第参拾参話:舟遊びの夜

 武田信虎、無人斎道有は一人静かに酒を呷る。

 まだやれる。自分ではそう思っていた面もあるのだが、ものの見事に引導を渡された形。あの少年が傑出しているのは間違いなく、おそらく現状の完成度で言えば息子を遥かに上回っている。まあ、息子は晩成型ではあるが――

(……あれが早熟、ではなかろうよ)

 勝負の途中までは駿河ではなく甲斐に居を移し、武田に仕えろ、などと勧誘するつもりだったのだが、今となってはとてもそんなことなど言えはしない。現時点、元服前の子どもが自分を超えたのだ。ただの運勝負と侮ることなかれ。全てを見通すことなど出来ぬ戦場では、必ず直感を頼らねばならぬ局面が出て来る。

 そして戦史に名を刻んだ者は皆、何処かの部分でその賭けに勝利しているのだ。そこが名も無き者と、英雄との差と言ってもいい。

 兵法など、この時代まで進めば修めて当たり前。智略と言うのは戦場に至るまでに発揮されることはあっても、向かい合った状態から盤面を引っ繰り返すことなど、よほど相手が下手でなければ『ほぼ』ありえない。

 武勇もそう。所詮は人間一人、如何に力を鍛え上げたところで合戦の趨勢を決めることなどない。名高き剣豪も戦場では一つの駒でしかないのだ。

 であれば、将の強さとは如何なるものか。

 武田信虎であった者は思う。

 それは――

「失礼します」

「おう、殿よ。こんな夜更けに何の用だ?」

 駿河での住処が決まるまでは今川館で世話になる道有。その彼の下に館の主である今川義元が訪れていた。

「風の噂で道有殿が宇佐美新兵衛という男と一戦交えたと聞きまして」

「おう。交えたな。完敗だったぞ」

「所詮は運勝負でしょう?」

「ばは、ぬしらしくない。勝つべき時に勝つ。勝負の形式などどうでも良い。勝ち切る力こそが重要なのだ。そこで後れを取った時点で、武田信虎は死んだ。追放された時は嬉しかったものだが、今日は少しばかり、堪えたぞ」

 決して道有は義元に顔を見せない。背中を向け、酒を呷り続ける。

「……私には理解出来ませんね」

「……そこだけだな、ぬしは」

「足りませんか?」

「さて、俺の時代にはぬしのような化生、おらんかったからな。確かに、全てを見極める者には運勝負自体、不要なのだろうがよ」

「怖がりなので、全てを必然としたいのです、私は」

「おう。その心がけ自体は立派だが、もしそこまでもつれ込んだ時、それがぬしにとって本当の勝負、と言うことになろう。そこまで引き出せる者がおるかどうかは知らん。そもそもこの駿河を、遠江を治める今川に喧嘩を売る勢力など――」

 そこまで言って、道有は言葉を濁す。

「織田がいますよ。北条とて今は敵対しておりますし」

「……北条はおそらく、ぬしらを相手取る余裕はないだろう。そうさせなかったのが河東を取らせた一手だろうが。あれはここから山内、扇谷、両上杉家と雌雄を決さねばならん。織田は、正直わからんな。将ではなく商人だろう、あれは」

「将としても有能ですよ。そうでなければ尾張守護代織田氏の庶流でしかない彼らが今の立場を得られるわけがない。越後長尾家同様、今の織田信秀は守護斯波氏をもしのぐ力を手にしています。強いですとも」

 結果がそう示している、と義元は言外に述べる。

「武将として負ける気はせん。俺にとってはそれが全てだ」

「なるほど」

「どちらにせよ、尾張の地盤を固めねば何処へ進むも蛮勇であろうが」

「ええ。その通りです。ですが――」

 言わずともわかる。この男は可能性を残さない。彼らにとって一番、後々に響くやり方を取るだろう。その結果、多少今川が割を食っても構わない。

 この男は常に大局を、誰も見通せぬ先まで読み込んで動くのだから。

「話が逸れましたね。どうでしたか、宇佐美新兵衛とやらは」

「強い」

 ただ一言、道有は言い切る。

「甲斐を統べた男にそこまで言わせますか」

「足りぬ所を挙げれば、自覚だ」

「自覚?」

「あれは自分を過小に評価している。その齟齬を埋めねば、傷つくこともあろう。まあ、どちらにせよあれが駿府で消えることなどない。必ずや在るべき場所に戻り、世を荒らすことになるだろう。それをぬしがどう判断するかは、ぬし次第だ」

 巨大な力は時として人に恐れを抱かせる。彼はまだその点で少し、自らを低く見積もってしまっているのだと、道有は言う。それは義元の見立てとも一致していた。そこの感覚が唯一の隙と言ってもいいかもしれない。

 大局にとって閊えるか、否か。

「彼がどこの誰だか、予想はついていますか?」

「ガキのことなど知るか」

「ふふ、そうですか」

 聞きたいことは聞けたとばかりに義元はすっと去っていく。彼がどうするつもりなのか、それは道有にもわからない。彼はとにかく読ませないのだ。

 ただ、選択肢は二つに一つ。

 使うか、使わぬか、それだけ。

「凡俗を知れ、小僧。俺たちが思うよりもな、凡庸な者の器は、小さいのだ」

 あの少年には理解できないだろう。勝ち続けることで怖れを抱く凡夫のことなど。彼はまだ知らない。そこに道理は合理など、存在しないことを。

 それもまた経験だ、と道有は酒を呷り、眼を瞑る。


     ○


「まだ路銀が貯まらぬのか、覚明」

「すまんな、虎千代。今しばらく、駿府を満喫していてくれ。その、やり過ぎず、無茶をせぬようにな。危ないことは避けるように」

「へーい」

 こいつ絶対わかってないだろう、と覚明はため息をつく。虎千代が何をしているのか、それは今川義元を通してある程度聞いていた。普段であれば今すぐに手を引け、と言うところなのだが、今回の件は自分の不手際であり、自分たちを守るために虎千代が頑張っているのもわかるので強くは言えない。

 虎千代も自分が何をしているのかは言わないだろう。言ったとしても自分のため、やりたいからやっているだけと言うだけであろうし。

「……気を付けろよ」

「ぶはは、誰に口を聞いておる。楽勝じゃ楽勝」

「すまぬな」

 そう言って覚明は寺に学びに来た者たちに教鞭を振るう。それを尻目に、虎千代は黙って立ち上がり、やるべきことをやる。

 自分の行いに迷いはある。本当に正しいのか、今川がどう思うか次第で結果は変わる。一向宗相手、敵に回したくはないのは間違いない。ただ、それは一向宗側も同じこと。所詮は付け焼刃の『力』、出来れば振るうことなく終わらせたい。

 今川が穏当に出て行ってくれ、そう言ってくれたなら、勝ちなのだが。

 銭は嫌と言うほど集まったが、もはや路銀の有る無しは何の意味もない。今川がこの駿府から、駿河から出ても構わない、出て行ってくれと言わねば、身動きなど取れないのだ。逃げ出しても、駿河から遠江を跨ぐ領域は広過ぎる。

 虎千代とて馬鹿ではない。今川義元が何を求めているのか、それぐらいは理解している。黙って行かせることはしないだろう。越後に戻る前に、この機会に乗じて、欲しいモノは得る。自分たちが駿府にいる内に。


     ○


 本日の虎千代は稼いだ銭をばらまくため、舟をいくつか貸し切っての豪遊、舟遊びに興じていた。何故舟遊びなのか、これはもう虎千代がやって見たかったから、と言うのが最大の理由だが、一応散財の理由、建前はある。

 ここにいるのは自分に心酔する一向宗の信徒たちに、自分がこっそりと裏で銭を貸している武士たちもいた。云わば、自分にとって最も身近な戦力である。奇跡を見せ、銭で縛り、それなりに強固な関係性こそ築けたが、まあこういうご機嫌取りも重要なのだ。決してやりたいだけではない。

「新兵衛さま、素敵!」

「琵琶も奏でられるなんて、なんて雅な御方なの」

「ぶはは! 俺様は天才だァ!」

 決して、やりたいだけでは、ないはず。

 ちなみに舟遊びとは屋形船の先祖のようなものだと思ってもらえばいい。舟の上で楽器を演奏したり、和歌を詠んだり、貴族の嗜みが武家や豪商、庶民にまで下りてくる過程で、俗なものも取り入れて広まっていった。

 花火見物、お花見、歌会に茶会なども行われていたようだが、虎千代が主催者なのだ。当然のように酒盛り主体の俗極まる景色が生み出される。

 近くで舟遊びする公家らから白い目で見られても何のその――

「イッキ! イッキ! イッキ!」

「うまーい!」

「さすが先生! 飲みっぷりも豪胆だ!」

「もっと持ってこい! 全部俺の奢りだ、パーッとやれ!」

「いよ、御大臣!」

「ぶはははは!」

 何度も言うがこの時代、未成年飲酒を縛る法律など存在しない。子どもだって酒は飲む。もう少しすれば元服なので大人と同じ。その時嫌でも飲む。

 だから今飲んでも無問題なのだ。

「ふいー。飲まず嫌いしていたが、酒も悪くないのォ」

 夜も明るい駿府の光を照らし出す、川の流れを虎千代は見つめる。何度見ても素晴らしい。夜すらも打ち消す駿府の輝き。これ以上など想像もできない。

 これ以上など、存在しないとさえ思える。

「どうした道詮、元気がないぞ」

「いやいや先生。元気ですとも」

「そうか?」

 ほんの少しだけ歯切れの悪い道詮を見て、僅かな引っ掛かりを覚えたものの、今は舟遊びだとばかりに琵琶を引っ掴み、手数ばかりの品のない演奏で皆を盛り上げる。上品な演奏も出来るが、下品な演奏もお手の物。

 これぞ越後が生んだ琵琶奏者、長尾虎千代の本領である。

「琵琶でこんなぶち上がるのかよ」

「天才や、天才がここにおる」

 宇佐美、宇佐美の大合唱が駿府の夜に響き渡る。


     ○


 舟遊びを終え、解散した後、虎千代は僧兵を引き連れてのんびりと川べりを歩いていた。油断していたわけではない。ただ、一向宗と今川が対立するのは考え辛く、何か手を打つにしても裏で、自分を切り離すための工作から打ってくると思っていた。ゆえに仏ではなく、宇佐美の信者を作って根を張っている最中だったのだ。

 虎千代はため息をつき、借りてきた琵琶をその辺に放る。

「…………」

 先んじられていた。その考えもあったが――

「……先生。こやつら」

「ああ。今川の兵にしては少々、品が無いのぉ」

 おそらく今、自分たちを取り囲んでいる者たちは今川の手の者ではない。夜闇に紛れ、見え辛いが装備に統一感がなく、動きも統制が取れていない。今川がお膝元である駿府で買っている戦力がこの程度では、名が廃ると言うもの。

 ゆえに今川の線は無い。

「俺が誰だかわかってんのか、アア?」

「……狐面、宇佐美新兵衛に相違ない」

「わかってんのかぁ」

 今川でないとすれば、今まで勝利し毟り取ってきた相手、辺りであろうか。彼らが結集して自分へ復讐しに来た。それであれば筋が通るし、単純な構図である。

 ただその場合、こうやって事前に先回りしているのは少し疑問が残る。確かに目立つような振舞いであったし、捕捉するのは難しくないだろうが、てんでバラバラに解散した集団の中で、自分だけを捉えるのは難しいだろう。

 尾行されていたのであれば、この程度の相手なら気付く。

「人様の庭で好き放題暴れ過ぎたな、宇佐美」

 打ち刀を引き抜く戦意剥き出しの敵を見て、虎千代はため息をつく。どうあれここにいる連中を打ち倒し、囲みを抜けねば活路無し。

「ご安心を、先生」

「我らがおりますゆえ」

「問題ございません」

 屈強なる僧兵たちもまた闘志剥き出しに威嚇する。この時点で彼らが裏切り者の線は消えた。裏切るならばここであろうし、そこまで器用な性質でないことは知っている。少し不器用で、素直で、それでいて強いのを選んでいたから。

「宇佐美、覚悟ォ!」

 合図を待たずして突出してきた敵に、僧兵たちが対応しようとするが――

「悪いな、わざわざ」

 虎千代も突出し、僧兵たちを驚かせる。敵もその動きには驚いたようで、僅かに揺らいだところを素早く動き、相手の手首を掴んだ。刃物を前に、無手の人間が何の躊躇もなく掴みに行く。その手慣れた動きからの、

「武器をくれるなんて」

 手首を捻り上げ、刀奪取。そのまま奪った刀で首を刎ねる。あまりの手際に敵味方とも驚愕した。首を刎ねると容易く言うが、その辺の使い手では出来ぬ絶技である。普通は地面に押さえ込み、テコの原理などを利用し数手かけて断つもの。

「優しいねェ」

 それをこの男は一手であっさりとやってのける。

「俺を守る必要はない。背中合わせでやるぞ」

「承知!」

 忘れてはならぬが、この男は元服前とはいえ越後随一の剣豪でもある大熊に鍛え上げられた男である。復讐のため牙を磨き続けてきた飯沼の亡霊を喰らい、数多くの野盗を斬り殺してきた戦闘の天才。

 忘れてはならぬ。多芸で多彩な男だが、その本質は『ここ』にある。

 長尾虎千代の本分は、『ここ』に、戦場にこそ、あるのだ。

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