第参拾弐話:サシでの勝負
宇佐美新兵衛、長尾虎千代の偽名は駿府中に広まった。碁が強い、だけではなく運勝負でも力を示し、相手から宣言通りケツの毛まで毟り取った。
一向宗の組織力を背景に躍進する新進気鋭の怪物。本来裏の人物ならば表側に姿を見せないものだが、この男は堂々と昼間から賭場に入り浸る。
今も――
「勝てェ! 死ぬ気で戦えェ!」
闘鶏に賭けながら叫び散らしていた。
これがまた不思議なもので、
「畜生! 『また』負けたァ!」
昼間の彼は明らかに負け越していた。夜の、裏の分の帳尻を合わせるが如く。ほとんど運勝負しかしないから、と言う側面もあるのだが――
「先生、負け過ぎです!」
「一旦寺に戻りましょう!」
もはや己の手駒と化した僧兵たちが苦言を呈するぐらいには、怒涛の負けを喫していた。この男、勝ち過ぎて運が尽きたのでは、そう思う者も出て来るぐらい昼間負け続け――夜の勝負が成立し、圧倒する。
別人説、イカサマ説、一番オカルトなのが運を操れる説。いずれも荒唐無稽ではあるが、もはや戦績が常軌を逸しているため仕方がない。
味方である彼らが一番理解出来ないでいたのだ。
「馬鹿野郎! 俺は勝つぞ!」
こう言ってムキになり、どんどん銭を失っていく様は、典型的な博打打ち、破産する者のそれである。しかし、夜は別人のように勝つのだから不思議なのだ。
「……あのクソ鶏、焼き鳥にすんぞオラァ!」
「「…………」」
とても昼夜で同一人物には見えない。
「丁半やってこうぜ」
「もうやめましょう。銭の無駄ですよ」
「そうですよ。宇佐美殿」
彼らの言うことに耳を貸さず、虎千代はズンズンと賭場を移動する。最近、賭博の王者盤双六の勢いを上回るほどに人気なのが、丁半などでお馴染みのサイコロ賭博であった。普及の理由は何よりも簡単であることに尽きる。
盤双六などはそれなりに大きな道具が必要なのに対し、サイコロはそれこそ賽一つで賭け事を成立させることもできる。最も原始的な賽の目を当てる、これだけ単純な賭博であれば戦場でも出来るため、乱世の娯楽としては確かに強いだろう。
荒れた時代、これが追い風となりサイコロ賭博は勢力を拡大していた。
そんなこんなで虎千代らは熱い賭博が繰り広げられているであろう場所にやって来た。普段は熱気が渦巻いている場所なのだが――
「ん?」
何故か今、賭場は静まり返っていた。
「おお。銭回りの良さそうな童が来たぞォ。おい小僧、俺様に銭を貸せ。倍にして返してやる。ばはははは!」
その理由は今大声で虎千代に呼びかけた男なのだろう。虎千代は狐のお面の下で顔を歪める。何故、この男がここにいるのか、何故、ふんどし一丁なのか、何故、いきなり現れた見知らぬはずの相手に銭の無心をするのか。
「機を逸するかァ?」
ふんどし一丁、と言うことはここまで大負けしているのだろう。それなのにこの男は一切悪びれることなく、堂々と次は勝つ、と言い切っているのだ。自分が負けるなど露とも思っていない。自信に満ち溢れた雰囲気。
これでふんどし一丁でなければ格好良いのだろうが――
「まあ、それも良し。では、さらば――」
「銭は貸す」
虎千代は男の前に銭の束、百文分を放り投げる。
「……おン?」
「ただし――」
どさりと虎千代はその男の隣に座る。
「サシでやろう」
「……小僧、誰に売ってんのか、わかってんのか?」
「息子に甲斐から追放された男」
「ばはッ! おう、良い度胸だ。久しぶりに、気持ちの良い売りっぷり。この俺を相手に久しくいなかったが、よかろう」
男もまた、上げかけた腰を下ろす。
「買ってやる」
空気が、突如、重みを増す。急にこの場の多くが居心地の悪さを覚えた。それが何故なのか、凡庸なる者たちには及びもつかない。
だが――
「小僧、名は?」
「宇佐美新兵衛」
「ほお、最近よく聞く名だな。俺様の名は無人斎道有、だ」
出家し武田信虎の名を捨てた男、無人斎道有と長尾虎千代の名を隠す宇佐美新兵衛。片方は翼をもがれ地に落ち、もう片方はまだ飛び立つ前。
されど今は、単なる運勝負。
ここまで負け続けふんどし一丁となった男対闘鶏で負けまくり散財した男。だが、御付きの僧兵たちは目を見張る。昼間、見られなかった夜の貌、勝負所の雰囲気が彼の身から漂い始めたのだ。ただし、もう一人も同様に。
圧が二人分、二倍の、尋常ならざる者たち。
「張った張った!」
ツボ振りが賽を振って、ツボを地面に叩き付ける。
それと同時に二人は――
「「丁」」
全く同じ早さ、タイミングで、言い放つ。
出た目は――ピンゾロの丁。
○
最初は二人の勝負を面白がっていた周囲も、気づけば言葉を失っていた。勝負が始まってからこの二人、ただの一度も負けていないのだ。
負けに負け、ふんどし一丁になった男が、闘鶏でドツボにハマりボロ負けしてきた男が、五分の運勝負をここまで一度も落としていない。
無人斎道有は服を取り戻した後も荒稼ぎし、宇佐美新兵衛もまた勝ち続ける。もはやその業、人にあらず。
面白がって張り合っていた者たちはもう、誰一人逆に張ろうともしなかった。それどころか勝負を遠巻きに眺め、割って入ろうとすらしなくなる。勝負が成立し辛くなるも、賭場を管理する強面連中ですら口を挟めぬほど、今の二人は神がかっている。
「「丁」」
「……不成立になります」
賭けるのは二人だけ。それを他の者が遠巻きに眺める。異様な光景であろう。こんな光景、この賭場始まって以来一度としてなかった。
そもそもこうして丁半が偏り過ぎて勝負が不成立になることだって、ほとんどないのだ。何しろこの賭け事はツボ振りがイカサマでもせぬ限り、混じりっけなしに五分五分の賭け。偏れば大勝出来るため、偏ることがほとんどない。
丁に偏れば半に賭ける。当たり前のこと。
「……シニの丁、嘘だろ」
「また、当てやがった」
「人間じゃねえ」
だが今は、ほぼ確実に当ててしまう二人がいる。これでは賭けにならない。実際、ここ数回張る者がおらず、勝負自体が成立していなかった。
それでも振られた賽は開示され、誰もが絶句する。
「小僧、随分太いもん持ってんじゃねえか。驚いたぜ」
「……そっくりそのまま返すよ、おっさん」
「ばは、生意気な」
僧兵たちもまた驚く。昼に宇佐美が本領を発揮したこともそうだが、それと張り合える人間がいるなどと、彼らは考えていなかったのだ。
しかし、考えればそれも当然のこと。荒れに荒れた甲斐を力でねじ伏せ、まとめ上げた男なのだ。昼間から賭場で酒を呷り、大負けしてふんどし一丁になろうとも、勝つべく時には勝つ。牙はまだ、萎えていない。
「良いことを教えてやる、小僧」
無人斎道有は嗤う。
「勝負事で名を馳せる奴ってのは、ここぞって時に勝つんだ。勝つべき時に勝つ。智略だとか、戦術だとか、んなもん関係ねえ。力ずくで勝利を引き寄せ、勝つ。それが戦場の腕力ってもんだ。運ってのは、力に引き寄せられる」
虎千代の背筋が凍る。腹の底がきゅう、と冷え込む。隣の男が大きく見えてくる。その横顔はどこか父と被る。『力』で越後をねじ伏せた男と同じように甲斐をねじ伏せた男、被って見えるのも仕方がないかもしれない。
決して顔立ちが似ているわけではないのだが――
「それが勝負の世界」
嗤いが、深まる。
ツボが床に置かれた瞬間、
「丁」「半」
とうとう丁半、割れた。これでどちらかが確実に負ける。無人斎道有か、宇佐美新兵衛か、誰もが固唾を飲んでそのツボが、開示されるのを待つ。
丁ならば宇佐美新兵衛。
半ならば無人斎道有。
結果は――
「ロクゾロの丁!」
「っ」
宇佐美新兵衛、もとい長尾虎千代が、勝る。だが、勝った虎千代が一番驚いていた。刺される、何処かそんな思いが過ぎっていたのだ。
牙が、臓腑に突き立つような、そんな感覚が。
「今の俺じゃあ、まあ、こんなもんか。見事引き寄せたじゃねえか、小僧」
「……あ、ああ」
無人斎道有は虎千代の肩を抱き、
「気に入ったぞ、小僧。一杯奢れ。この俺様のありがたい話を聞かせてやろう」
まさかの酒を奢れ、と宣う。服は取り返したが、虎千代からの借銭は返しておらず、今の一戦で全部すったはず。本来なら奢るではなく、まず銭を返してもらうため取り立てるのが筋なのだが、虎千代は――
「……悪酔いしないならな」
何故かその申し出を受けてしまった。
「馬鹿野郎。俺様を誰だと思っていやがる」
嬉しそうに相好を崩し、そのまま拉致するかのように虎千代を抱え、去っていく無人斎道有。怪物二人の歩みを遮る者は、誰もいなかった。
○
無人斎道有が虎千代を連れてきたのは駿府にあるとは思えない寂れた店だった。色々歩き回った虎千代でも知らぬ通り、店。
よくもまあこんな穴場を知っているものだ、と思った。
「駿府はどうも眩し過ぎる。どこもかしこも、昼も夜すらも、ギラギラ輝いて目を焼く。俺は甲斐のクソ田舎出身だからな、どうにも水に合わん」
「だから、ここなのか」
「そうだ。まあ、こういう場所もあの男が上に立った以上、いずれ消え行く定めなんだろうがな。そういう無常も、心地よいのだ、今の俺には」
酒を呷り、ご機嫌な様子の道有。
「歳は?」
「十二だ」
「元服前、可愛げが無くなる時期だな。まあ、その歳にしては背が高いし、身体もそこそこ出来つつある。強くなるぜ、小僧は。嫌でもな」
「嫌でも?」
「そりゃあ楽しいことばかりじゃねえ。強くなればなるほど、勝ち続ければ勝ち続けるほど、力がつけばつくほどに、人は自由を失う。挑戦している間はな、それに気づかねえんだ。楽しくてよ、気にもならねえ。でもな、敵がいなくなると、壁がなくなると、急に不自由が押し寄せてきやがる。楽しくねえのさ」
ぐびっと一気に木杯を飲み干し、道有は店主におかわりを貰う。
「ま、敵は大きいもんを想定しておけ。俺は甲斐統一を大目標にしていたが、今思えば小せえ小せえ。その先が想像出来なかったから、楽しくなくなったし、力も衰え、あげくは息子に追放されちまったわけだ。大事だぜ、目標はァ」
そう言いつつも悲壮感を感じさせぬ振舞い。彼自身はどこかやり切ったと思っているのだろう。実際に彼は大目標である甲斐統一を成した。
それは決して色褪せるものではない。
実際、それが出来ずに国が割れる状況は、全国津々浦々にあるのだ。
「ちなみに、全盛期の俺様ならば今日の勝負、絶対に負けなかったぜ。まだ、未完成の小僧に負けるほど、俺の引きは細くねえ」
負け惜しみ、と虎千代は思わない。実際に今日の一戦、いつものような完勝ではなかった。紙一重、そういう勝負であったのだ。
追放され、出家した相手に、である。
「なあ、おっさん。一つ聞いていいか?」
「おう。聞け聞け」
「なんで、嫡男ではなく、弟を推したんだ?」
虎千代が少しだけ聞いてみたかったことである。何故彼が嫡男ではなく角が立つと理解した上で、その弟を推したのか。
家督争いの恐ろしさは、彼が一番わかっているだろうに。
「勘だ」
「……え? それだけ?」
「おう」
信じ難い返答に、虎千代は絶句する。
「甲斐ってのは、まあクソみたいな土地だ。貧しくて仕方がねえ。そこでやりくりするのはきついし、土地の者を食わせようと思えば外に出るしかねえ。その点だけ見れば太郎は適役だ。今は老いた俺よりも弱いが、あれは負ける度に強くなる性質。いずれは俺を超えるだろうよ。次郎は、戦で俺を超えることはあるまい」
「なら、嫡男太郎を推すべきだろう?」
「だが、強過ぎるってのも考え物でな。敵も多くなる。北条や今川、信濃はまあ、いずれ太郎が喰らい、そうすりゃ長尾にも接する」
長尾の名に虎千代は反応を見せぬよう自己を律する。
「そんな時に、果たして甲斐が強くなって良いのか、って思ったわけだ。どれだけ強くてもな、甲斐の土地は豊かじゃない。長い戦いになれば、大きな戦いになれば必然、甲斐武田は嫌でも不利を背負うことになる。ならば、初めから力ではなく世渡りで生き延びる道を選ぶのも悪くねえかな、と思った」
考えて、考え尽くして、その上で彼は嫡男ではなく弟を推した。確かに勘と言えばそうであるが、決して何の根拠もない話ではない。
直に今川と、北条と、触れた感覚として武田信虎はそう判断したのだ。
それはまあ、虎千代にも理解できる。この旅で彼は北条を知った。今川も勉強中だが難物なのは見ただけでわかる。その上信濃を取れば越後に、長尾に届く。
確かに難しい土地だろう。とにかく貧しさが足を引っ張っている。
「そこに感情は無い、と?」
「ない。そりゃあな、次郎の方が可愛げがある。ありゃあ人たらしだ。でもなあ、太郎はクソ生意気な野郎だが、似てやがるんだ、俺様とな。眉毛なんざクソ似てる。可愛くねえわけがねえ。本当に、チビの頃から生意気でよォ」
またもぐびっと酒を呷る道有。自分を追放した息子のことを語るのに、心底嬉しそうな笑みを浮かべて、噛み締めるようにつぶやく。
「だからこそ、特別きつく当たった。あれが敗北で、反骨心で伸びるのはガキの時点で何となくわかっていたからな。何度も踏みつけてやったぜ。その度に奴は俺のことが大嫌いに成って、くく、最後はきっちり引導を渡してきた」
息子の復讐、それで立場を追われたのに――
「子の成長をな、嬉しく思わん親はいねえ」
その言葉はジワリ、と虎千代の胸を刺す。
「それはおっさんだけだろ。俺は父と、まともに会話したこともない」
「俺は小僧の父を知らん。出自も、知らん。だがな、俺が父でもぬしの扱いには細心の注意を払うだろうよ。嫡男であっても、そうでなければなおのこと」
「何故、そうなる? 嫡男ではない! 野心もない! 兄弟の仲だって、良いはずだ。憂うことなど、何も――」
「周りが放っておかん。強さは、力は、多くを引き寄せる。人もまた、そうだ。太郎と次郎、甲乙付け難い選択肢であればまだしも……そうでないのならば、誰が決めたところで必ずや、引き寄せられた者が、ぬしを引き立てようとする」
「俺は、ただ――」
ほんの少しだけ垣間見せる、年相応の脆さ。
それを見て道有は静かにその手を、虎千代の頭に置き。力ずくでぐしゃぐしゃとかき回す。突然のことに目を白黒させる虎千代。
「それでもな、それでも、ぬしを殺せなかった。最も容易く、状況を整理できる手を打てなかった。その理由を少し、考えてみると良い」
もし、本当に虎千代が家のために邪魔であれば、情の欠片もない人物であれば果たして虎千代を生かし続けるだろうか。あれだけ徹底的に、合理を以て越後を征した男が、息子一人の処遇に中途半端な手を打つだろうか。
今まで目を背けてきた、非合理な自分の状況。
それは父の惑い、合理と情の間で揺れているのではないか、と道有は言っているのだ。彼は自分が長尾虎千代だとは知らない。父が長尾為景であることも知らない。だから、この会話は無意味ではある。ここに真実を知る者がいないから。
真実は――父に聞かねばわからない。だけど――
「俺ならば殺す、と言いたい所なのだがな。ばは、結局は俺も迷い、選択を委ねた者。惑い、悩み、過ちを犯すことも、あるやもしれん」
それでも男のまとい持つ雰囲気が少しだけ父に被り、その口から言われると自然とそんな気がしてきてしまう。誰からも愛されていないと思っていたのに、ほんの少しか細い可能性が見えただけで揺らぐ、己の弱さを知る。
結局のところ自分は父に――
「ばはは、まあ、機会があればぶつかってみるのも一興だ。それはそれでな、親冥利に尽きることでもある。試してみろ」
「……気が向いたらな」
「ばはっ! 素直でないのォ。店主、小僧の分も酒を出せィ」
「俺は飲まんぞ!」
「堅いこと言うな。俺の酒だ。ぐいっと飲め!」
「そもそも全部俺の銭だ!」
「男が細かいことを抜かすな! ほれ、飲め飲め」
「酒なんて不味い! まず、ま……あれ?」
抗うことを良しとせず、無事道有の酒を飲まされた虎千代。ここで飲んだ酒が意外と美味しくて、この先ハマることになる。
酒豪上杉謙信の原体験、であった。
ちなみに未成年の飲酒が禁じられるのは大正時代、と遥か先のことである。それまでは特に禁じる規則もないため、未成年飲酒は問題ないのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます