第拾弐話:剣聖と龍

「上泉の。あの娘、どう思った?」

 長野業正と上泉秀綱は対面し足を崩して酒を酌み交わしていた。

「大変整った顔立ち、かと」

「そうだ。私の娘たちに勝るとも劣らん。いや、親の欲目だな、あの娘が勝っているだろう。それこそ千葉の娘ぐらいか。あれにもう少し家格があればな」

「ああ、遠い親戚でしたか」

「繋がっているかもわからぬ程遠いが。だが、あの家も総じて顔が良い。利用価値があると踏んで血縁であると触れ回ったのだ。実際に幾人か、上手く使わせてもらったからな。どんな縁も使いよう、と言うことだ」

「こわやこわや」

 歳は一回り離れた二人であったが、昔から似たところがなかったため、逆に気兼ねのせぬ友人として語り合う仲であった。片方は豪族を取りまとめる集団の長として、もう片方は剣のみを志すただ一人の個として。

「為景の娘を、北条に。とも思ったが、自身の地盤が揺らいでいる最中、そのような博打を打つほど阿呆でもないだろう。それならば荒れる国衆辺りにでも嫁がせ、少しでも事態の鎮静化を図るはず。普通ならば、な」

「……何を危惧されているのですか?」

「長尾家の後継者が普通ではなかった場合、だ。正気の沙汰ではない立ち回りをして我々の思惑を飛び越えて来る輩が稀にいる。長尾晴景、もしその手の類であれば北条と与するもありえなくもない、と思ったのだ。何せあの家には、関東でこき使われたあげく、軽んじられた過去がある。伊達家とのゴタゴタも、上杉を立てる理由を消してしまえばそれで済む話。上州を北条と分け合い、その分を国衆にくれてやれば嫌でも団結する。それが武士だ。如何なる建前も目先の利益の前では無力」

「北条も今や関東管領、山内上杉家を消しても正常化するだけ、ですか」

 全ては今の関東管領である山内上杉と古河公方の対立に起因する。ここが今の関東における急所、であるのだ。そして今、越後上杉を傀儡としていたがために身動きが取れぬ長尾家の現状を打破するため、古河公方と言う錦の御旗を北条と共に掲げ、山内上杉を破れば必然、その影響力は地に落ちる。頃合いを見て扇谷上杉を除き、後継者がいないことで問題となっている越後上杉も、逆にその状況を使えば廃絶も容易。夢物語ではある。これらは長野業正の妄想でしかない。

 だが、それらを無いと言い切れるほど、彼は楽観的ではなかった。ここ五十年ほどの関東だけをくり抜いても、あり得ぬことなど山のように起きているのだから。

「ああ。とは言え、我らには何も出来ん。北条の動きを注視し、動きがないか見守る程度しか。歯がゆいが、早合点してケチがつくのも間抜けな話。しかし、あの娘、其の方のように押しても引いても揺らがぬな。男であれば優秀な将となったであろうに、実に惜しい。そうでなくとも娘に欲しいな。あの器量であれば――」

「高く売れる、と」

「家格はあればあるほど良い。繋がりの多さは強さだ。今の長野ならば、以前よりも高い家格にも手が届くだろう。そこに娘を差し込めば、より高みへ行ける」

「その先には何がありますか?」

「家の繁栄、それ以外何がある? それが武士の、男の仕事であろうが」

「拙者とは相容れませぬな」

「だから私は其の方と友人でいられるのだ」

「ですな」

 そう言って上泉は立ち上がる。

「いつものか?」

「ええ、少し部屋をお借りいたしますね」

「構わん。そのための部屋だ。私はもう寝るとしよう」

「承知しました。ああ、それと、おそらく長野殿の心配は杞憂かと思いますよ」

「何故?」

「拙者の勘です。これがまた、意外と当たるのですよ」

「……あいわかった」

 そう言って上泉は業正の部屋を出る。友人の言葉を咀嚼しながら、業正は嗤った。理由はわからぬが、あの男が杞憂と言えばそんな気がしてしまう。

 そんな不確定なものを信じてしまう己に嗤ってしまったのだ。


     ○


 夜中、虎千代は音もなく立ち上がる。

「……どうした?」

「厠だ。女人に対し、失礼な坊主だな」

「気を付けるのだぞ」

「わかっておる。俺を誰だと心得ている」

 部屋から出て行く虎千代の気配を背中に感じながら、覚明は目を瞑る。厠です、を信ずるわけではないが、思慮の深さは先ほど充分理解させられた。ならば下手なことはしないだろうと信じよう。少しばかり、胃は痛むが。


     ○


 虎千代は音もなく廊下を歩む。昔、寺の坊主に気付かれずに夜中悪戯をしてやろうと抜き足差し足を体得したことが功を奏した。あの時は天室光育相手に不覚を取ったが、今日はどうやらただ一人を除いて問題なかったようである。

 そのただ一人が、この部屋にいる。

 虎千代は静かに臥間を開けた。そこには壮年の男が神仏に祈るかのように正座をしていた。何者かが入って来たというのに、小動もせずただそこに在る。

「……ここまでの間、誰にも看破されなかったのだがな」

「姿かたちは変えられても、骨組みまでは変えられませんから」

「なるほどな。何故、業正に伝えぬ?」

「直接の主君ではないですし、害意を持たぬ相手を貶める意味もないでしょう。場が荒れるだけ。伝える行動に意味がありません」

「なるほどな。いつだ?」

「すれ違った時に」

「くは、面白いのお。少し、話せるか?」

「話す、で宜しいのですか?」

 静かなる殺気、まるで首筋に刀が添えられているような、そんな気配がした。この時間帯、誰の邪魔も入らぬ空間、ここでしか出来ぬ会話もあろう。

 虎千代は足を崩して対峙する。静かで、何があっても動じることなく、自分の中を覗き続けていた男。長野業正のそれとは違う。確信を以てこの男は自分を覗いていたのだ。自分の中にいる虎を、その奥に潜む――剣豪の影を。

 長尾虎千代と上泉秀綱、方向性の異なる怪物が相まみえる。

 暗がりの部屋、床には幾重にも擦った後が見受けられた。おそらくこの部屋は剣の修練などで用いているのだろう。庭先でやればいいだろうに、と何も知らぬ虎千代などは考えてしまう。

「……長野殿はあまり人に修練している所を見せたがらぬのです。まあ、近頃は剣とも距離を置いているので、専ら拙者のような好き者が訪れた際、開放して下さっています。この少し手狭な感じが、拙者は気に入っているのです」

「……まるで俺の思考を読んだかのようだな」

「聞きたそうな顔をされていましたので。違いましたかな?」

「違わん」

 足を崩した虎千代とは対照的に、上泉の姿勢は一本芯が入っているかのように天を衝く。この時代、正座など神仏に祈る際、もしくは帝や将軍など相手に平伏する時にしか用いられていなかった。それなのに彼は正座を続ける。

 まるで眼前に貴ぶべき何かが在るかのように。

「そこの壁にかかっておる珍妙な棒切れはなんだ?」

「おお、良い所に目が付きますな。あれに見えるは袋竹刀と言って、拙者が考案した修練の道具です。竹と革を用いることで衝撃を軽減し、怪我を防止します」

「ふは、随分温いな。そんな棒切れを振るって何の修練になる? 剣とは断ち切るものだ。木刀ですら生温いと言うに、さらに優しくしては育つ者も育たぬ」

 壁に掛けられた袋竹刀、その柔い形状を見て虎千代は顔をしかめる。実戦の空気、刃金の衝突、命のやり取りにこそ闘争の神髄はあると虎千代は思っていた。だからこそ、彼の中でそんなものは論じるに値しない、論外と言うことになる。

 だが、眼前の男は――

「戦場であればその理、正しいかもしれません。ですが、純粋なる剣の道において、危険度と言うのは何の意味もないどころか、不純物であると拙者は思うのです」

 虎千代の理を否定する。

「剣の理、人を殺すための道具をどう使うか、それが剣の道であろうに。その中に在って殺し合いが不純物とは、寝言としか思えぬ」

「殺すことが目的であれば剣である必要はないでしょう?」

「ああ、槍でも弓でも構わぬな」

「拙者にとって剣とはそれらとは違うのです。殺すために極めるのではなく、剣そのものを極めたい。ゆえに生死に意味はありません。真剣でも、木刀でも、そこの袋竹刀でも、棒切れでも、いや、何も持たずとも――」

 上泉秀綱の全身より、何かが膨れ上がる。

「そこに剣が在るとすれば、良い」

 刃金が、それを握る男が、上泉秀綱が、見える。穏やかなれど殺意を眼に宿し、すう、と太刀を垂らすような力のない構えを取った。

 殺される、そう思った瞬間、虎千代もまた剣を引き抜く。肩に太刀を担ぎ、全身で突っ込むように飛び掛かる。全身全霊、太刀の重さと自分の体重、そこに突進の勢いも交え強力無比な袈裟切りを見舞う。

 だが、ひらりと半歩、相手が足を引くだけで渾身の一撃はかわされてしまう。驚く間もなく、虎千代の首が舞う。幾度も、幾度も、まるで赤子でもあやすかのように自分が殺されていく。打つ手がない。差が大き過ぎる。

 これが上泉武蔵守秀綱。関東でも名高き剣豪が一人。

 虎千代は汗を滴らせ、乾いた笑みを浮かべていた。

「……都合十度、俺は死んだな」

 実際に殺し合ったわけではない。あくまで頭の中で切り結んだだけ。それでも虎千代は確信を以て首を撫でていた。結果は、十度重ねたものと変わらぬ、と。

「素晴らしい剣才。何処の貴人かは存じませぬが、その歳ですでに随分と戦いを経験しておられるようですね。少々驚いております」

「ふん、これほど無様に敗れ去ったのに、か?」

「そもそもこうして無手で、戦いが成立する相手自体がそうおらぬのです。どれだけ殺気をぶつけたところで、感じ入ることの出来ぬ者相手では意味が無い。才無き者は生涯を賭してなお、御前の境地にすら達すること能わず、ですな」

「ふは、手厳しい。ああ、そう言うことか。どうも其の方の人物像とその棒切れ、重ならぬと思っていたが、思い違いであったな。優しさではなく、厳しさで出来ているのか。痛み、死、それらの不純物を排したモノ」

「おや、わかりますか」

「剣の道にとって得物などはどうでも良い。真剣を振るって強き者ではなく、棒切れでも強き者、純粋に剣才のみを計るための道具を拵えたわけだな」

「ははは、殺すのが上手い者と剣が巧い者は、存外重ならぬものですから。拙者はこうして剣のみを握り、向かい合えばそれなりの自信はありますが。では戦働きはと言うと、そこそこ止まり。将としての才は皆無ゆえ、上泉の名すら重いのです」

「……其の方にとって戦場は息苦しい、か」

「ええ。剣よりも槍、槍よりも弓、もっと言えば、人を使う者が一番強い、それが戦場。別に拙者が活躍できぬゆえ、忌避しているわけではないのですが」

「わかっておる。人には向き不向きがあろう。ふん、俺は其の方に会えてよかったのだろうな。今日限り、俺が剣豪の夢を見ることは無かろうよ」

「それは実に勿体無い。才はありますよ」

「だが、其の方には勝てんだろう? この時点で頂点はない。まあ、まだ元服前、戦場で俺がどれだけ輝けるかは知らぬが、そっちは今のところ――」

「山巓が見えますか。末恐ろしい」

「くく、幻覚でないことを祈るがな。実に面白い出会いであった。剣豪の望む時代に戦争がないとは、俺の知見にはなかったものだ。感謝する」

「いえいえ。それでもこの世に戦はあり、流れ矢飛び交う戦場に身を置くのもまた武士の宿命。あくまでそれは拙者の我儘です」

「我儘で何が悪い。才人が我を通せぬことこそが不条理なのだ。くだらぬ武士の理とやらで、剣の理が折れてやる必要など無かろう」

 上泉秀綱はここで初めて、揺らいだ。考えたことのない発想、武士の理を捨て、剣のみに生きる道。それのどれほど幸せなことか。

 自由への道筋、ほんの少しだけ、見えた気がした。

「剣豪は安寧の世を望む、か。もしかするとあやつも、同じような窮屈さを覚えているのやもしれぬな。自分の才能と現状の相違に」

「あやつ?」

「俺の知る限り、其の方が最強だ。俺では生涯賭して届くまい。だが、其の方に届き得る男を、俺は一人だけ知っておる」

「……ほう」

 上泉の眼が僅かに輝きを見せる。

「其の方が、あれが、互いに我を通さば、いずれまみえよう」

「……では、名は聞かずに置きましょう。御前の目利き、よもや的外れにはなりますまい。ならば、研鑽し、研ぎ澄まし、高みにて待つだけのこと」

「ふはは、その一戦、是非俺も見たいものだ」

 そう言って虎千代は部屋から出て行った。その後ろ姿を見送り、上泉秀綱は静かに息を吐く。じとりと滲む掌を見て、

「……虎と思っていましたが、龍かもしれませんね」

 怪物の片鱗が後に剣聖をと呼ばれる男の眼を焼く。彼が自身を見て剣を諦めたのと同じように、上泉の中に残っていた僅かばかりの武士、戦場で生きねばならぬ責務に似た執着も、喰われて消えたような気がするのだ。

 大器、如何なる御仁かは知らぬが、

「未だ、未熟」

 対峙し、揺れずに座すをこれほど難儀と思ったことは、無い。


     ○


 虎千代は音もなく部屋に戻るが、

「厠にしては遅かったな」

 きっちり起きていた覚明の心配性に苦笑する。

「大便だ。特大のな」

「それにしても遅かっただろうに」

「俺の便は長い。ぬしが一番知っているだろう。難儀な相手であった。力を入れれば入れるほどに、遠ざかっていく感覚は、初めてであったな」

「……何もなかったんだな?」

「おう。俺は寝るぞ」

 布団に入り込み、秒速で寝息を立てる虎千代。心配して起き続けてきた覚明を置き去りにする速度であった。何を言っても真実を語ろうとはしないだろうし、この子が何もないと言い切る以上、さらに問い詰める必要もない。

 だが――

(……眠れん)

 ずっと気を張っていたためか、睡魔の足音すら聞こえない状況に覚明は危機感を覚えていた。これ、眠れないんじゃ、と愕然としてしまう。

 これより覚明による長い戦いが始まる。


     ○


 覚明が欠伸を気合で噛み殺す様を見て、本来ケタケタ笑いたいところを人目があるためニヤリと微笑むだけに留める虎千代。覚明だけは即座に気付くも、これまた人目があるため何も言えず、沈黙を貫くのみ。

「もう二、三日泊まっていって欲しかったのですが。さすがは元指南役、教えるのが匠ですし、私の腕前も昨日一日だけで随分上がった気がしますよ」

「恐縮です。とは言え腕前に関しては長野殿の感性が素晴らしかっただけのこと。拙僧など大したことはしてませぬ」

 覚明と語り合うは長野業正。門前に見送りまで来てくれるのだから、やはり身軽であり笑顔絶やさぬ貌はまさにいち国衆、と言ったところか。

「あはは、持ち上げてくださいますな。では、こちらを。餞別と言うには大したものではありませぬが、一筆したためさせていただきました。まあ、私の縁者程度にしか使えませぬが、ここから南下する際、いくつかの城で使って頂ければ、と」

「かたじけない。使わせて頂きます」

「是非」

 手紙を受け取り、覚明は頭を下げる。

「それではこの辺りで失礼させて頂きます」

「旅の無事を祈っております。おとら殿もお元気で」

「この御恩、生涯忘れませぬ」

「あはは、硬くなさらずに。ではでは、よい旅を」

 長野は上泉共々、笑顔で二人の旅路を見送る。その貌には人好きのする笑みが張り付いており、底など見える気配も無い。

 少し離れたところで虎千代は口を開く。

「くく、業正め。面白い男だな」

「……ご丁寧に簡単な道案内まで頂いてしまったからな」

「俺たちが縁者を避ければ怪しまれ、彼らのところで襤褸でも出そうものならば、すぐに業正に伝わる、と。これで紐付きとなったわけだ。最後の最後までそつのない男だ。まさに狸も狸、大狸よ」

「しばらくは気が抜けぬな」

「案ずるな。ぬしはともかく俺が襤褸など出すかよ」

「……まったく、この小僧は」

 激動の関東を潜り抜け、這い上がった国衆が一人、長野業正。傑物かどうかはともかく、一筋縄ではいかぬ人物なのは間違いないだろう。

 関東と越後、決して遠くない関係である以上、いずれまみえる可能性もあるかもしれない。まあ、そう成った時は越後か関東、大いに荒れているのだろうが。

「まあ、よい出会いだった」

「そうなのか?」

「ああ」

 長野業正の背後で微笑む上泉秀綱。ただ立っているだけでも一本芯が入ったように見える姿は、虎千代の眼にしかと焼き付いていた。

 あれが山巓、何となくそう思う。そしていずれは――

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