第拾話:柳、そよぐ

 箕輪城、上野国の豪族である長野氏が治め、関東管領山内上杉家の勢力に属する。この城自体は比較的最近に出来たものであり、市も活気がある。このことはまさに治める者、長野氏の隆盛を物語っていた。

 現当主長野業正は子だくさんであり、十二人の娘を設け、それぞれ上野の有力者に嫁がせることで血縁を固め、上野内での地位を引き上げていた。周囲の小豪族、国衆をまとめ上げ、そんな彼らを人は箕輪衆と呼ぶ。

 元々、それほど影響力を持っていなかった長野氏であったが、父の代、業正の代で大きく躍進し、歴史ある白井・総社長尾氏を押さえ、上野でも有数の実力者となっていた。ちなみに上杉、長尾の名は諸氏も含めれば途方もない数がいる。ゆえに越後上杉や山内上杉、など地名などで区別するしかないのだ。ルーツは同じ。でも基本的にあまり仲は良くない。ゆえに関東は荒れ、北条に付け入る隙を与えた。

 まあ、親戚同士が争うことは珍しくないため、上杉、長尾らが特別腐っていたわけではない。歴史ある家は大体皆脛に傷を持つものなのだ。

 そんなこんなで――

「ほほう、あの建仁寺で修行されて……今は天室光育和尚の下で、ははぁ」

「いえいえ、拙僧など大したものではございませぬ。良い環境に恵まれただけのこと、全ては御仏のお導きのおかげでございます」

「謙遜なさらずに。ゆっくりしていってください。京の都と名高き春日山より来られたのであれば、この辺りなぞ見劣りするやもしれませぬが」

「とんでもない。素晴らしい城ですな、箕輪城は」

「大したことありませぬよ、はっはっは」

「はっはっは」

 世辞の投げ合い、後ろで大人しく女人を演じている虎千代は欠伸を全力で噛み殺していた。坊主の会話はとにかく長い、そして意味がない。などと偏見に満ちた想いを胸に、さっさと市の散策がしたいからどっちか話題を切れ、と願っていた。

 こらえ性がないのだ、虎千代は。

「それにしても、美しい女性ですなぁ」

「さる御方に面倒を見て欲しいと頼まれまして……嫁入り前にどうしても熊野を詣でたいと。あまりの信心深さに拙僧も感銘を受け、こうしてともに旅をしているわけです。このご時世、危険ではありますが、そこは拙僧の修行と思えば」

「何と言う……素晴らしい心がけですな」

(この坊主、俺のことをやらしい眼で見ていたな。寺にも当たり外れがあるのお。まあ、俺の魅力がそうさせてしまうのだろう。許せ、生臭坊主ども)

(この小僧、何でちょっと着崩して……坊主を誘惑しようとすなッ!)

「……どうされましたか? お二人で見つめ合って」

「いやいや、少々疲れている様子でしたので、大丈夫かと心配になりまして、あはは。どうやら取り越し苦労のようでしたが」

「やや、これは気が利かず。すぐに部屋を用意させましょう」

「かたじけない」

「ありがとうございます、和尚様」

「いえいえ、これも御仏が結びし縁、と言うことでしょう。気遣いなされずゆっくり体を休めて頂ければ、こうして寺院を構える意義もあるというもの」

 そう言って、さも高尚な雰囲気を出しつつも、

(あー、色っぺえ。覚明殿、絶対破戒してますわ、これ)

 頭の中はそこそこ桃色であった。仕方ないね、坊主も人間だもの。


     ○


 箕輪城下に至り、二日目。虎千代は一人市を散策していた。この時代、寺のある所市があり、とばかりに人々の営みと寺院は密接に絡み合っていたのだ。まあ、ここの場合は寺院と言うよりも箕輪城、もっと言えば板鼻であろうが――

(ふむ、賑やかよのお。さすが山内上杉、と言ったところか)

 食材はもちろんのこと、日用品や趣向品、果ては用途不明のモノまでよろずがずらりと店が並ぶ。板鼻全体を見れば春日山城下など遥かにしのぐだろう。世の中上には上がいる。山内上杉家が治める板鼻城を中心とした支配圏、ここもまた言ってしまえば板鼻なのだ。やはり関東管領山内上杉家は伊達ではない。

 ただ、

(これほどの権勢を誇る連中を蝕む、北条とはどれほどの連中なのだ? 北の入り口でこの規模だぞ、板鼻城下はこんなものではないはず。楽しみよなぁ)

 板鼻の支配圏、これだけの城を抱えている山内上杉家と張り合うもう一つの管領家、北条家。これらを解するにはまだ判断材料が少な過ぎる、と虎千代は考えていた。父は古河公方及び山内上杉・扇谷上杉の失態だと言い、自分が関東にいれば伊勢(北条とする前の名)如き何するものぞ、と息巻いていたのをかすかに覚えている。

 あれはいつ頃の記憶であったか――

『虎千代よ、覚えておけ。関東の連中は盆暗揃いよ。特に上は阿呆ばかり。自らの権勢に胡坐をかき、身内で争っておる内に伊勢如きに付け込まれよった。一番愚かなのは堕ちた堀越公方であるが、それを咎められなかった上杉共も馬鹿、だ』

『バカ! バカ!』

『御屋形様、虎千代にあまり妙な言葉を吹き込まないでください』

『そう怒るな、虎よ。大事なことなのだ。よいな、虎千代。奴らの驕りは教訓となる。権威はの、カタチ無き力だ。信ずる者にとっては、な。だが、信じぬ者にとっては何の力も発揮せぬ。絶対ではない、世に絶対は、ない』

『……?』

『ふはは、こやつめ、阿呆面しよって』

『虎千代に政治など早いですよ』

『政治だけではない。カタチ無きモノは全て同じことよ。いつの世も、信ずる者は弱い。信じさせ、利用する者が強いのだ。神仏とてそうであろうがよ』

『御屋形様、今のは聞き捨てなりませぬよ』

『……ぬ、これだから信心深い者は。虎千代よ、こうなってはいかんぞ』

『虎千代、御屋形様は阿呆なのです。信ずる者は救われる。はい、手を合わせて』

『バカァ』

『ふはは! ほれ見よ、虎千代は本質を解しておるわ!』

『そろそろお仕事に戻ってくださいな。虎千代は私と金津が教育致しますので』

『うるへえ、バーカ!』

『バーカ』

 存在するはずのない記憶、それでも時折ふわりと浮かんでくるのだ。父と母に可愛がられている己の姿を。ただ、それはありえない。

 父は自分を疎んじていたし、母とも滅多に顔を合わせることもない。父ほどに疎んじられているわけでもないだろうが、家族のような距離感ではなく、あくまで長尾家の四男として他と同じように扱われていた。

 長兄と、綾以外には――

(いかんな。要らぬことを思い出してしもうた。折角旅をしておるのだ、楽しいことを考えねばな。しかし、そもそも路銀が少な過ぎてろくな買い物も出来ん。やはりここは俺が一肌脱いで、一丁美声でひと稼ぎしてやろうかの)

 虎千代はぷるぷると頭を振って、頭の中に浮かんだ記憶を振り落とす。必要な情報は、あれだけ関東の(越後もだが)上杉家を虚仮にしていた長尾為景が、伊勢(北条)如きと侮ることはあれど、直接的なダメ出しをしなかった、と言うこと。

 長兄もまた彼らの手腕は見事だと言っていた。伊勢宗瑞(北条早雲)、北条氏綱、ただの二代で余所者が古河公方を抱き込み、本来二つ存在するはずのない関東管領として君臨している。さすがにまだ、上杉には及ぶまいが、それでも勢いはあるのだろう。あの父が苦言を言えぬ程度には。兄を魅了する程度には。

 北条を見たい。それが越中ではなく関東を通る最大の理由であった。

 そんなことを考えながら市をふらふらと回っていると――

「…………」

「…………」

 一人の男とすれ違う。厳密にはその男は一人ではなく何人かを引き連れていたのだが、虎千代にはその者しか目に入らなかった。

 大熊朝秀のような力強さは感じない。もっと言えば力を感じない。それなのに懐が深く、まるで底が見えないのだ。すれ違った瞬間、あまりの未知に対して殺気をこぼしてしまった。それなのにあの男は平然とそれを受け流し、視線すら向けない。

「……何者だ、あの男」

 柳、そよぐ。

「ははぁ、あれほどの美女が箕輪城にいたとは、我々も耄碌したものよ」

「だなぁ。長野氏の娘たちに勝るぞ、あれは」

「どう思われましたか?」

 連れ立った男の一人に問われ、困ったような顔をする男。青年を過ぎ、壮年に至ったばかりの顔つきであるが、武士とは思えぬほど人の好さがにじみ出ていた。だが、この場に、いや、上野国に彼を軽んじる者はいないだろう。

「……ふむ、凶暴な虎、ですかね」

「へ、虎、ですか?」

「ええ、成りたて、ではありますが。受け流すのに骨が折れました」

「は、はあ」

 男の名は上泉秀綱。上杉氏に属する大胡氏に連なる者である。大胡城の支城である上泉城を治める城主でもあるが、それ以上に若くして彼を有名たらしめているのはその剣の腕前にある。此度は知己である長野氏当主に会いに来たのだが――

 秀綱は笑みを浮かべつつ、振り返ることはしなかった。幼くとも血の匂いをさせる虎なれば、目を合わせてしまえばこの剣、果たして抜かずに済むか否か。咄嗟にこそ人の本質は漂うもの。殺気の鋭さ、そこには光るものがあった。

 これが長尾虎千代と後に『剣聖』と謳われる上泉秀綱との邂逅、であった。

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