第漆話:時の流れ

 さすがに最後の壁は高く、まるで届かぬ日々が続いていた。今までのは指導碁でもあったのだろう。手を抜いていたわけではないが、かと言って全力であったかと言うとそうでもなかったのだ。対等な敵として扱われた今、相手に白星を大量に献上する羽目となる。押しても引いてもびくともしない。それが現状の差。

「困ったのお」

「だからって私で憂さ晴らししないでよ!」

「む、指導だ指導。九子も与えておろうが、ほれほれ頑張れ頑張れ」

「こ、この……ほんと性根が腐ってるわね」

「ふはは、誉め言葉よのぉ」

 とりあえず父の命及び綾のお願いによってやって来た文を、指導と称した可愛がりで憂さ晴らしする虎千代。

「まあ、基本がしっかりしてきたからな。これでようやく遊戯が成立すると言うもの。俺の指導の賜物であるな。喜べ、文」

 と言う日々を続けていたら、文もさすがに強くなってきたのか本日の対局、若干雲行きが怪しくなっていた。まあ、とは言っても優勢なのは虎千代の白。ここまで来れば覆るまい、と高を括っていた。

「そりゃまあ、あれだけ石を拾いに行かされたら、勉強もするっての。と言うか、いいの、それ。こう私が切ったら――」

「あ、ま、待った」

「へえ、待った、ねえ。御師匠様なのに、お恥ずかしいこと」

 文の見下ろすような視線に、虎千代、キレた。

「……や、やってやろうじゃねえか! たかが失着一つで、いくら九子の置き石だろうとも、俺が文如きに負けるわけがない!」

「私が勝ったら何をお願いしちゃおうかなぁ」

「ありえん。ぬしは俺の石を拾ってくればいいのだ!」

「あ、こことか良い感じかも」

「ぐ、ぐぬ、要らぬ才覚を発揮しよって……あ、あれ、これ、右辺が」

「いただきます」

 虎千代の右辺、死す。同時に勝敗が、揺れて、文に傾く。

「ふーん、これで覚明様に勝つ、ねえ」

「ふぐ、ぐぬぅ」

 ヨセで勝つ。悔しげに唇をかみながら盤面を凝視し、死に物狂いで活路を探す虎千代の姿を見て、文はゾクゾク、と得も言われぬ快感が五体に走った。

 これが愉悦、自然と笑みがこぼれてしまう。

「わ、笑うでない!」

「あら、ごめんあそばせ」

「な、何たる屈辱、文如きに、俺が、長尾虎千代がぁ」

 この時初めて文は思った。碁が楽しい、と。もっと言えば自分が勝って虎千代が子どもっぽくもがき苦しむさまが、この上なく楽しいのだ、と思った。

 この女、なかなか素質がある。

「あー、お腹空いたなぁ。帰る前に、小腹を満たしたいなぁ」

「……今、何か用意してきます」

「お肉もね」

「寺だぞ、ここ!」

「あんただけはそれ言っちゃ駄目でしょ」

「く、くそぉ、次からは八子だからな! 覚えとけよ!」

 涙ぐみながら離れを飛び出し、狩りに出かけた虎千代を見送り、これが愉悦か、と満足そうにごろりと天を仰ぐ文。こんな格好、直江の城でもしたことなかった。当然春日山城でも出来ない。この離れでだけ、言葉遣いも同様に――

 今はどちらも気づいていない。それがどういうことなのか、を。

「ちょっと囲碁、頑張ってみようかな」

 今はまだ――


     ○


 さらに月日が経つ。

「朝秀、其の方も暇よなぁ」

「……そうでもありませぬ。若様こそ暇そうですな」

「まあ、見ての通りよ。文句は父上に言え」

 挨拶ついでに寺に寄った大熊朝秀は虎千代に稽古をつけていた。もはや挨拶がついでなのは見え見えであり、その姿は完全に師匠と弟子のそれである。

 流れるような太刀捌き、あの夜を経て一回り成長したからこそわかる大熊の深さ、飯沼氏の亡霊である二人目の男も強かったが、大熊朝秀は少しばかり桁が違う。戦えば闘うほどに広がっていくような感覚は、そのまま彼我の差。

 虎千代がようやく認識するに至っただけ。

「本当に其の方よりも強い者がいるのか? 俺がやった二人も父上に言わせれば弱い方ではなかったそうだぞ。あの男は世辞など絶対に言わんしな」

「その大殿に、拙者は勝ち申したゆえ」

「くは、そうであったな!」

「まあ、単独の強さなど、乱世ではあまり意味などありませぬが」

「在って損はあるまい!」

「それは、そうですな」

 この強さ、越後の外、天下において如何ほどのものか。

「もっと本気で来い。俺も実戦を経験した。あの時とは違うぞ」

「でしょうな。身体も少し大きくなられた。強くなっておりますよ、若様は。拙者をして驚くほどに……ですがまだ、拙者の本気を受け止められるほどではない」

 寺を覆うほどの殺意に、虎千代の全身、毛穴という毛穴から汗がぶわっと噴き出す。鋭く、強く、遠い。知りたくなる。自分が知る限り最強であるこの男が、果たして越後の外ではどれほどの強さであるのか。世界の広さが、知りたい。

「続けましょうか」

「いずれ、其の方の全力を俺が引き出してやる」

「ふ、期待しております」

 旅立つ前に、せめてこの男の膝元くらいは、と虎千代は噛みつく。

 されどその背中、まだ遥か遠く――


     ○


 さらに時は流れる。

「ぐ、ぬ。三目、足りぬか」

「まだまだ私の方が上だな」

「……押し引きの形勢判断に間違いはないと思うのだがな。読めているし、見えている。だが、何故か勝てん。覚明、殿、その、どうすればぬしに勝てる?」

 自分で答えを探し、自分で辿り着くことを疑わなかった少年が、初めて覚明に教えを乞うた。どうしても勝ちたいのだろう。その意気は嫌でも伝わってくる。

「虎千代は自分のことばかりを考え過ぎだ。もっと相手を見なさい」

「相手の手は見ておる。読みも大きくは外れていない」

「そう言うことではない。もっと深い部分で、相手がどう考え、どうしたいかを読み取り、その上で己の思考を相手の思考に差し込むのだ」

「……何を言っておる?」

「相手がしたいこととあまりに外れてしまえば、その者は深く読み解こうとするだろう。その時点で負けなのだ。自分を押しつけているだけではそこ止まり。上手はな、相手のやりたいことの中に、自分のやりたいことを仕込むのだ」

 覚明の指導は抽象的であった。しかし、物事の神髄とは常にそう言った曖昧なるモノの中に在るのだ。相手を見る。相手を読む。戦う者であれば誰もがやっていることであるが、その一つ上に相手を操る、と言うのがある。

 如何に相手の警戒を潜り抜け、操り糸を垂らすか――

「……なるほど。確かに、俺に足らぬ部分であったやもしれぬな」

「とは言えあと一歩、もう少しだ」

「ふん、所詮は有利な黒だ。本当の実力はまだ遠い」

「そうでもないさ」

 囲碁と言う遊戯は先手、黒が有利に出来ている。ゆえに現代ではコミというハンデキャップが存在し、六目半が後手の白に与えられるのだ。だが、コミが最初に記録として残るのは江戸時代後期であり、この時代には存在しない、とされている。あくまで記録に残っていないだけで、無いとは言い切れないのだが――

 少なくとも黒が有利、ぐらいの認識は持っているはずである。

「そう言えば最近、あまり寺の外に出ておらぬな。文姫もとんと姿を現さぬし、さては喧嘩でもしたか? 虎千代は口が悪いからなぁ」

「勝手に判断するな。今は少し難しい情勢なのだ。義旧は忙しかろうし、文の奴も直江の城に帰っておる。伊達の内輪揉めに越後も巻き込まれた形でな。今でこそ国衆も大人しくしているが、伊達の出方次第では……荒れるぞ」

「……ふむ、大事になる、か」

「可能性の話だ。今は伊達と父上の思惑が一致しているようで、双方上手くやっているようだが、くく、越後の国衆まで同じとは限らぬ。この機に乗じて動く輩も出てくるだろう。はてさて、どうなることやら。まあ、俺には関係ないがな」

 虎千代はカラカラと笑い、碁石を整理する。またしても荒れ模様となりつつある越後国。いや、そもそもこのご時世、荒れていない国の方が少ないだろう。どこもかしこも火種がくすぶり、なればこそ群雄は色めき立つのだ。


     ○


 さらに時が経ち、天文九年(1540年)、やはり越後は荒れた。

 長尾為景の目論見であった越後守護、上杉定実没後の構想。先んじて伊達の子を自らの手で上杉に押し付け養子とし、長尾家のために先々の傀儡を用意する。当然越後の国衆は反発する。そこを手ずから押さえつけるつもりであったが――

 そこで伊達が動いた。元より伊達の目論見はお得意の血族同盟を広げ、越後にまで勢力を広げるところにあった。為景も当然そこは承知の上、されど家の問題も紛糾する今、当主伊達稙宗は動けまい、そう思っていたのだ。だが、彼は揚北衆(あがきたしゅう)の一角、本庄房長らの挙兵に対し、即座に軍事介入をして場を荒らしに来た。家が荒れるよりも、他国を荒らし勢力拡大する択を取ったのだ。

 道理と野心、策謀、欲望が渦巻き――

「……この俺が最後の最後に後れを取ろうとはな」

「いえ、今回は伊達稙宗の暴走、でしょう。家の安定と勢力拡大、そこを秤にかけて拡大を取るは正気の沙汰にあらず。現にかの家、大荒れの模様」

「息子との対立か。ほんに好きよな、どいつもこいつも」

 長尾為景は橋を渡り切ることが出来なかった。稙宗が軍事行動を起こし、今まで静観を決め込んでいた国衆すら養子問題で反対の意向を示す向きが強まっている。まだ為景が若く、時間があればそれでも力ずくで押し込めただろうが――

「許せ晴景、火種を残すことになった」

「構いません」

「老いが体を蝕み、病をも引き寄せる。くく、越後の覇者如きでこの俺が終わるとはな。若き頃は想像すら出来なかった。しかも、張りぼての王、薄氷の家、上杉の首に縄を付けることは出来ても、国衆にまで及ばなかった、か」

 若き日の自分であれば、果たして伊達の理屈を超えた野心、欲望、見抜くことが出来ただろうか。この荒れた状況、抑え込むことが出来ただろうか。

 意味の無い『もし』を考え、為景は哂う。

「今もなお入嗣推進する主な家は中条、平子、そして、直江」

 ことここに至っては国衆の手前、長尾家は反対の立場を取らざるを得ない。ここで無理やり押し切るは、伊達の軍事介入で殺気立つ国衆を敵に回すに等しい。ただでさえ数年前、勝利したとはいえ為景は追い込まれた。弱みを見せてしまったのだ。

 越後の国衆は見逃さない。勝てると思えば寝首をかきに来る。だからこそ今は目論見を断念せざるを得ないのだ。が、そうしなかった家がいくつかある。その内の一つに直江家があったのだ。情勢を解さぬほどの愚者ではない。それが無理筋であること理解しながらも、あえてそこに乗った。

「くはは、神五郎め。ここに来て噛みついてきよったわ。わかるか、晴景。何故ここで直江が国衆に敵を作りかねぬ立場を取ったか」

 直江家からすれば大博打。下手を打てば他の国衆と争うことになり、直江自体が滅びる可能性もある。今回の一件、決して易い選択肢ではないのだ。

「……それは」

「国を荒らすためぞ。して、何故国を荒らすか? わかっておろうが、なあ、長尾晴景よ。俺の跡を継いだ其の方を引きずりおろし、虎千代を立てるためだ」

 為景の言葉に晴景は顔をしかめる。

「勘繰り過ぎです、父上。此度は意見が食い違っただけのこと。腹を割って話し合えば見えてくるものもあるでしょう。当然、虎千代にも叛意など無く、野心も無いのです。父上は自分の子を勘違いしていらっしゃる」

「……晴景よ。一つだけ忠告しておこう。伊達の一件もそうだが、権力争いとは必ずしも当事者のみによって起きるものではない。むしろ周り、そこに群がる有象無象こそが空気を形作る。強いぞ、これは。これだけ権威を、力を、身に着けた俺とて、結局のところ最後はそれに敗れ去るのだ。ゆめゆめ、忘れるな」

 為景は立ち上がり、晴景の肩に手を置く。

「虎千代は必ず其の方の敵と成る。周りがそうする。その時になって後悔しても遅いのだ。俺はもう、充分に示したぞ。あとは、其の方が差配せよ」

「承知致しました。ですが、私は虎千代ら兄弟たちと共に越後を盛り立てていく所存です。道理を以て、父上の果たせなかった悲願、叶えて見せましょう」

「くはは、強情な。好きにせよ。今日より、其の方の時代である」

 天文九年八月、長尾為景は家督を正式に息子である長尾晴景に譲り渡し、隠居を決断する。その理由は定かではないが、情勢不安冷めやらぬ状況下での継承ゆえ、やむにやまれぬ事情があったのだろう。

 例えば――

「……ふは、俺も所詮、人間であったか」

 病、のような何かが。

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