第伍話:夜闇にて蠢く者

「…………」

 万に一つもないと思っていたことが、現実にあると知り虎千代は絶句してしまう。ここはその辺の城の城下町でなければ、表通りを外れた道でもない。それはまあ、多少はこの時間人気の少ない場所ではあるが、普通こんな場所で人を襲おうなどと考える者はいないだろう。ただ、世の中にはありえないと思っても――

「……はぁ」

 現実に在ることもあり得るのだ。

「夜闇の下、大の男がぞろぞろと何をしておる?」

「ッ⁉」

 眼前には斬り捨てられ、隅に追いやられた供の遺体が転がっている。文は口を押さえられ、拘束されていた。貴人狙いの食い詰め者か、その割にはどうもきな臭い。全員太刀を帯びており、数は多くないが危険な香りが立ち込めている。

「童か。疾く、去るが良い。何も見ていない、そう思えば見逃して進ぜよう」

「ほう、話しぶりを見るに武士か。笑えるのぉ、一丁前の武士が多勢にて女子供を狙うとは。そんな丸顔の女、さして高く売れんだろうに」

「ぶは、誰が丸顔よ!」

「直江の娘! しゃべるな!」

「うぐ、むう!」

「……直江の娘と知っての狼藉か。何用か、其の方らは」

「……逆に問う。童、其の方は何者だ?」

「長尾虎千代」

「なんと」

 明らかに全員の戦意が跳ね上がる。長尾、直江、それが彼らの敵なのだろう。この春日山城下に置ける狙いはわからないが、それでもわかることが一つある。

 それは――

「童、その太刀抜かば、我らも加減は出来ぬぞ。為景の子とは言え、幼子を手にかけたくはない。しかも噂の四男、哀れぞ。この娘も、所用が済めば開放する」

「ふはは、そんなもの、誰が信ずるかよ」

 それは彼らが実戦を経験したであろう武士であること。もののふであることである。遊び相手としてはこれ以上ない手合い。逃げる気も、逃がす気もない。

 虎千代は躊躇なく太刀を引き抜いた。

「某がやろう。童相手に多勢では、まさに童の言う通り、笑い者よ」

「……任せた。急げよ、さして時間はない」

「承知」

 太刀を引き抜き、町人と同じ格好をした武士が構えを取る。対峙するだけで虎千代は笑みがこぼれてしまう。上質な殺意、鋭く、無駄がない。

 それでいて躊躇もない。

「これが戦場か」

「ああ。これが御前の初陣であり、そして――」

 ぐん、と大きく踏み込み、

「これで終わりだ!」

 袈裟懸けに鋭く、コンパクトに、白刃が煌めく。

「侮ったな」

「なッ⁉」

 すう、息を吐くように力を抜き、相手の袈裟切りを流す。渾身の一撃と触れ合ったにしては、あまりにも静かな邂逅。そして――

「疾ィ!」

 あまりにも疾い、決着。

 流し、崩し、断ち切る。相手を童と侮ったことはあるだろう。この体格差、まともに受けることなど出来ないと高を括ったに違いない。そしてそれは、あまりにも当たり前のことであった。この、鬼の面を被る天才相手でなければ。

「切り口鮮やか、些かの躊躇もなし、か」

 敵の一人が驚愕に目を見開きながら血を吐く味方に視線を向ける。彼は決して弱くない。ここにいる全員が、とある城に仕えていた武士である。実力はある。それがあの短い手数で沈められたのだ。答えは一つ。

「為景の子、か」

 残りは四人、いずれも実力者。特に最初に言葉をかけてきた者は、明らかに頭一つ抜けている。大熊よりも弱いと思うが、おそらく光育の槍よりは強い。

 あくまで見立てだが、一騎打ちでも勝敗は怪しい、と虎千代は見る。

「おや、多勢で来んのか? 残り四人、全員まとめて相手しても良いぞ」

「それでは武士の名折れ。拙者が相手仕る」

 もう少し舐めてくれるかと思ったが、どうやら一番強い者が相手になるようであった。先ほどの攻防、手に残る痺れからも見た目ほど楽勝ではなかった。それよりも一回り、この男は強い。勝てるか、嫌な汗が虎千代の背中を伝う。

「直江の娘とは如何な関係だ? 婚約でも結んでおるのか?」

「ふん、好いても好かれてもおらぬ者が結ばれるかよ」

 びくりと拘束されている少女が震える。

「だが、それは俺の弟子だ。ならば、俺にも責務があろうよ!」

 震えが消え、その代わりに――

 男は目を見張る。先ほどの攻防、巧いと思わされたが、強いとは思わなかった。あれが出来ると理解すればどうとでもなる、そう思っていたのだが。

 息巻く少年の覇気に、かすかに気圧されてしまった。

「……幼くとも、虎か」

 男は苦笑した後、正眼に構え、じわりじわりと間合いを詰めてくる。虎千代は担ぐように構えを取るも、彼の嫌な距離の詰め方に手に汗がにじむ。

「其の方はどれほどに強い?」

「拙者より強き者は、世にごまんとおる」

「なるほど……ほんに、世の中は広いのお」

 互いの間合いに至り、なお不動。汗が全身を伝う。心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響く。死が、眼前にいた。

「臆したか?」

 決して挑発に乗ったわけではない。ただ、我慢が出来なかった。いち早くこの緊張感から解放されたい。その一心で刃を振るう。男はその刃、受けるでもかわすでもなく半歩の踏み込みで、身体ごと抑え込んできた。

「こ、の!」

「身体にはこういう使い方もある。零の間合いを生かすは、己の五体也!」

 体重差、力の差で虎千代を吹き飛ばし、即座に間合いを詰めてくる男。その眼には冷たい白刃のような色しかない。重さを、力を押し付けてくる剣。小さき者に不自由を強いる戦い方に、虎千代は顔を歪めるしかない。

 振り抜くではなく押し付ける。これが厳しい。

「煌めくような才覚、ここで断つは惜しいが」

「もう勝った気かよ!」

「それだけの差がある」

 勝ち筋を生み出して見せる、とばかりに虎千代は無理やり踏み込む。あちらにとって零距離であろうとも、子どもである自分にとって隙間は充分にある。ここで差し込み、一発逆転を狙う。この間合いは自分のもの。

「ウォォォオオオ!」

「裂ぱくの気合、心地よいが……若過ぎる」

 すう、滑るように後退し、男は退きながら横薙ぎの一閃。はらりと虎千代の服が切れて、垂れる。それと同時に、虎千代の腹から血が滲む。山でこけた時など、血が滲むことはよくあった。出血とは熱いのだ、そう思っていた。

 だが、実戦は違う。

「死を感じ、僅かに退いたか。良い感性だ」

 冷たいのだ。痛みはなく、ただただ冷える。これが戦の傷。

 これが死。

「は、はは。そうか、そうか、これが死か!」

 対峙する者以外には虚勢と映っただろう。虚勢にしてもこの若さで、死を前にしても臆さぬ時点で称賛されるべきだと、戦場に立つ者であれば思う。

 だが、歴戦の武士である男にはわかった。これは虚勢にあらず。死を前に、人の本性は浮かぶ。如何なる者でも、零れ出てしまう者。眼前の童に微塵も恐怖はなかった。むしろ腹を斬られる前の方が怖れはあったように見える。

 今はない。微塵もない。それは男にも、いや、人なれば誰もが到達できぬ境地である。何かが、むくりと首をもたげる。虎、虎児だと思っていたが、生存本能をも超える何かに抱かれたこれを、果たして地上の生物に例えて良いのだろうか。

 人か魔性か、神か獣か、虎か、龍か――

「ははははは!」

 虎千代は邪魔だとばかりに鬼の面を脱ぎ捨てた。

 力の差を示されてなお、虎千代は笑みを浮かべて大きく踏み込む。先ほど、そうやって痛い目を見たばかりであろうに。それでも同じように踏み込み、さらに姿勢を低くし加速する。後退では、追いつかぬほどの速さで。

「甘いわ!」

 男もまた、引き斬りは間に合わぬと前進を選択する。身体を押し付けて、動きを抑え込む。これで潰した。そう、思った。

「元服前の小僧にて、非礼を許せェ」

「足、か⁉」

 姿勢を低くしていた理由は、注意が届き辛い足元を狙うためであった。普通の武士、一対一であれば狙わない。戦場であれば脛当ても付けている。

 だからこそ、狙った。

「意識の、外ォ!」

 骨まで断ち切れず、半ばで止まった太刀を躊躇なく手放し、虎千代は男に足払いをかけた。常態であればこの体格差、決まるはずもない。だが、足首を半ばまで立たれ、力が入らぬ状況であれば、技も通る。

「この、怪物がァ!」

 仰向けに倒れかけた男は、自分だけでは倒れまいと虎千代の襟元に手を伸ばす。力ずくで引き倒せば、足一本失ったところでどうにでもなる。

 だから――

「学ばせてもらった」

 虎千代は一歩、退く。

「あっ」

 男の手は空を切り、倒れていく。月明かりの下、浮かぶは人ならざる何か。妖しげな笑みを浮かべた長尾虎千代と言う怪物を前に、歴戦の武士である男は――

「……無念」

 完全に倒れ込む。仰向けに、月明かりに浮かぶは龍の跳躍。太刀の鞘を握りしめ、そのまま男の頭部に全力で叩き込んだ。その瞬間、男の意識は彼方へ飛ぶ。

「あああああああああああああああ!」

 文字通りの滅多打ち。あまりに鬼気迫る光景、文を拘束している男は自然と彼女の眼を押さえていた。こんなもの、武士以外が見て良いものではない。

 いや、武士ですら――

 血まみれの童が立ち上がる。明らかに、戦う前よりも切れ味が増した眼光、相手の強さが長尾虎千代と言う才能を引き上げてしまったのだ。

 自分たちを率いる男、頭部が原形を留めぬそれを見て、彼らは顔を歪める。彼は間違いなく強かった。自分たちがかつて仕えていた城でも随一の使い手であった。その彼が十にも満たぬ童に負けるなど、いったい誰が考えようか。

「皆、今は誇りを捨て置き、大義を――」

「何事だ?」

「ッ⁉」

 あまりにも異常な光景、展開に、全員が周囲に対し注意が散漫になっていた。その結果、一つの群れが、列が、近づいていることに気づけなかったのだ。

 ぞろぞろと足音が連なり、列を先導する男はあまりにも異質な光景に眉をひそめた。そして、そこにある人物を見つけ、

「何故、ここに……虎千代様が」

 驚愕、その後血濡れであることに気付き、馬から飛び降りる。太刀を抜き放ち、怒りの形相でこちらに向かってきた。修羅が如し怒りの形相、気圧された相手を一撃で切り伏せる。残り二人となった彼らも太刀を引き抜くが、

「虎千代様に、何をしている?」

 瞬く間に残りの二人も切り捨てた。

「お怪我はありませんか、虎千代様」

「……実綱か」

 近づいてきた武士は直江実綱であった。血まみれの虎千代を見て血相を変えているが、そのほとんどが返り血であることに気付くと、ほっと肩を撫でおろす。

「俺よりも実の娘を心配してやれ」

「……ああ、いたのか」

 実の父を見て、平伏する文。その眼の冷たさを見れば、何も言わずとも理解できるだろう。この男に、親子の情など皆無であることなど。

「騒がしいのお、神五郎」

 その声に、泰然としていた虎千代も表情を変える。

「この俺の春日城、その庭先で何の騒ぎか?」

 輿より現れるは――

「申し訳ございません、大殿」

 越後守護代、長尾為景であった。

「……ほお、随分物騒になったものよな。しかし、驚かされたぞ、神五郎。俺の知る其の方よりも、随分剣が達者であったな。この者ら、弱くはなかったろうに」

「お戯れを。未熟な者が相手であっただけであります」

「くく、それにしてものぉ。何故其の方がここにおる、虎千代ォ」

 実の父を前に平伏する虎千代はびくりと震えた。

「お約束を違え、申し訳ございません」

「俺は何故と問うている」

「……文姫に、世話になったため、夜道ゆえ危険と思い供に参りました」

「ふは、くだらぬ言い訳だな。よしんばそれが事実であったとして、家臣の娘一人のために長尾家の四男が下手に出るなど、あって良いはずがなかろうが!」

「申し訳ございません」

「大殿、この件は私どもの落ち度であります。直江の教育が行き届かぬばかりに、虎千代様にご足労頂くことになったのです。お叱りは私めに」

 実綱の言葉を聞き流し、為景は転がる死体の前に腰を下ろす。虎千代と戦い、顔もわからぬようになった男を見て、太刀の拵えを見て――

「飯沼の残党か」

「飯沼の、なるほど」

 飯沼氏とは永正の乱の折、現在直江家が居城としている本与板城を治めていた存在である。為景の手によって飯沼氏は滅び、そのまま城は直江の手に渡った。

 その残り火がこうして時を経て、やって来たのだろう。

「くく、懐かしいものだ」

 血生臭い現場を見て、少し微笑んだ為景は静かに踵を返す。

「其の方が二人、始末したのか?」

「はっ」

「……そうか」

 そのまま虎千代に視線を向けぬまま、為景は輿に戻っていった。戦いの場よりも緊迫した様子の虎千代。その姿を見て文は申し訳なさそうにしていた。

「……直江神五郎。此度の件、娘に落ち度はない。俺が勝手にやったことだ。叱りつけるのであればこの俺にせよ」

 実綱ではなく神五郎、あの虎千代が自分を曲げてでもそう呼んだ。しかも、自分の娘を庇うために。実綱はそこで初めて娘に視線を向けた。

 そして、微笑む。

「ありがたきお言葉。これからも娘共々、よろしくお願いいたします」

「……ああ」

 そう言って虎千代もまた夜闇に消えていった。文は「あっ」と声を漏らす。まだ、助けてもらった礼をしていないのだ。

「文、大義であった」

「え?」

「伝えられなかった感謝は、今度伝えに行きなさい。今まで通り、仲良く、ね」

 文は戸惑う。父の眼は今までにないほど熱を帯びていたのだ。そう、先ほどと同じ、滅多に怒りなど見せない男が垣間見せた憤怒、それと同じ色が浮かぶ。

 それはきっと、彼が虎千代に向ける感情。そして文は虎千代に対する楔として機能する、そう確信したのだ。期待していなかった娘が役に立つかもしれない。そう思えばこそのまなざし。例えようのない感情が、胸に渦巻く。

 今はただ、明け透けな綾姫や虎千代が、恋しい。


     ○


 城に至り、為景の戻りを長兄晴景が出迎える。

 ひとしきり息子と話した後、為景はおもむろに実綱の後ろに立つ。

「何でしょうか、大殿」

「ふと、思ったのだ。飯沼の亡霊ども、何故あのような場所におったのかが、な」

「我らを待ち構えていた、とおっしゃられるのですか?」

「ああ。春日城下に入る前であれば気も張ろうが、中に入れば気も緩む。あの場は、待ち構えるに絶好の場所であろう?」

「……そうですね」

「だが、となると疑問が残る。何故、我らが到着する頃合いを奴らが知っていたか、という点よ。まるでこちらの行程が筒抜けのようではないか」

「……調査致します」

「うむ、頼むぞ。今回、たまたま日暮れとなったがな……次はもう少し余裕のある行程を組むのだぞ、神五郎よ。俺は其の方の才、それなりに買っておるからなァ」

 これは警告である。直江実綱は顔を歪めていた。まだあの怪物、衰えていなかったのだ。晴景に家督を譲るため、各地への根回しなど多忙を極めてなお、あの眼は全てを見通しているような気がした。越後を力ずくで手にした王。

 守護代、守護の下に置かれたナンバーツーと言う立場にありながら、その実態は守護上杉を傀儡とする越後の覇者である。その眼、些かの衰え無し。

「……まだ、早かったか」

 誰にも聞こえぬ言葉でぽつりと漏らし、直江実綱は思考を張り巡らせる。

 今日の失態と、大いなる収穫について――

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