第肆話:文姫

 虎千代は上機嫌で山を下っていた。先日、とうとう三子にて覚明を沈め、置き石を二つとした祝いに山で狩りをし、見事野兎を仕留めていたのだ。しかも道中、これまた素晴らしい色艶形の石を見つけ、城郭模型の大名役をようやく見つけた。

 こんなに素晴らしい日はないだろう、とウキウキ下山する。

 野兎の死体をぶら下げながら、悠々と寺の門をくぐる虎千代。何たる大胆不敵、坊主たちの視線が虎千代に突き刺さるも、本人はどこ吹く風であった。

 ちなみに兎であるが、一羽二羽と数える通り坊主界隈では鳥扱いとなる。宗派や寺によってルールは異なるのだが、四足歩行の動物はアウト、鳥はセーフ、という線引きがあったりもする。そういうところは鳥も兎も食するわけである。

 ただこの林泉寺、住職の天室光育の意向により動物全般の食事が禁止されていた。しかしそこは通いの体、坊主の道理など意にも介さない。

 すでに血と腸は現場近くの川で処理済み、寺の台所に忍び込んで、これまた勝手に調理を開始する。まずは井戸から汲んできた水で内臓を洗いながら、肝臓、心臓、腎臓を綺麗に取り出す。狩りたて新鮮なのでこの虎千代、食べる気満々である。

 続いて頭を落とし、四肢を断ち、皮を剥ぐ。この少年、普段からこのようなことをやっているのだろう。貴人にしては手慣れ過ぎていた。

 身と皮の間に包丁を沿わせ、ミチミチと剥がし、ブロックごとに大雑把に切り分ける。骨も関節の継ぎ目を断てば容易く外れる。あまり大きな兎でもなく解体するのにそれほど手間はかからなかった。あっという間に解体を完了する。

 さらに続いて、肝臓などの内臓を貴重な塩をこれでもかと使って塩もみする。こうすることでぬめりも取れて、かつしばらく放置してから水にさらすと血も抜ける。何度も言うがこの少年、マタギの子ではなく武将の子である。

「あぁ、世の中はぁ、ちろりに過ぐる、あ、ちろちろりぃ」

 小歌を口ずさみながら、寺の竹串を拝借し兎の胴体を思いっきり貫く。そのまま塩を塗りたくり火にかける。内臓も串打ちする。四肢は鍋にぶち込み、味噌を入れて汁物とした。間食というにはあまりに大胆不敵、この寺の坊主が見れば発狂しそうな野性味満点の野兎の丸焼きと味噌汁が完成する。

 嗚呼、素晴らしきはたんぱく質。

 寺の僧に悪いな、などと言う殊勝な感性、虎千代にはない。一度同じような物を作って、寺中見せびらかしながら食べ歩いていたら、光育に鉄拳制裁を喰らったこともあった。食べたいなら食べればいいのに、と虎千代は訴えたそうな。

 とは言えこの虎千代、同じ轍を踏むほど愚かではない。

 そそくさと鍋と丸焼きをもって、離れへと向かう。あそこは自分の領土、寺の理の外である。あそこに戻れば文句など出まい。

 そしてあそこで喰らっても、滋味あふれた匂いは届くはず。

「なっはっはっは!」

 クソガキこと虎千代は大笑いしながら自分の領土に戻った。勝利の宴、大いに騒いでやろうと離れへ飛び込む。

「むっ⁉」

 だが、その時彼に衝撃が走る。室内の風景が先ほどまでと異なるのだ。

 ありていに言えば、整理整頓が成されている。着物はきっちり折りたたまれているし、書の類も綺麗に並べられていた。太刀など久しぶりに刀掛けに置いてあった。

 そう、整理整頓、否、荒らされているのだ。

「何奴⁉」

 虎千代は激怒した。必ず、この邪知暴虐な――

「お帰りなさいませ、虎千代さま」

 室内にはなんと、直江実綱が娘、直江文がいた。もうこの時点で全ての謎は解けてしまう。彼女が整理整頓をしたのだ。見るに見かねて。

 完全なまでの善意である。しかし――

「何用だ、文」

 虎千代の眼は鋭く細められていた。完全に激怒している。これ以上ないほどの怒りをその眼にたたえていた。その眼に少し、文がたじろいだところで、虎千代ははたと気づく。これだけ綺麗にしたのだ。もしや――

「あ、あああ、あああああ」

 虎千代はそっと鍋を、その上に焼き物を、床に置いて自らの愛する『城』に向かう。城郭模型自体はさすがに触られていないが、周囲に散らかしてあった石は、ものの見事に撤去されていた。綺麗さっぱり、綺麗なだけの城がそこにあった。

 堪らず虎千代、

「あんまりだぁぁぁああああ!」

 号泣。

 この城に兵はいない。攻めてくる敵もいない。そりゃあ確かに、誰が見ても石ころが乱雑に転がっていただけである。智将宇佐美以外、初見で気づいてくれた者はいない。姉の綾も、兄の晴景も、理解できない様子だった。

 だが、それでも虎千代にとっては大事な石だったのだ。これは足軽、これは足軽大将、これは武将、などと区別して大切にしていた。

「……?」

 突然泣き出した虎千代を見て、文は驚き慌てていた。感謝されこそすれ掃除をして泣かれるとは彼女の想定に存在しなかった。そもそもいつも不遜な虎千代が泣いているのを見るのが初めてのことである。

 ひとしきり泣き、落ち着いたのか拾ってきた石を供養するように城の上に置いた。そしてとぼとぼと鍋の前まで戻ってきて、その場で味噌汁をすする。

「……しょっぱい」

 塩味が強過ぎたのだ。決して涙が混じったからではない。

 野兎の丸焼きをやけ食いしつつ、内蔵も平らげ、味噌汁で流し込む。煮込んだ四肢も貪るように喰らい、あっさりと骨だけになる。

「あ、あの、お気に触ったのであれば、申し訳ございません」

 深々と頭を下げる文。それを見ても虎千代は食を止めない。

 全て平らげた後、

「して、何用だ?」

 改めて虎千代は彼女に問う。まあ、予想はつくが。

「綾様に虎千代さまの様子を窺って欲しいと頼まれまして、それで参りました」

「ふん、それは建前であろうが」

「……え?」

「姉上は転がせても、俺は転がせんぞ。実綱の命であろう? その、さも男好きがしそうな態度もな。俺も侮られたものだな。ほんに謀の好きな男だ、実綱め」

 文は平伏しつつ唇を噛み締めながら、

「そのようなことはございません! 虎千代さまを思うは我が一念、お父様にはむしろ私の願いを聞き入れて貰ったのです。そこに、嘘偽りはありません!」

 要約すると家は関係ない、と宣った。

「別にそこは怒っておらん。其の方も大変だな、と思っただけだ。長尾家の四男風情に付きまとわされているのだろう? 俺ならばゾッとせんよ」

 満腹になったことで多少癇癪も和らいだのか、虎千代は一人碁盤の前に座り石を並べ始めた。三子で勝利した喜びは、先ほどのやけ食いで胸の内にしまい込む。そもそもまだ置き碁、互先で勝利してこそ、そこに真の達成感が生まれるのだ。

「し、信じてください」

「別に実綱には言わん。姉上にもな。俺としても姉上の相手をしてくれるのは気が楽だ。城は何かと窮屈であろうし、世代が近い文がおるのは助かっておろう。城では今まで通りにすればいい。ただ、俺の前でその気色悪い話し方はやめろ」

「きしょ……そ、その、お父様に黙って頂けると言うのは、ほ、本当、ですか?」

「ああ。そも、俺は女人というものに興味がない。肉親や乳母はともかく、世話にもなっていない他人に転がされるなど真っ平ごめんだ。源氏物語を知っておるか? あれを読めば色恋が如何に不毛か、人を堕落させるかが嫌でもわかるぞ」

 バッサリと切り捨てられた文は、観念したのか静かに息を吐き――

「絶対、お父様には言わないでよ!」

 ぎろりと虎千代を睨みつける。

「はは、それが本性か。女はまこと、化粧が巧い」

「……し、仕方ないでしょ! お父様に命じられて、長尾家四男虎千代を篭絡せよ、なんて言われたら、女は断れないの! 男のあんたにはわからないでしょうけど」

「確かにわからん。俺なら嫌だと言うし、手前で勝手にやれと言い切るがな」

「そんなんだから寺に押し込められるんじゃない?」

「これは辛辣。ふむ、随分と居心地が良くなった。我が領土を勝手に荒らした罪は、この俺の勘大なる心で許してやろう。御仏もたまげておろうて」

「あ、荒らしたとは失礼ね! このゴミ溜め、私がどれだけ苦労して掃除したと思ってんのよ! とんでもなく苦労したんだから!」

「……ご、ゴミ溜め。ぬしめ、姉上と同じことを宣いよって」

「事実でしょうに。はーあ、これで台無し。ほんと、最悪」

 文はため息を重ねて、もうどうにでもなれと足すら崩す。面白いほどの豹変ぶりに虎千代は愉快極まる、と楽しんでいた。

 道理で姉が気に入るはずである。この女、とんだ粗忽者であった。

「姉上に対しても実綱から、何か言われておるか?」

「言われてない。お父様が女のことなんて気にするわけないし……安心して、綾様を慕っているのは本当。そりゃあ、取り繕ってはいるけど、家格が上でも対等に接してくれるし、すごく、良い人だから」

「そうか。ならば、良い」

 それきり、虎千代は何も言わずに石を並べる。これだけ態度が豹変したのにもかかわらず、こうまであっさりと受け入れて、興味まで失せるとは相手に興味がなくとも、何となく面白くないものであろう。

「本当に言わないの?」

「くどい」

「お父様がなんで虎千代にこだわっているのかはわからないけれど、たぶん諦めないわよ。私で駄目なら、別の手を使ってくると思うけど」

「は、腐っても俺は長尾虎千代だ。直江の意のままになどなってたまるかよ。ただ、今は力がない。ゆえに其の方もしばらくは上手くやっているように見せよ。頃合いを見てきっちり格付けし、俺が上に立つ。それでぬしは自由だ」

「……四男なのに?」

「口の過ぎる女だな。それが出来ねば、そもそも俺は戦場のどこかで野垂れ死にしているだろうよ。生きるか死ぬか、どちらにせよぬしは自由だ」

 自身の死に対し何の頓着も見せぬ言いっぷり。まだ戦場を知らぬから、無知ゆえの強がりとも取れるのだが、どうにもその眼にそう言った色はない。

 生死を語る時、虎千代の眼は空虚そのものであった。

「わかったら黙ってくつろいでいろ。気を遣う必要はないし、要らぬ節介も不要だ。公では父の望む姿でも演じていればいい。それぐらいは合わせてやる」

「……うん」

 それきり、またしても無言。石を並べながら、時折崩し、また並べ、崩し、それを延々と繰り返し続けていた。文に視線を向けることはない。

 もはや空気と同じ扱いである。

「…………」

 虎千代に接近したのは父の命令であり、本人の意思など皆無であった。それが当たり前の時代、個人の好き嫌いなど関係ない。家にとって実のある繋がりか否か、それだけが問題なのだ。確かに顔は彼女の知る中でも図抜けて整っている。声も清らかで歌も巧く、何でも器用にこなす。最初に見た時は少しだけ喜んだ。毛むくじゃらの大男相手ではなく、真っ白な、雪のような少年であったから。

 だが、それも全ては口を開くまでの間のこと。口を開けば嫌味か悪口か、行動は奇天烈で、存外子どもっぽく、それでいて理屈屋。中身があまりにも残念過ぎて、婚姻など絶対無理だと夜中こっそりと泣いたこともある。

 どちらかと言えば、たぶん嫌いなのだろう。人間は外見ではなく中身なのだと、少女はこの歳にして学ぶことになってしまった。

 ただ、嫌いな相手であっても――

「碁、楽しい?」

「ああ。碁の世界には嘘がないからな」

「ふーん」

「興味があるのか?」

「と言うか、私も打てますけどね。教養だし」

 暇で時間を持て余すよりもマシだとは思った。

「ほう、覚明を三子で倒した俺を相手にデカい口を叩きよる」

「まず覚明を知らないし、その言い方凄く格好悪いけどね」

「……黒はくれてやる」

「よーし、勝っちゃうぞ」

 虎千代のことはどちらかと言えば嫌いだし、別に碁もそれほど好きじゃない。ただ暇だし、父にも黙ってくれるので遊ぶくらいは、そう思って――

 少しぐらい付き合ってあげよう、と一歩踏み出してみた。

 だが――

「話にならん!」

 それが墓穴であった。

「う、うう」

「このような死活すら間違える者が良くも打てるなどとほざいたわ! なんじゃこの手は、あまりにも突飛過ぎてこの俺が手を止めてしまったぞ。他にもここ、シチョウも見極められんで延々打ち込むとは話にならん!」

「あ、綾様とはいい勝負なのよ」

「……先に秤を聞いておくべきだったわ。実綱の仕込みと期待してみれば、あの阿呆な姉上と互角とは。そこに直れ、この俺が直々に指導してくれる!」

「い、いや、別に、そんなに碁、強くなくても――」

「文よ、喜べ。ぬしが記念すべきこの俺の、弟子一号だ!」

「……やっぱりこいつ、嫌い」

「なんか言ったか? まずは俺が死活の問題を作る。生き死にを答えろ。間違う度に、そうさな、石を一つずつ拾ってまいれ。形の良い石をな」

 些細な気まぐれが泥沼へと誘うこともある。彼女はまた一つ人生を勉強することが出来た。囲碁は底無しの沼、そこに気を良くした虎千代が引きずり込む。

 後にこの文、碁を特技としそれなりに名を馳せることになり、色んな意味で碁を嗜んでいて良かったと思うことになるのだが、今はただただ嫌な思いしかしていない。

 とりあえずこの一件で、文の感情がぐっと嫌いな方に傾いたのは間違いない。


     ○


 日も落ちたので文を追い出し、詰碁に間違える度拾わせてきた石を再配置する虎千代。新たに配置すると見えてくることもあり、一度真っ新にするのも悪くない、と号泣したことなど忘れたかのように上機嫌であった。

「虎千代、薬石(夕食)の時間ぞ」

「む、もうそんな時間か」

 薬石(僧は正午以降食事を取らない、とされているため食事ではなく薬と解釈。中身は普通に寺の食事である)の時間を告げに覚明が呼びに来た。

「うお、なんとまあ、あのゴミ溜めが見違えるほど綺麗になったものだ」

「直江の文がやったのだ。全く、要らぬことをしよって」

「ああ、そう言えば来客がおったのか。帰られたのか?」

「ん、つい先ほど帰っていったぞ」

「女性を一人で帰したのか?」

「腐っても直江の姫だ。供くらい連れておる。まあ、見たところ大した使い手ではないが、案山子でも連れ立っておれば春日山城下なら安全であろう」

「ふむ、いかんぞ、虎千代。そこは男の甲斐性、というものであろうが」

「……一応俺、長尾の息子なんだが。四男だけど」

「言い訳無用。夜道は危ない。如何に春日山城下であろうと、何が潜んでおるのかわからぬのが夜闇の下よ。和尚には拙僧の方から伝えておこう」

「おいこら、そもそも本当なら俺の方が供を連れ立って町を歩く立場――」

 鬼の面と太刀を押し付けられ、覚明に摘まみ出され、「何故この俺が、解せん、解せぬぞ」とブツブツ念仏を唱えるかのように虎千代は寺から出発する。

 ここは越後最大の春日山城下である。如何に夜とて何の危険があろうか。しかも文には供もいるのだ。自分が向かう意味などない。

 そもそも何もなければ追いつくこともないだろう。適当に散歩して帰ろう、と思い至り、それはそれで楽しくなってきた虎千代は嬉々として駆け出した。何事も、遊びとすれば、楽しけり、虎千代の心を表す一句であるが、そもそもこの時代連歌はあれど俳句はない。当然川柳もないのでただの言葉遊びである。

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