第参拾伍話:夜の密会
夜闇の中であろうと光り輝く駿府の景色と、足元に横たわる惨たらしい躯たち。陰陽交わる景色の中、二人の男が並んで座る。
視線は交わらぬままに。
「まず、今回の一件、私は何もしていない。最後は読み切れたが、逆に言えば最後までは後れを取っていた、という見方も出来る」
そう言う割には表情に切迫感がなく、虎千代は何とも言えぬ気分であった。裏を返せばこうなると分かっていたから、放置していただけ。全て見通せた者と見通せなかった者、その差は思っているよりも大きい。
「目の付け所もこの上ない。何かを選ぶ上で、人は必ず何かを諦める。一向宗はね、私にとってそう言うものなのだ」
「……どういうことだ?」
「人間の社会構造とは常に三角形だ。頂点に帝が、朝廷があり、将軍、管領、各国守護などが続き、最後には百姓、其処にすら交わることの出来ぬ者もいるのだが、絶対的な数の上では無視して良いだろう。酷い話だがね」
虎千代の脳裏に浮かぶのは箱根の秘湯で出会った女性。何処に与することも出来ずにさまよい歩く姿が、嫌でも残る。
「三角ゆえに底に行けば行くほどに数は増す。ならば、庶民を重視した政策を取るべき、かと言うとこれが正とも限らない。少なくとも今は、どれだけ下に尽くそうとも権威の上では何の役にも立たないのだ。だから、上を重視する」
「駿府を今よりも、東の都よりも高めるには、銭ではなく権威と言うわけか」
「その通り。落ち延びた公家を招いているのもその一環。腐っても鯛。歴史と伝統、こればかりはどれだけ優秀でも得られるものではないからね」
誰かに聞かれ、広まりでもすれば大変なことになる発言ばかり。そういう話を繰り広げられると最後には殺されるのではないかと勘繰ってしまうのだが――
「一向宗の強みは三角形の底、庶民に対し絶大な影響力を、力を持っていることだ。それはきっと、長尾家の縁者であるそなたなら嫌でも理解しているだろう」
長尾家前当主、長尾為景は一向宗の信仰を禁止した経歴を持つ。そのさらに前の当主である長尾能景と共に親子二代、越中(今の富山県辺り)で一向一揆に苦しめられた経験がそうさせたのだ。その厄介さは虎千代も知るところ。
だからこそ、敵の急所になると味方に引き込んだのだから。
「私も当主について日が浅い。駿府もそうだが、駿河、遠江、二国ともに安定しているとは言い難い現状がある。そこで、ただでさえ臨済宗を推し、他の宗派に苛立ちが募る中、その部分を荒らされてしまうと厄介だった」
「そう言う割に何もしなかったな」
「私はそなたよりも道詮と言う男を知っていた。それだけのことだよ。彼はわかりやすく欲深き僧だ。そなたもそこに付け込んだ。だがね、そなたは彼の器量を読み違えたのだ。いや、もっと言えば、長尾虎千代の器量を、か。さすがに今回の一件、彼らの忠義を見て理解出来ただろう? 自身のことを。少しは」
「…………」
虎千代は死に絶えた僧兵たちを見つめる。そして、視線をそらした。
「道詮に長尾虎千代は扱えない。そなたがもたらす富すらも恐ろしくなる。勝ち過ぎることへの恐怖が彼を包み、今日の裏切りに繋がった。嫉妬ではないよ、畏怖だ。僧兵たちはそれで忠義を尽くし、道詮は裏切った。根は、同じ」
僧兵たちは盲目的に宇佐美新兵衛を信仰する傍ら、道詮はそれを見て恐れた。自身の立場を奪いかねない怪物を。それに彼は他の者より少し、目端が利いた。ふらりと現れた謎の男、宇佐美新兵衛がいなくなってしまったら、絶対的な力を失ってしまえば、奪われた者たちは絶対に黙っていない。必ず毟り取られる。
それだけでは済まない、かもしれない。
「端から駿府じゃ勝ち目はなかった、か」
「本気で勝とうと思えば道詮を取り除いて、一向宗の地盤を用いた新興勢力を立ち上げる、と言うところだろうが。さすがにその動きが見えた時点で私は動く。今日の比ではない死者を出した上で、私が勝っていたよ」
勝ちの目は無い。それは虎千代も最初から分かっていた。だからこそ、やり過ぎない範囲で立ち回っていたのだ。今、義元が言ったことは、彼らにとっても最悪の状況。周囲が荒れている状況下で、中枢が荒れたなら他がどう動くか――
「その感覚は大事にした方が良い。結果として凡俗である者たちの機微は掴めていなかったが、少なくとも私のことは概ね掴み切っていた。他者の腹の中でそこまで出来るなら、十二分に怪物と言えるだろう」
今川義元のお膝元、そこでここまで暴れられる者が、一体どれだけいるだろうか。まあ、そんな人物がふらりと他国に現れて暴れる状況自体、この時代ではあまりにも珍しい光景なのだろうが。
「負けだ負け。もう好きにしてくれ」
虎千代は血まみれになった狐の面を投げ捨て、ばたりと地面に倒れ込む。何を言われようとも全力を尽くして敗れ去ったことには変わらない。
そして、踏み外した理由が自らの失態であったことも――
「ふふ、一応、誤解なきように私の目的を話しておこう。第一は長尾為景の息子、長尾虎千代の観察だ」
「第一は覚明だと思っていたがな」
「それは第二だね。そなたが思う以上に、長尾為景と言う怪物は関東に大きな爪痕を遺している。北条が台頭した一因でもあるからね」
長尾為景は越後の守護であり、自身の主君でもあった上杉房能を火の粉を振り払う形とはいえ自害に追い込んでおり、その実兄である関東管領上杉顕定(山内上杉)と敵対し、長き戦いを経て敗死させた経歴を持つ。今でこそ落ち着きを見せているが、関東におけるナンバーツーを打ち破ったことは関東勢を大いに揺るがせた。
北条氏綱とも一時期は交流しており、多くに敵対されて北条が四面楚歌に陥った際も、味方こそしなかった(出来なかった)が扇谷側の援軍要請も断っており、今日の関東における北条台頭の要因にもなった。
ちなみにこの時、氏綱から為景には山内上杉を攻めて欲しいとの依頼があったが、そのために武田領を通過したいと申し出をし、それを武田信虎が断った、という顛末もあった。もしここで信虎が認めていれば、北条の台頭を許すもまだまだ健在である関東の雄、両上杉家の存在自体が無くなっていたかもしれない。
それだけの勢いがこの時にはあったのだ。
「で、観察した結果は?」
「……危険だとは思っている。排除すべきかとも考えた。だけどね、これからの時代はそういう人材が必要なのだ。太郎殿を推した時点で、三代目の新九郎殿を見た時点で、私がやるべきことは決まっているのだよ」
今川義元は黒い笑みを浮かべる。
「強き者には強き者をぶつけ、調和をさせる。もし、両上杉家を北条が喰い破れば、もし、武田が信濃を手にすれば、両家は越後に接する。私の目論見としては武田北条と争い合うよう今川が間に入り操るつもりであった。が、越後に長尾虎千代がいるなら話は変わる。強者たちと拮抗する存在がいれば、もはや今川が戦場に出るまでもない。三者がぶつかり合い、安定が生まれる。労せずに」
巨大な力を持つ三者をぶつけ、今川にとって最上の状況を得る。二つの国を股に掛ける大大名今川にとって、今必要なのは他の領土ではなく、国内の安定、ひいては駿府の発展にあるだろう。争い、疲弊するのは本意ではない。
それを避けるために虎千代を使うのだと言う。
「俺が今の話を聞いて、関東ではなく越中などに目を向けたらどうするんだ? あそこの平定は長尾家三代の悲願でもあるしな」
それを聞いて義元はさらに、笑みを深める。
「ええ。私の本命は、そちらなのでね」
「はあ?」
「……話は変わるが、覚明がそなたに何を望むか、想像出来ているかい?」
「……ある程度は、出来ているが、まさか――」
「私は覚明を知っている。そして、今の畿内を、京もこの眼で直接見てきた。寺社勢力の、度し難さも。中にいたからこそ、私は彼らを利用することに一抹の迷いもない。そしてね、長尾虎千代を観察した結果、そなたもまた私と同じ結論に至るだろう、と思ったのだ。だから、生かす。生かして利用する」
今川義元は嗤う。
「私にとって覚明はね、手元に欲しい人材だ。私は見ての通り、建前は好かれるが腹を割ると気味悪がられる性質でね。そもそも腹を割って話すこと自体稀だ。ついぞ父や兄に腹を割ったことはなかった。それが私だ」
「……何の話だよ」
「まあまあ。だけど私は、当時はまだ幼くてね、隙があった。面白そうな若き僧を見て好奇心が抑え切れず、踏み込み、傷つけた。今は反省している。ただ、それがあったからこそ彼は私を知るし、私は彼相手に気を張らずに済む。それはとても得難いことなのだ。特に、この立場になってからは」
話の先が見えない。だけどこの男のこと、おそらく繋がるのだろう。ゆえに虎千代はこれ以上問うことをしなかった。静かに聞いて、待つ。
義元は先ほどつけていた火男の面を見て、相好を崩す。
「何よりも私は、面白い人物が好きでね。彼もその内の一人だ。随分丸くなったが、それはそれで味が出てきた。そなたが取るに足らぬ者であれば、迷うことなく消し去り、彼の身柄を駿府に拘束しただろう。理由などどうとでもなるし、方法もいくらでもある。だが、長尾虎千代が役に立つとすれば、話は別だ」
第二に据える程度には覚明を欲していた。それがどこまで本気なのかは虎千代に推し量る術はないが、それでもある程度の熱は伝わってくる。
「長尾虎千代が覚明の願いを、祈りを背負うのであれば、私たちにとってこれ以上ない追い風となるだろう。ゆえに、捨て置く。それが最も今川家にとって良き選択肢であるから。私はそれを取る。何を捨ててでも」
少しだけ空虚な笑みで義元は微笑んだ。
「俺がどう動いても役に立つ、か。どれも俺が当主になって差配をしている前提なのは気に食わんが、今は都合良しとさせてもらうぞ」
「ああ。それでいい」
「成れと言わんのか?」
「言う必要があるかい? そなたは北条を見た。武田信虎を見て、いずれはあの怪物をも超える可能性を秘めた男の存在を知った」
それが答えだ、と今川義元の眼が言っている。わかっているのだろう、と。長尾晴景では彼らのような怪物、勝てんぞ、と。
虎千代は、黙して語らず。
「……あと、宇佐美新兵衛と言う存在はここで殺させてもらう」
「首でも置いていけばいいのか?」
「狐の面だけで十分だ。血まみれなのがまた素晴らしい」
「好きにしろ。もう、意味のない名前だ」
駿府を、今川の腹を喰い破るためだけに使った名前である。惜しむ気は無い。ただ、それに踊らされた彼らを見ると、胸が疼く。
結局のところ、今川に害意はなかった。まあ、それは結果論であり虎千代が器量を見せたからこそ利用価値を見出した、とも言えるが。それで済むのであればもう少し穏当な方法もあったかもしれない。彼らも死なずに――
「最後に一つ、お願いしても良いかな?」
「……何なりと。今の俺は、今川殿には逆らえねえよ」
「ふふ、嫌われたものだね」
よいしょ、と立ち上がった義元は血濡れた中を歩み、何かを拾い上げる。
「琵琶の名手と聞いてね。聞いてみたいと思っていたのだ」
「……覚明のおしゃべり野郎め」
「駄目かな?」
「……お安い御用だ。殿は何をご所望で?」
「平家物語、祇園精舎」
「……それを、この駿府で、今川家当主に向かって、だと?」
「頼むよ」
最後の最後まで何一つ読めない男である。この上ない繁栄を、栄華を誇る駿府、それを支配する今川義元。その前で祇園精舎、諸行無常を唄うはあまりにも皮肉が効きすぎている。それでも他ならぬ彼自身が望む以上、断る理由は無い。
琵琶を受け取り、虎千代は構える。
「最後まで俺には今川義元がわからなかった」
「それは僥倖」
義元の笑みを見て、ため息をつきながら虎千代は口を開く。
地上に咲く星々の煌めき、夜空を吹き飛ばさんとするほど自然に逆らい、天を望むは東の都、駿府。この上ない煌めきと共に――
「――諸行無常の響きあり」
虎千代は伸びやかな声で、唄う。
それを聞きながら義元は何とも言えぬ表情で輝ける駿府を見つめていた。彼の胸中を推し量ることはできない。する気も起きない。
わからないのがこの男の強さであり恐さ。
「――偏に風の前の塵に同じ」
余韻を噛み締めた後、今川義元はいつもの笑顔で、
「ありがとう。素晴らしい演奏だった」
虎千代に感謝を述べる。
そして、
「明日、朝一番の船を二人分取ってある。宇佐美新兵衛はここで死んで、もう現れない。謎の男は謎のまま、だ。いいね?」
「……仰せのままに」
「ならば良し。では、おやすみ」
そう言って今川義元はこの場から去っていった。ここはおそらく彼の部下たちが処理するのだろう。全て、綻びなく、虎千代の仕掛けもまた利用して、上手く整理するはず。隙など無い。あるはずがなかった。
ここは今川義元が治める東の都、である。
「最後まで底の一つも見えやしねえ。完敗、だ」
虎千代は天を仰ぎ、苦い敗北の味をその身に刻む。勝ち負けの土俵に引きずり込むことすら届かなかった。虎千代は知る。
この世で最も強き者はきっと、勝負すら成立させぬ者なのだと。
あの男はそういう怪物なのだろう、と。
その領域に最も近い男を、今宵虎千代は知った。
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