か、ぬしはわからぬのか?」

「うぅむ。あの頃は常に一人だったから、ある意味気遣ってくれていたのかもしれんな。あれも一種の気配りと思えば、私よりも承芳はずっと大人であった」

 普段人の機微には滅法疎い虎千代であったが、昨日あの男と話したからかさすがにこれはない、と思っていた。人への説法、気遣いは見事であるのに、自分へ向けられた感情には無頓着なところが何とも歪で、ある意味彼らしいのかもしれない。

 悪戯する気持ちもわからなくもない。

「ぬしはあれだな。修行が足りん」

「む、言ってくれる。だが、事実だ。旅を終えたら修行に励むさ」

「座禅で何がわかるものやら」

「光育和尚に怒られるぞ、禅宗の寺で世話になっておきながら」

「俺には理解できんよ。きっと、最後まで」

「ん?」

 いつもの茶化すようなものではなく、真剣な声色で彼は言い切った。一歩先に進んでいたため、覚明は今、虎千代が如何なる表情をしているのか、それを知る術はなかった。昨日の夜何が起きたのか、それを覚明が知ることはない。

 今、知るのは虎千代と今川一派、そして唯一生き延びた主犯格の道詮のみ、だろう。駿府の民が知るのはどれだけ早くとも今日の昼ぐらいであろうか。

 どれだけ耳を澄ませても、聞こえぬものはある。


     ○


 道詮は生気のない目でその男を見つめていた。もはや道詮からすれば全てがこの男たちによって仕組まれたのではないかと思うほど、鮮やかに、あっさりと、道詮の、この地における一向宗の首に、縄を括りつけてきたのだ。

 宇佐美新兵衛とは彼らの手先だったのでは、と勘繰ってしまうほどに。

「宇佐美新兵衛は死に、御前の敵対者も死に絶えました。我らが今川家の手によって。なに、恩に着せる気は毛頭ありませぬよ。仲良くやりましょう」

 笑顔の男、駿府を統べる男今川義元が懐刀、九英承菊。

「末永く。それだけのこと」

「あ、あはは、はは」

 これから先、道詮と言う男は骨の髄まで今川に絞り尽くされ、彼らのために踊り続ける人生が待っている。それもこれも、全てはあの日、品のなさそうな小僧から銭を巻き上げてやろう、などと魔が差してしまったから。

 あの日、宇佐美新兵衛に出会わなければ、賭け碁などせず金貸しも、酒造もせず、慎ましやかに過ごしていれば、こんなことには――


     ○


 武田信虎、無人斎道有は早朝から酒を呷っていた。日がな一日酒を飲む。暇を持て余すと賭場に赴き、豪快にすって帰ってくる。

 そんな自由を謳歌していた。今は今川館を離れ、駿府の片隅に館を用意させ、そこに移り住んでいた。費用は今川と、甲斐武田の折半である。

「あら、朝から深酒されますとお体に障りますわよ」

「ばはは、相変わらず口うるさいのぉ。それより西は来んのか、西は」

「来ませんよ。あの子は敗者が嫌いなので」

「……耳が痛いのぉ」

 そして今、その館には肉も酒も詰め込まれ、さらに甲斐から側室たちを呼び寄せ、まさに酒池肉林を形成していた。何度も言うがこの男、出家して無人斎道有と名を改めている。一向宗ではないので当然、肉も酒も女も駄目なのだが。

「俺様泣きそう」

 しょんぼりしながら木杯を側室であった若い女性に向ける。

「もう、殿はいつまで経っても殿のままですねぇ」

 そして、酒が注がれたらまた豪快に呷る。

 それだけで元気いっぱいになれるのだ。

「太郎はどうしておる?」

「殿を追放してすぐ、女の子を館に呼び寄せていましたよ」

「ばはは! それでこそ俺の子だ! 男たるもの、そうでなくてはなァ!」

「殿は太郎様が大好きでしたからねえ」

「馬鹿を言え! 俺様を追放したクソガキを、何で俺が好いてやらねばならぬ。そもそも俺は男が嫌いなのだ」

「あら、以前小姓を抱かれていた記憶がありますけれど」

「甲斐の女に飽きた頃であったかなぁ。あんまり覚えとらん。とにかく俺はな、可愛げのある次郎推しだ。あんな激眉のむさくるしい男など知らん」

 自分の眉毛を横に置いた発言に、女性は苦笑する。

「素直でないですねえ。残念ながら、女は皆わかっておりますよ。だからこそ、大井様はあちらに残られたのですから。愛する子を見守るために」

「あれが愛しておるだけだ。俺は知らんぞ」

「はいはい」

 拗ねる道有。からかいながら愛する男を見守る女性。武田信虎は正妻と側室をたくさん抱えた女好きである。この駿府の屋敷にも出来てすぐに駿府の若い女性を大量に招き、早々に致したことはあまりにも有名(駿府で)。

 その後も甲斐から側室含め女を呼び寄せ、連日連夜酒池肉林の宴三昧。そんな男を女が好いている理由は様々であるが、少なくとも彼を巡って喧嘩などはしない。彼は全部を愛すし、一人に収まらぬ器も女たちは理解していたから。

「良い出会いはありましたか、こちらで」

「……そうさなぁ」

 武田信虎は湊の方へ視線を向ける。

「俺を負かした小僧ならおったぞ」

 女性は目を剥く。武田信虎と言う男は女にも弱いし、酒を飲めば博打も弱い。だが、それで負けたとは絶対言わない男である。女の知る限り、それこそ北条氏綱らと勝った負けたを繰り返していた時、太郎、武田晴信に追放された時ぐらいのもの。

 少なくとも、彼の『負け』にはそれだけの重みがある。

「いずれ太郎の壁となろう。成長したあの小僧に、はてさてどれだけ肉薄できるものか。その時まで生きていたいものよなァ。酒の肴に、これ以上はあるまい」

「太郎様が負けると?」

「さてな。だが、悪いことばかりではない。負け方にもよるがな、あれは負けて強くなる性質だ。小僧相手に良い負け方が出来るなら、俺の辿り着けなかった領域に辿り着けるかもしれん。相手は龍、虎の牙が届くか否か」

 ぐび、と酒を飲み干し、『武田信虎』は大いに笑った。

 視線の先に広がる新たなる時代を見つめて。


     ○


 さすがは東の都、駿府が物流の要、湊も随分と立派であった。他の都市と比較してもやはり頭一つ抜けているものがある。

 今川義元が用意した船に至っては周囲の船と比べてなお、頭一つ大きくこれまた大層な船であった。ちなみに船とは原則的に大きくなればなるほどに安定するもの。まあ、外洋に出るわけでもないのでさほど大きな揺れは無かろうが、やはり貴人が乗る船ともなれば大きく、極力揺れを抑えようとするものだろう。

 そそくさとそこに乗り込み、甲板で駿府を眺める二人。

 しばらくそうしていると――

「お、ぶはは、相変わらず珍妙な面だぞ。見ろ」

「ん、んん、おお、本当だ。はて、あの面、どこかで見たような」

 湊の一角に現れた火男の面を被った男。虎千代は当然、昨夜のことがあるためあれが今川義元だとはわかるが、虎千代を除く全員がまさかこのような場所にお忍びで今川家当主がいるなどと思いもしないだろう。

 覚明は何か引っかかっているのか、考え込んでいるが。

「手でも振ってやれ」

「ん、ああ」

 覚明が手を振ると、面をした男も軽く手を振って見せた。

「あ⁉」

 その所作でようやく覚明はあれが誰なのかを悟る。

「承芳か。まったく、あやつは。あんな滑稽な面、どこで――」

 そして、今川義元と火男の面が結びつき――覚明は目を見開く。

 思い出したのだ。あれをどこで得たのか、を。

 あんなものを彼はまだ持っている。それはとても雄弁な、読ませぬ男にしてはあまりにも真っ直ぐな『言葉』であった。

 ゆえに――

「どうした?」

「いや、何でもない。最後まで、ああ、わからぬ男であったよ」

 覚明は笑顔で手を合わせる。義元もまた同じ動きで、手を合わせた。

 あちらは旅の無事を、こちらは武運長久を、祈る。


     ○


『覚明、わたしは祭りに行きたい』

『行けばよかろう』

『……わたしは貴人だぞ。供がいるのだ』

『それを私にやれ、と?』

『うむ』

 京の街で行われる祭り。普段、何かを他人に強請ることなどしない子だったが、その日だけは何故か強情であった。

 それが何故なのか、かつての自分はあまり考えずに、どうせいつもの気まぐれなのだろうと深く考えることはなかった。

 腐っても京、祭りはとても賑やかであった。

『意外と大したことないな、京は』

『私には随分賑やかに見えるがなぁ』

『駿府はもっとすごいぞ。覚明にもいずれ見せてやろう』

『私はたぶん、京から出ることはないがな』

 この言葉でまた拗ねた。あの日はいつもよりずっと子どもっぽく見えたのを覚えている。また何かの計略の一部なのだろうと思っていたし、実際にこの翌々日ほどに子どもらしさを逆手に取った策を繰り出してきたので、これまた深くは考えなかった。今思い返すと、『そういう』ことだったのだな、と思えるのだが。

『覚明、何か買ってくれ』

『銭は無い』

『ふん、つまらん男だな。祭りぐらいよかろうに』

 また拗ねた。しかしこの日は前日に碁の整地でイカサマをされたことで、ほんのり立腹していた。我ながら大人げなかったが、そう言う日もあったのだ。

 だから、『そういう』意図など微塵もなく――

『仕方ない。この面を買ってやろう』

 そこに在った中で最も滑稽な面を、かまどで火を竹筒で吹く男を模した、火男の面を買ってやったのだ。自分はそんなことすっかり忘れていたし、善意ではなくどちらかと言えば意趣返しに近かったのだが――

『わたしにか』

『ああ、芳菊丸(義元の幼名)に、だ』

『……そうか』

 子どもっぽく、貰ったものをぎゅっと抱きしめ、嬉しそうにはにかむ彼を見て、少し驚いたことは覚えている。まあ結局、翌々日の策への布石だと思わされたことですっかり忘れていたが。今思えばあれも、照れ隠しだったのかもしれない。

 隙を見せてしまった自分の『本当』を隠すために。

 大した記憶ではない。それほど深い関係でもなかっただろう。あの子はあまり人を踏み込ませたがらないから。どうしたって浅くなる。

 だけど、たぶん、あの日々の中で言えば、それなりに深い関係だった。

 今思うと、そんな気がした。

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