第陸話:勝利の褒美

 虎千代は今、覚明と碁を打っていた。近頃、覚明が周辺の寺を回ったりして留守にしがちなため、これが久方ぶりの対局である。二子の置き石となってずいぶん経つが、未だにこの壁が破れていない。たかが石一つと侮ることなかれ。陣取りゲームである囲碁において置き石とは、自陣を固める基礎材があらかじめ用意されているようなもの。ざっくりと二子であれば十五目ほど、三子であれば二十五目ほどのハンデとされている。これが最初から与えられているのだ。

 要するにハンデが三子の時よりも十目ほど減ったと言うこと。そもそも一子のあるなしで打ち方も随分変わってくる。

「むぅ。しばし待て。厠に行ってくる」

 ただ、それでも以前よりは近づいてきた、と覚明は考える。前ほど闇雲に攻めなくなったと言うのが一点、もう一つは――

(……形勢判断の見極めが良くなったな。誘いに乗らなくなってきた)

 読みの深さは元々光るものがあった。あの夜の一件より、今まで物足りなかった広さ、大局観も少しずつ身に付いてきたような気がする。今までならばこの右上隅の攻防、迷わず突っ込んできた。たまにヒヤリとする手はあっても、ほとんどが全滅、もしくは小さな地を得るだけに留まり、全体では損をしていた。

 今は、以前よりも遠くを見ることが出来ている。

 厠から戻ってきた虎千代は迷った末に――

「退いたな、虎千代」

「ふん、ぬし相手にこれ以上押しても俺の損だ。押した分、生きた地は小さい。他で取り返してやるぞ。見ておれ」

 そして、鋭い攻めは健在。否、以前よりもキレを増している。

「……これは、なかなか」

 覚明が押さえていた地に、虎千代が踏み込む。この狭い中で生きる目算があるのだろう。いや、そもそもここで荒らして生きねば勝機はない。

「厠に行って随分すっきりしたようだな」

「ああ、よう出たわ」

「勝算は?」

「あるから踏み込んだのだ。地中に活あり、今日こそ勝たせてもらうぞ」

 覚明は手を進める。今まで教えてきた中で、最も筋の良い相手が虎千代であった。貪欲に学び、我がものとする力。これは碁だけに限らない。たまにお忍びで現れる大熊の剣や、城下の子どもたちが寺にやってきて光育が勉学を教える際など、自分に足りぬものは積極的に手に入れようとする。

 この歳にして大人顔負けの知識、力を持つのはその欲ゆえ。

「……見事だ」

「さあ、ヨセだ。俺が間違えねば……二目差、と言ったところか」

「ああ、虎千代は間違えまいよ。参りました」

「ふはははは! とうとう覚明を二子で破ってやったぞ! これで互先、ようやっとぬしの足元ぐらいには届いたかの、覚明」

 所詮は置き碁、虎千代とてわかっている。ここからが本当の壁であると。

「勝利の記念に何か欲しい物はあるか?」

 珍しく太っ腹な覚明に対し、虎千代は「ううむ」と考え込む。まず頭に浮かんだのは、林泉寺の僧である覚明に兎を狩ってこい、という命令であった。さすがは悪戯小僧の虎千代、最初に相手が一番嫌がることを考えるところが彼らしい。

 しかし、

「よいのか?」

「拙僧の用意できるものであればな」

「ならば、ぬしが何故ここに来たのか、始まりの問いに答えてもらうぞ」

 虎千代は迷うことなく、それを問うた。わけあって言えぬ、覚明がそう言って遮った理由。宇佐美が将軍家の指南役とこぼしたことも聞き逃してはいない。それが事実だとして、それなりに名の通った僧である覚明がほぼ着の身着のままで越後に、春日山にやって来たのか、ずっと気になっていたのだ。

 それはきっと――

「……口で言ってわかるものではない」

 自分を育ててくれている天室光育が、過去を語らぬことと同じ理由だろうから。

「おい、坊主が一度口に出したことを引っ込めるのか?」

「畿内は腐っている。と、拙僧は思っている。だが、そう思っていない僧もたくさんいるのだ。同じものを見ても、体験しても、人によって受ける印象は違う。まして、虎千代は見てすらいないのだ。拙僧の言葉を聞き、そなたは飲み込むことが出来るか? それは拙僧の考えであり、そなたのそれとは異なるやもしれぬぞ」

「……それは俺に何も知るな、と言っておるようなものだぞ。俺はこの春日山しか知らぬし、ここから出ることを許されていない。小さな離れに囚われた、痩せっぽちの虎、いや、猫か。大きな口を叩いても、父に牙を剥けることすら出来ず、ただ震えているだけの、情けない生き物だ。それが俺だ」

 あの夜、虎千代は父の顔を見ることすら出来なかった。視線をあわせることを怖れ、俯き、ただひたすらに平伏していた。父が怖い。市井に、まことしやかに流れる噂、血が繋がっていない息子である、と言うことならば言って欲しい。わけもわからぬまま、厭われ、遠ざけられ、父を怖れ続けるぐらいならば。

 そんな嫌な思いが、虎千代の胸を駆け巡る。

「ならば、見てみるか?」

「……今、何と言った?」

「見てみるか、と言った」

 最初はくだらない冗談かと思ったが、覚明の眼にふざけた様子はない。

「俺は父の命でここにいる。外に出ることなど、不可能だ」

「信濃守殿がここに来られることはなかろう。拙僧と和尚、寺の者が口裏を合わせれば一年ほどの旅であれば問題あるまい」

「……本気で言っておるのか?」

「ああ、本気だ。和尚は拙僧が説得しよう。ただし、長旅に付き合うのだ。二子では割に合うまい。黒を握りてただの一度でも拙僧を下せたならば、だ」

 虎千代は呆然としていたが、徐々に、表情に笑みが浮かんでくる。それは夢であった。自分を押し込める春日山から、越後から出て、書の中でしか知り得ない世界を歩くことなど。口にするも馬鹿らしい、ただの妄想。

 それが今、置き石なしとは言え先手で覚明を下せば手に入るのだ。

「よかろう。この勝負自体、二子の勝利での褒美と考えさせてもらう。礼は言わぬし、全身全霊で叩き潰させてもらうぞ」

 虎千代は獰猛な笑みを浮かべ、覚明を見据える。彼の想像を超えた褒美が目の前にぶら下がっている。どんな甘味も、どんな書物も、目の前にぶら下げられたそれに比べれば色褪せてしまうだろう。自分の眼で世界を見る機会、絶対に逃すまい。

「して、その勝負はいつから開始だ?」

「今すぐにでも」

「ははは! 言うたな坊主め」

 虎千代の眼は獲物を見据えるそれである。


     ○


 その夜、覚明は光育と共に座禅を組んでいた。他の僧はすでに眠っている時刻、本堂には彼ら以外の人影はない。

「……今日、提案致しました」

 覚明の言葉に光育は「そうですか」とだけ漏らす。

「喜んでいましたか?」

「ええ。それはもう目を輝かせて。想像したこともなかったのでしょうね。この春日山を、越後を出ることなど。越後を出たとしても精々近郊、しかもすべて戦絡み。それが彼の、長尾虎千代の現実。守護代の子なれば、自由意思など無いも同然」

「あの子はああ見えて、その辺りは弁えておりますから」

「ですね」

 二人は微笑みを浮かべる。ひねくれているようで真っ直ぐ、そんな少年を彼らは実の子のように、兄弟のように思っていた。

 だからこそ――

「……虎千代は、今の京を見て、何を思うでしょうか」

「……さて、どうでしょうかね。良い気分は、しないでしょうが。私は京を離れて随分経ちますし、覚明殿の方が予想できるのでは?」

 覚明の脳裏に浮かぶのは炎。仏の教えを説くはずの僧侶による醜き争い。炎が都を飲み込む。下らぬ面子のために一体何人死んだ。どれほど多くの命を巻き込んだ。何が五戒か。何が不殺生戒か。何が御仏の――

「喝」

 静かだが、透き通る声色が耳朶を打ち、覚明の意識を引き上げる。つう、と歯を食いしばり過ぎていたのか、口の端から血が流れ出ていた。

「私は、未熟者です」

「誰もがそうです。私もまた道半ば、修行に終わりはありませんよ」

「はい」

 ここは素晴らしい寺院であると覚明は思う。天室光育を始め、僧侶は皆真面目で欲がない。たまに虎千代の煽りに負け、鳥肉ならと口にする者もいるが、その程度など可愛いもの。他の宗派、寺院とて何のかんのと言い訳をして食べているし、そこは重要ではないと覚明は考えていた。

 生きるために奪うことは何もおかしなことではない。出来る限り覚明自身、守るようにはしているが、それはあくまで自戒であり、他者に強いようとは思っていなかった。真の罪とは、生きるためではなく奪うこと。

 それを平然と、公然と、行われる世界に比べれば、ここの何と穏やかなことか。

「光育和尚、虎千代を、御預かりいたします」

「まだ先になるでしょうが……頼みます」

 畿内の、京の腐敗を知る二人。誰かが、何かが、破壊し尽くさねば彼らは変わるまい。神罰でも下らねば、彼らは理解しようとすら思うまい。

 それは二人の共通見解であった。だからこそ彼らは京を、畿内を去ったのだ。そして、一人の龍に出会った。まだ、小さく力はないが、いずれ――そう思ったからこその機会である。どうしても見せておきたかった。

 彼があの景色を見て、どう感じるかはさておき――

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