第参拾漆話:神威覚醒

 船に揺られてどんぶらこ、往還(街道)を征けば幾日かかる行程も、遮るもののない海路であればあっという間である。そんな中、甲板で一人女装した虎千代は海風を浴びていた。特に理由はないが、何となく陸地の方を見る。

 手前に突き出た陸地の先、三河湾よりさらに奥――

「……なんぞ、この、不愉快な風は」

 風向きとはまるで違う、追い風のような感覚。実際に風が頬を撫でたわけではない。ただ、感じたのだ。何かの意思が介在した、うねりを。

「尾張、織田信秀とやらか?」

 尾張守護斯波氏の下、守護代織田大和守家の家臣にして分家の身でありながら、津島、熱田を得て守護をもしのぐ力を得た尾張の怪物。

 その勢いはまさに破竹の勢い。

「…………」

 実績から鑑みても尾張一豊かな湊町津島を得た織田信定、巨大な経済圏を持つ熱田を得た織田信秀、尾張は彼らが二代に渡り織田弾正忠家が抜きん出ている。権威はともかく実際の力で言えば米も取れるは銭もあるはで、その辺の守護よりよほど強い力を持っているだろう。甲斐はもとより、越後も、おそらく及ばない。

 銭もそうだが、米どころなのが強いのだ。特に慢性的な飢饉に苦しむこの時代に置いては。そう言う意味でも見た目より遥かに強い地盤と言えるだろう。

 だが、三河を隔て隣り合うはかの大大名今川家。北には親子二代で美濃の国盗りを画策する斎藤家もいる。これ以上の勢力拡大は難しく、そもそも実際は三奉行の一角でしかない織田弾正忠家では伸び悩むのは明白。

 今更風を、勢いを感じるはずもない。

 では誰か、そもそもこの感覚は何なのか――

(力ではない。決して弱いわけではないが、明確に一枚落ちる)

 今川義元とはまた別種の未知。視線の先にそれが在る。

 いや、今、産声を上げた。

 何故かそんな気がしたのだ。理屈ではない、何かが。


     ○


 熱田、那古野城を仰ぎ見る場所に男と少年が並んでいた。

「吉法師よ、父不在の間、何か不自由はなかったか?」

「ありませぬ、父上」

「そうか。それは何よりだ」

 心地よい風が二人の背を押す。巨大な経済圏を誇る熱田を織田弾正忠家で押さえるために、幼き息子を城主とするしかなかった苦悩。腹心は付けたものの、重荷になることもあろうと心配であったが、今のところは上手くやっているようであった。

「熱田神宮へは参っておるか?」

「はい。草薙神剣の神威を感じ、幾度詣でても身が引き締まる思いです」

「そうか。それは良かった」

 父、織田信秀は息子の頭を撫でてやる。自分が何も言わずとも、この子は自らの『宿命』を理解している。そのことに父は胸が詰まるほどの感動を覚えていた。

「我ら織田氏がどのような流れを汲むか、知っておるか?」

「古き時代の朝廷、その祭祀を担った忌部氏と聞き及んでおります」

「そうだ。よく学んでおるな。世の流れは無常、役目を下ろされ、方々に散り、今こうしてその一部が尾張にいる。それは良いのだ。それもまた我らが天命なれば、そこに従うことこそ神の子たる我らの役割なのだから」

 神を語る父はとても穏やかな雰囲気であった。心の底よりも神仏を、帝を、朝廷を愛し、敬っている姿が少年、吉法師の心に刻まれる。

 そんな穏やかで優しい父が――

「しかしィ、今の世は乱れている。上洛して、嫌と言うほど理解できた。御所の惨状、俗物共の増長、見るに堪えぬ、あまりにも、許し難き景色であったァ」

 突如、歪む。

「帝は嘆かれておる。室町様もそう。天下に巣くう腐り切った蛆虫が如き俗物どもの悪し様、正さねばならぬと私は強く、強く思った」

 そして、恍惚なる笑みを浮かべ、

「そう思っていた矢先、帝より賜ったのだ。従五位を、備後守を。これはまさに天啓である! 帝から私への、無言の御言葉。信秀よ、正義を成せ。力を以て天下をまとめ、静謐を成せ。私には、そう聞こえた。わかるか、吉法師よ」

「はい!」

 父の想いに胸を打たれ、父子は涙を浮かべる。彼らは考えない。その官位は朝廷へ献金したことで得られたものであり、この時代朝廷が銭欲しさに乱発しているものの一つでしかないことを。そこに帝の意思など、皆無に等しい。

 だが、二人は信じ切っていた。

 これが自分たちの使命なのだと。神、帝より賜った『宿命』なのだと、知る。そこに疑いはない。迷いもない。ただ真っ直ぐと、彼らは彼らの神を見る。

「私はまい進する。より大きな力を求め、全力を尽くす。だが、もし、もし私が倒れたならば、『宿命』を担うは吉法師、そなたぞ」

 神を、帝を、頼む。強く願い息子の手を握る。

 そして息子は力強く、それに握り返した。

「お任せください父上。その時は、私が必ずや――」

 圧倒的信仰を心に掲げ、

「天下を守護ります!」

 その眼には神威が宿る。

 彼らは心の底より信じているのだ。自分たちの『宿命』を。如何なる理屈をも通さぬ最強無敵の信仰を掲げ、親子二代力を求める。

 ただひたすらに、神がために。

 この吉法師こそ、後の世に三英傑と謳われる織田信長である。後世には神仏を踏みつけ蹂躙し、既存権力の破壊者、魔王と伝わる男。しかしその実、神仏を尊重し、朝廷への献金も欠かさず、そもそも天下(畿内)の意味が誤って伝えられたことにより、彼の真意もまた歪められて伝わっただけのこと。

 正義を胸に宿す者は、あえて義の文字を掲げることはない。彼らにとってそれは当たり前のことで、わざわざ口にするまでもないことなのだ。

 神風を背にし、正義と共に、織田吉法師が静かに胎動する。


     ○


 今川義元は眼を見開いた。

「ん、どうした?」

「……いえ、何でもありません」

「……そうかァ?」

 今は武田信虎、無人斎道有の屋敷に訪れ、隠居料についての相談にわざわざ当主である義元が訪れていたのだ。その打ち合わせの最中、突如襲ってきた悪寒。それが何か、義元にはわからない。ただ、何故か無性に――

「感性は大事にした方が良いぞ。老いて、使い物にならぬ内はな」

「肝に銘じておきます」

「ふん」

 肯定しつつもこの男、あやふやなものを信ずる性質ではない。それがわかった上での提言でもある。常に完璧を目指す姿勢が、時に墓穴を掘る可能性もあるのだ、と。どれだけ必然に近づけても、世に絶対は無いのだ、と。

 まあ、この男もその辺りは重々承知しているだろうが。

「それで隠居料ですが、この辺りで手を打ってくれませぬか?」

「ああン? これでは足りんだろうが」

「それなりの暮らしをしていくには十二分かと」

「いや、俺様近々上洛しようと思っていての。銭がいるのだ。たくさん」

「……な、なるほど」

 追放し、強制隠居ともなれば丸くなると思いきや、むしろ縛る物がなくなり活発化する道有。今川義元も彼の娘を貰っており、関係としては義父となる。義元でさえやり辛いのに、他の家臣たちにとっては『御舅殿』である。

 駿府における扱いは最上位。もはやこれを見越して娘を送り付けたのでは、と思うほどに今の状況はこの男に向いていた。

「太郎殿よりこのような馬鹿げた隠居料、まかりならぬと文が来まして」

「突っ返せ。俺様を誰だと思っていやがる、とな」

「……そ、それは」

 今、自分が武田相手にあまり強く出られないことをわかっていてこの言い草である。本当に厄介な御仁だ、と義元はため息をついた。

「もう一度相談してみましょう」

「おう。そうしてくれ」

 自分を追放した国と受け入れ先にここまで堂々と隠居料をがめようとする者はそう多くないだろう。しかも理由が上洛したいから、である。たぶん、遊覧、遊び惚けるのが目的であろうし、だからこそ眼がキラキラしていた。

「まあ、悪いことばかりではない。何せ、この俺様が味方にいるのだ。銭さえくれりゃあ戦ってやる。老いてもまだ……俺は強いぜェ」

 怪物が放つ烈気に当てられ、義元は苦笑を深めるしかない。おそらく、北条氏綱が没したと伝わる今、関東全域、東海道を含めてもこの男以上の武将はほとんどいないだろう。扱い切れるかどうかはさておき、強い武将なのは間違いない。

 ただし――

(銭のかかる御方だが)

 銭がかかる。何だかんだとおそらく、太郎、武田晴信はどこかで飲むだろう。彼も理解しているのだ。どこかの巣に縛り付けておかねばこの虎、また暴れ出すだろう、と。実際にこの男、この後も全然戦に出るし、子も成す。京に拠点を構えたり、甲賀で所領を得たり、織田の包囲網に加わったり、やりたい放題である。

 僧籍に入ったのも旅がしやすいから、と言う噂が。真偽は不明だが。

「とりあえず飲むか、彦五郎!」

「……頂きます、義父上」

 ばはははは、との大笑いが駿府に轟く。

 今はその覇気が心地よいと今川義元は感じていた。かすかな悪寒、予感、何かが芽生え、それが自分に影を垂らす。今はまだ想像も出来ない。

 完璧を穿つ牙が、生まれ出でたことを。

 まだ世界の誰も、知らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る