第捌話:旅立ち

 当主の交代、それと時をほぼ同じくして――

「……参りました」

「よしッ!」

 長尾虎千代、とうとう覚明を置き石なしで打ち破る。約束の時より二年と少し、遊戯とはいえここまでの人生において最も高き壁であったことに間違いはない。そこまで虎千代と言う才能を阻んだ男もまたひとかどの人物ではあるのだろう。

「一目差、執念の勝利か」

「大したものだな、あの覚明殿相手に」

「私などまだ七子置かせて頂いているのですが」

 林泉寺の僧侶たちが見守る中、虎千代は静かに勝利を噛み締める。本当に高き壁を超えた時は沁みるのだな、と少年は笑った。

「約束は果たしてもらうぞ、覚明」

「……わかっている。それにしても、此度もまた勝負所で厠に行ったな」

「便意は意志で捻じ曲げられるものではなかろう」

 言い訳をする虎千代を見て、皆と同じく見物していた光育が、

「虎千代は考えが煮詰まると厠に籠るのですよ。そうすると良い知恵が浮かぶとかで。行儀が悪いのでやめなさい、とは言っているのですがね」

 虎千代の厠癖を暴露する。

「じ、ジジイ! 俺は内緒だと言ったぞ!」

「あっはっは」

「笑って誤魔化すな!」

「いえいえ、まあ、少し寂しくなると思いまして、からかってしまいました」

「む、ふむ、まあそう寂しがるな、ジジイよ。土産の一つぐらい持ってきてやろう。何が欲しい? 水飴か? 肉か?」

「馬鹿者」

 スパン、と虎千代の頭をはたき、笑みを浮かべて、

「土産話だけで十分です。充分に準備して、気を付けて行ってきなさい」

 天室光育は虎千代を送り出すための言葉を述べた。

「ああ。任せておけ!」

 長尾虎千代は笑顔でそう答える。彼はまだ知らない。この天下が如何に乱れ、腐り果てているのかを。彼は越後しか、春日城しか知らぬのだ。

 旅路の果て、彼が何を見て、何を思うか――それはまだ誰も知り得ない。


     ○


「父上が隠居されたのか⁉」

「旅に出るとはどういうことだ⁉」

 父の件を伝え、もう離れにいる必要はないと伝えに晴景は寺に訪れていた。そこで双方衝撃の情報を知る。虎千代はあの父がこんな状況下で退いたことに驚き、兄は弟が突然旅に出ると言い出し困惑するしかない。

 互いに一応経緯をやり取りするが――

「……父上らしくない。病か?」

「詳細はわからぬ。虎千代も知るように、父上は決して弱みを見せぬ。息子である我らとて例外にあらず。それよりも旅は危険だ。認められん」

「兄上ならばわかってくれると思い、打ち明けたのだ。それに今、俺を離れから出すのは良い手とは思えんぞ。伊達との一件、片付くまでは余計な火種など抱える必要はなかろう。尚更、俺は国外にいた方が都合良し、と思うがな」

 晴景は少しだけ考え込む。確かに一理あるのだ。為景の言葉を全て信じるわけではないが、直江実綱が虎千代を気にかけているのは事実である。金津、宇佐美、大熊らの実力者もまた目をかけているのだろう。

 火種とは思いたくはない。だが、今回の件は予想以上に捻じれ続けていた。誰がどう動くのか予想もつかぬ状況で、変な刺激を与えるよりもここにいてもらった方が、何かと気が楽なのは間違いないのだ。

「その覚明と言う僧、信用できるのか?」

「外を知る他の僧の様子を見る限り、それなりに名の知れた僧であったのは間違いない。であれば、だ。父上も言っていただろう? 畿内の高名な僧は信ずるに値せぬが、畿内から去っていった高名な僧は信用できる、と。俺もそう思う」

「まあ、道理ではある。天室光育和尚を林泉寺に招いたのもそれゆえだ。道理は理解した。では、虎千代自身はどう思う?」

「信用しておるよ。旅に関係なく、な」

 真っ直ぐな虎千代の眼を見て、晴景はため息をついた。

「あいわかった。当主としては認め難い話だが、虎千代が言っても聞かぬのは私も理解している。個人的には認めるとしよう」

「感謝する」

 兄と弟は笑い合う。

「ただし、長尾家の子であることは絶対に漏れてはならぬぞ。秘密裏に外へ出した、放逐したと取られては、家名に傷がつく」

「案ずるな、兄上。俺も馬鹿ではない。策はあるのだ」

「策?」

「ああ、俺は常々思っていたのだ。この虎千代、顔が良いと」

「ん、まあ、整っているとは思うが、いきなりどうしたんだい?」

「つまり、だ。耳を貸せ兄上」

「……え、いや、それは、その、無理ではあるまいか?」

「この前金津家で試したのだが、義旧と妻の二人は褒め称えておったぞ。詳しくは義旧に聞け。我ながら名案だと考える。これならば、絶対にバレぬ」

「バレはせぬだろうが……とりあえず、新兵衛に感想を聞いてみるとする。ちなみに彼らは旅のこと、知っておるのか?」

「旅の件は伝えておらぬ。如何に俺と金津の間柄とはいえ、他家であることに変わりはない。伝えるか否かの判断は当主の兄上に任せる」

「そうか。わかった」

 寝耳に水であったが、晴景は何とか飲み込み頷いた。守護代の子が私用で旅するなど考えられない話であるが、情勢を鑑みても虎千代の不在は悪くない。それこそ、もし戻ってこないとしても――そんな為景の影を晴景は振り払う。

 弟が望むのならば送り出してやるまで。他意などない。あるものか、と晴景は自分に言い聞かせた。むしろ、これは良い機会であろう。

「では、私も虎千代が戻ってくる前に、此度の件を片付けておこう」

 彼が不在の間に全てを綺麗にして、きちんとした形で城に迎え入れる。兄弟全員でこの春日山を、越後を盛り立てていくために。

 そのための期間と思えば、悪くはない。

「ふはは、大きく出たな、兄上よ。なに、兄上ならば出来るとも。きっちり片を付け、父上に引導を渡してやれ。がっはっは!」

「口が過ぎるぞ、馬鹿者」

 こつんと虎千代を小突いた兄は苦笑する。為景の言う通りになどならない。いや、させない。晴景は誰にも言わずに決意する。

 必ず皆でこの越後を――そう思っていた。


     ○


 直江実綱は娘の文と珍しく囲碁に興じていた。もうすぐ冬も明け、春の訪れを予感させる今日この頃、ここからの数年実綱にとっても勝負の時となる。

 伊達稙宗の狂気によって越後国には大きな亀裂が走った。さすがは陸奥の覇者、耄碌すれどその影響力は常人のそれではない。良くも悪くもスケールが違う。ただ、実綱は思うのだ。彼は耄碌などせず、最速で越後を飲み込む気であったのではないか、と。息子たちに大反対され、伊達が割れた理由の一つである『上杉の養子として送り出す息子に百人の武士を付ける』などは、見栄ではなく乗っ取りのための仕込みであり、守護上杉の名を冠した自分の息子に力を与え、長尾家の支配から脱却し、伊達の血脈が正当に越後の守護として支配者に返り咲くための準備であり先行投資。越後を押さえれば同じ陸奥なれど油断ならぬ芦名らに対する備えにもなる。惜しむらくはそのビジョンが息子たちと共有できなかったこと。

 稙宗と為景、同じ方向を向きながら互いに真逆の目的を持ち、互いに蹴落とす機を見計らっていた。どちらも突出し、どちらも時に追われていた。

 その結果、どちらも沈む。

 今回の家督相続によって、為景が裏で急いていた理由も浮かび上がってきた。時間がなかったのだろう。それによって難しい橋を渡らざるを得なくなった。結果として為景は踏み外し、越後は大いに荒れることになった。さらに荒れる。

 いや、荒らすのだ。

「ありません」

「……驚くほど上手になった。虎千代様に指導してもらっているのか?」

「は、はい」

「なるほど……良い関係を築けているようで何より。今は少々荒れているので春日山にはやれぬが、もうしばらくすれば長尾家との関係も元通りになる」

「そ、そうですか! それは大変喜ばしいことです」

「そう、喜ばしいことだ」

 直江実綱は立ち上がり、冷たい手で文の頭を撫で、そのまま部屋を出る。娘は虎児への供物としてそれなりに機能している様子。であれば、今、実綱がやるべきことは一つしかない。それは――

「これを守護、上杉様に送り届けて欲しい」

「承知いたしました」

 一通の書状、その毒を以て為景の跡を継いだ晴景を、刺す。

 全ては越後のために。ひいては――長尾虎千代という傑物を天下に立たせるために。そのために多少の犠牲は仕方がない。

 英雄の誕生には血が必要なのだから。


     ○


 天文十年(1541年)春、旅支度を終えた覚明が寺の門前に立っていた。変装をしてくる、と言って姿をくらました虎千代の不敵な笑みを思い浮かべ、嫌な予感が漲ってくるのだが、任せろと言われた手前何も言えなかった。

 結果として後に、問い詰めてでも聞き出し、考えを改めさせるべきだったと後悔することになる。その理由が――

「お待たせいたしました、覚明様」

「む、え、は⁉」

 寺の奥よりやって来た。美しく、雪のような肌に艶やかな黒髪、得も言われぬ色香と楚々とした振舞いは、不淫を貫く僧でさえ揺らぐほどであろう。

「とら、と申します」

 絶世の美少女が其処にいた。

「……な、何を馬鹿なことを言っておるのだ、虎千代!」

「……とらだと言うておろうが、阿呆め」

 が、覚明の指摘により演技をやめ、化粧そのままにいつもの虎千代に戻る。態度次第で涼やかな目元が気だるげに変わるのだから恐ろしい。

「あ、阿呆はどっちだ。私は僧だぞ! 女人など連れて歩けるか!」

「さる信心深き貴人の娘がぁ、どうしても熊野詣をしたいと言ってぇ、名高き僧である覚明殿を頼りましたぁ。はい、完璧。これで一部の隙も無い」

 熊野詣とは室町時代から戦国時代にかけて、武士を始め庶民までもが巡礼の列に加わるほど人気を博した、言ってしまえば旅行である。江戸時代のお伊勢参りのさきがけ的ルートであるため、旅の理由にはもってこいである。

 ついでに全国の寺院も極力巡りたい、という信心深い理由もあれば、如何なる道のりでも多少、いやかなり怪しまれたとしても何とかなる、はず。

「ふざ、けるな!」

「ふざけてなどおらん。この旅で万が一にも俺は長尾虎千代と知られるわけにはいかんのだ。ゆえに俺は女に化ける。されば、何人も、俺を虎千代とは思うまい」

「もっと、こう、やり方があるだろう⁉」

「知らん。俺はこれが一番効果的で、何よりも一番面白いと思ったのだ!」

 絶対に後者の理由が大きいじゃないか、と覚明は肩を落とす。後ろで困った顔をしている天室光育を見るに、知らされていなかったのは自分のみ。おそらく、関所を通るため光育が一筆したためてくれた内容もその旨が記載されているのだろう。

 この荒れた時代に旅慣れた僧が伴うとはいえ、女性が家を出て旅立つなど聞いたことはない。しかもそれが女装した守護代の息子、である。

「しかし、鏡を見ても、水面を見ても、俺ほどの美女はそうおるまい。丸顔の文が不憫で仕方ないのぉ。比ぶれば、うう。我ながら道中の貞操が心配になってしまうほどよ。まあ、襲われたなら斬り捨てるだけだがな。なっはっはっはっは!」

 護身用として用意したのだろう腰に差した脇差を軽く引き抜く。まあ、よほどのことがない限りは虎千代ほどの腕前であれば問題はないだろうが。それにしても女装とは想像していなかった。覚明は己の不覚を悔いる。

 この虎千代、如何なる時でも常人の枠に収まってはくれぬのだ。この旅で彼は嫌と言うほど痛感することになる。天才の扱い、その難しさを。

「さあ、征くぞ覚明!」

「ま、待て、まだ話は――」

「ではさらば。土産話を期待しておけ、ジジイ」

「ええ。待っていますよ。いってらっしゃい」

「む、お、おお。いってくる!」

 いってらっしゃい、帰る場所であり自分の居場所、林泉寺と光育、そして僧たちの見送りを受け、少しだけ虎千代は相好を崩した。

 この先如何なる出会いがあるのか、高揚感と共に虎千代は一歩目を踏み出す。旅路で出会う様々なことに思いを馳せながら――

 長尾虎千代が征く。


     ○


 天下は乱れていた。

 ゆえにこそ、才人は輝きを示すもの。


「俺は凡である。だが、俺には其の方らがいる。ゆえに、強い」

「おう!」

 この男、自らを凡庸と称する。実際に彼はこれより先、幾度も敗北を喫し、苦渋を味わうこととなる。されどその度に立ち上がり、強さを増す。

 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。

「そろそろ父上には下がって頂こう。これからは、俺たちの時代だ!」

 貧しき土地にて獰猛なる虎、その牙を静かに研ぎ澄ます。


「若様、御本城様にこちらを進言ください」

「ううむ、良い意見だと思うのだが」

「いえいえ、若様、そやつの意見など当てになりませぬ。ここは私の意見をば」

「そう喧嘩してくれるな。どちらも目を通す。上手いこと父上には伝えておこう。ん、しかし、二人の意見を組み合わせると……さらに良くなりそうだなぁ」

「ゆ、優柔不断な」

 部下に板挟みにされ、うんうんと頭を悩ませる男は、時間に猶予がある時の決断が滅法遅い。されどその決断、間違うこと無し。

「勝った! 勝った! 勝った!」

「……あやつは良いのお。いつも楽しそうで」

「あれはまあ、ちょっと頭が……戦は強いのですがね」

「負けても勝ったと言い張るからなぁ。まあ、色んな者がいるから良いのだ。聡き者、猛き者、愚者とて使いよう。私はまあ、彼を愚者とは思わぬがね」

 様々な部下に囲まれ、その全てに耳を傾け最良を模索する男、すでにいくつも武功を上げ、世に存在感を示す獅子は正道を征く。


 天下に名高き駿府の街並み、それが放つ光を館より見つめる眼は得も言われぬ雰囲気を宿していた。戦国三大文化を築きし、豊かなる領地を統べる者。

 東海道の覇者は静かに眼を瞑る。

「織田の動きは?」

「依然として勢い変わらず、三河の地を荒らしております。献金によって備後守を得てからと言うもの、その勢いは飛ぶ鳥を落とすかのようです」

「松平程度では止まらぬか。朝廷に認められたことがよほど嬉しいのだろう。まさに勤皇家の鑑、私も見習わねばな」

「……御冗談を」

「ふふ、だが、今の勢いはいずれ衰える。国外で戦える体制ではないからな。今のままであればよほど北条の方が厄介だ。今のままなら、な」

 男の眼には夜闇を打ち消すほどの光が映る。果たしてこれ以上などあるものか。その胸の内を彼は打ち消す。盛者必衰、昇り切ったと思えば、あとは下るだけ。

 まだ登る山はある。そう思い、自らは弓を引くまでのこと。

 輝ける駿府を統べる武士は王道を征く。


 さらに様々な群雄が割拠する世界、未だ日の目を見ぬ怪物、傑物、奸雄、そんな者もまた無数に存在する。立ち上がるか歴史の裏に消えるか、それはその者の才覚と時の運が左右するだろう。しかして今は――

「旅は疲れるなぁ。この格好、動き辛くてかなわん」

「自分で選んだ格好であろうが!」

「お、野兎がおるぞ! 腹の足しにしよう!」

「そうやって走り回るから疲れるのだ。あ、こら、私の前で殺生をするなァ!」

 長尾虎千代の眼を、耳を、彼を通して世界を見つめる。如何なる者がいて、如何なる世界が広がっているのか、彼にとっての真実を見つめるために。

 これは虎千代が自身の生き方を、在り方を見つける旅である。

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