第弐話:智勇両輪

 長尾虎千代、長尾家四男であり母は虎御前である。庚寅年に生まれたから虎千代と名付けられた。母の格も高く、本来は末弟なれど扱いも良いはずなのだが――

 彼は現在、実父に疎まれ今は寺に住んでいた。貴人が寺に通いで学びに行くことはよくあることであるが、いくら長尾家の菩提所とは言え寺の中に離れを設け、そこで住まわせているのはあまりにも不憫、外から見ると哀れに思う。

 ただ、中身を見ると――

「……虎千代、なんぞこれは?」

「模型だ。大したものだろう。元になったものは義旧に貰ったのだが、気に食わんので手を加えている所だ。材料はほれ、山には腐るほどあるからな」

 離れの三分の一を占める一間(1.8m)四方の城郭模型が覚明の視界にどんと入り込む。大きさもさることながら、非常に凝った造りであり製作者のこだわりが随所に現れていた。虎千代の自慢気な顔を見るに、彼渾身の作品なのだろう。

「立派なものだな。ただ、無数に転がっている石はなんだ?」

「兵だ。形の良い石は武将だぞ」

「石が……兵」

 城とは打って変わり兵士にはまるで興味がない模様。普通このくらいの歳の子であれば、そちらの方に興味が向かうと思うのだが――

「これで合戦をする。如何に少ない兵数で城を攻略できるかを考え、ある程度煮詰まってきたら城を改築するのだ。そしてまた、攻め落とす。実に面白いぞ!」

「な、なるほど。それは実に楽しそうだ」

「そうだろう、そうだろう」

 嬉々として語る虎千代の素顔を見て、ああこの子も子どもなのだな、と覚明は思った。とは言え、つい先日面を外して対面した時は驚いたものである。

 切れ長の瞳に、しゅっとした相貌、刀のような雰囲気もあり近寄り辛く、他を隔絶した雰囲気もあった。ただ、寺の者に対しては比較的心を開いているのか、寺の一員になった覚明に対してもこうして子どもらしい一面を見せることもある。

「それにしても散らかっておるな」

「馬鹿を言え。全て計算された配置だ。俺が把握しているのだからな、この状態が一番いい。何でも即座に取り出せるのだぞ、太刀すらな」

「……寝る場所もないように見えるが」

「変なことを言うなぁ。そこにあろうが」

 虎千代が指さした先には着物の集合体が見えた。これで貴人の部屋だと言うのだから信じ難い話である。

「……掃き溜めにしか見えんぞ」

「坊主には見えんのだ。わかったか、ハゲ」

「……く、口も悪い」

 離れの環境も劣悪、態度も悪く口も悪い。

 光育が放っておくとも思えないのだが――

「光育和尚はなんと?」

「そもさんせっぱで言い負かした。離れは俺の領地だ、とな」

「お、和尚」

 まさかの禅問答で散らかす権利を得ていたとは覚明の想像をはるかに上回っていた。まあ確かに寺の中とは言え、長尾家が用意させた貴人の居場所と考えればおいそれと口出しできないのも道理かもしれない。

 もしくは光育にも何か考えがあるのか――

「む、虎千代は碁も嗜むのか」

 覚明はそれを見逃さなかった。散らかっている中に碁盤と白黒の石が転がっていることを。近くには開きっぱなしで放置されている詰碁集と思しき本もある。

「ほほう、さすがは坊主だな。その問い方、其の方も得手としていると見た」

 ちなみに囲碁は遣唐使吉備真備が伝えたとされる。まあ伝来に関しては諸説あるのだが、とにかく今よりはるか以前に伝わり、平安時代には公家、僧侶の嗜みとして好まれ、室町時代を経て武家や庶民にも広まり娯楽としての隆盛を極めていた。

「……ふっ、建仁寺に覚明在り、とはよく言われたものよ」

 そしてこの覚明、僧の嗜みである碁に関しては一家言あるようで、自信に満ち溢れていた。子どもに負けるとは微塵も思っていない様子。

「なるほど、ではやるぞ」

「よかろう。置き石は好きなだけ置いても良いぞ」

「馬鹿にするな。まずは互先だ」

「おいおい、私は建仁寺で――」

「其の方は俺を知るまいよ。俺もまた知らん」

 バッサリと言い切り、どんと構える虎千代を見て、覚明は「それもそうだな」と碁盤を持ってきて、二人の間に置く。

「だが、黒、先手はそちらだ。年長者として、そこは譲れん」

「ふん、まあよい。では、打つぞ!」

 黒を握り、虎千代は淀みなく右上隅の星に初手を打ち込む。覚明は逆側へ、互いに四隅の星を打ち込んですぐ――虎がカカリ、覚明の星に噛みついてきた。

「好戦的だな、虎千代」

「地を固めるのは好かん。戦は攻め滅ぼしてこそよ!」

 獰猛なる虎、この子もまた戦の世に生まれし侍なのだろう。なれば、と覚明は一間跨いで、ハサむ。それは戦闘開始の合図、

「あは」

 虎は笑みを浮かべて飛びついてきた。


     ○


 終わってみれば覚明が圧倒した一局であった。序盤、好戦的なだけあって切れ味鋭い攻めを見せ、覚明の背をヒヤリとさせたが、逆に言えば良い部分はそこだけ。年長者の威厳を示すには充分であっただろう。虎の子も隅で滅茶苦茶悔しがっている。

 ただ、覚明は驚いていた。まだ十にも満たぬ年齢でここまで打てること、特に攻めの鋭さは碁を得手とする僧の中でもかなりのものであった。覚明も嘘や見栄で自らの優秀さを誇示したわけではない。先んじて優秀であると布石を打っておかねば、負けた子供に傷を残す可能性がある。それゆえの優しさ、勝ち方も相手に花を持たせつつ指導しながら優しく終局まで持っていくつもりだったのだ。

 それが、手抜きをする余裕を与えてもらえなかった。

(……この子は天才だ。今まで多くの公家や武家に教えてきたが、この子の年齢でここまで強い子は稀。攻めの才覚たるや、この覚明をして冷や汗をかかされた)

 負けてじたばたと悔しがる様は子どもそのものであるが、攻め気を見せた時の眼、そして雰囲気は刀を突き付けられたかのような鋭さがあった。

 とても同一人物とは思えないのだが――

「虎千代よ、私と御前、何子の差と見る?」

「五なら勝てる。四で互角。ふぐぅ、悔しいよぉ」

(……私の見立てと同じ、か)

 覚明は改めて虎千代に興味を持った。若く強烈な才能、おそらく光育らに教わったのだろうが、碁の押し引き、地への感性と言うのは教わってすぐに身につくものではない。特に現代と比べ、学ぶ材料が少ないこの時代においては。

「五子だ。もう一局やろう」

「……五子なら俺が勝つぞ」

「勝てるのであれば、勝ってみなさい。ただし、私も本気を出す」

 覚明の眼を見て、虎千代は顔を引き締める。

「強いな、覚明。ジジイより強い相手は、初めてだ」

「ああ、強いよ。京でも私より強い者はそうおらぬ」

「ははは! それは良いことを聞いたぞ」

 俄然やる気が出たのか、虎千代は碁盤に五つ黒石を置き、覚明の打ち始めを待つ。今まで敵に飢えていたのだろう。その眼のぎらつきを見て、覚明は微笑む。

 この子は虎、育て方次第で――


     ○


 春日山城下を三人の侍、その供が連れ立って歩いていた。

 先頭を歩む男は理知的な雰囲気をたたえた青年であった。案内役なのか二人に時折春日山城下のことを話す様が見て取れた。

 もう一人は既に円熟を迎えた壮年であった。こちらはニコニコと微笑みながら案内役を買って出た男の説明を聞き、しきりに頷いている。

 最後の一人は大柄の青年であった。この中では最も若くそれでいて大きい。目つきも鋭く、寡黙なのか何を言っても頷きもしない。

「大熊殿、春日山城下はお気に召さなかったかな?」

 先頭を歩む男が大柄の青年、大熊に問いかける。

「直江殿、拙者にどのような返事を期待しておられるのか知らぬが、ついこの前まで戦っていた相手の腹の中、良い心地はすまいよ」

 先頭を歩む直江と呼ばれた男は苦笑する。

「争いなど越後ではよくあること。それに貴殿らは大殿(為景)を追い詰め、こちらが勝利したとはいえ首の皮一枚。臆することなどないでしょうに」

「ああ、その通りだ。臆することなど何もない。勝者はそちらだ。だのに何故、大殿は裏に回り、長兄を立てた? 勝ったのであれば堂々敗者たる我らを見下ろせば良いものを、表に出ず裏に回って小細工に奔走している。くだらぬ話だ」

「これこれ、大熊の。どんな家も代替わりに関しては難しいもの。それを外からとやかく言うは野暮であろうに。良い街並み、良い後継者であった、それで仕舞よ」

「……むぅ、宇佐美殿の言う通りであるな。失礼であった、直江殿」

「いえ、こちらも気遣いが足りませんでした」

 直江、大熊、宇佐美、彼らに共通するのは越後の武将と言う点のみである。実際は上杉家の家臣であることに変わりはないのだが、為景の傀儡と化した上杉定実が逸れに不満を抱き、天文五年に反旗を翻した際、この大熊、宇佐美はそちら側の重臣として働き、対して直江は長尾家側であった。いわば昨日の敵同士。

 しかも今回、彼らの来訪は自分たちが敗れた相手への挨拶である。気乗りするはずもない。付け加えれば彼らは事前に挨拶に伺う旨を伝えていたのだが、今回出てきたのは家督を継ぐ予定、である長兄の長尾晴景であった。

 裏で糸を引く為景は出てこないまま――

「して、直江殿。我らはどちらに向かっておるのでしょうか?」

 宇佐美の問いに直江は微笑む。

「城下も後継者殿も、どうにもお気に召さなかった様子。このまま帰すは直江家の、直江神五郎の恥。なれば一人、会わせたい御方がおられます」

「いやはや、儂は充分満喫しておるが、ふむ、会わせたい者、ときた。それはどのような御方なのですかな?」

 直江神五郎、直江実綱、のちの直江景綱が微笑む。

「檻の中の、虎児に候」

 不穏な空気に、宇佐美と大熊が眉をひそめる。


     ○


 まさか寺に連れてこられるとは思っていなかった宇佐美と大熊は、門前にて直江実綱と光育和尚が挨拶もそこそこに奥へと案内される後についていく。寺の奥の離れ、決して大きくないそこに虎児がいると言うのだ。

「こちらです」

 光育が扉を開けると、そこには――

「死ねハゲ! 一目差なんて実質俺の勝ちだ!」

「負けは負け。素直に飲み込むことだ。仏もそう言っている」

 罵詈雑言を振りまきながら悔しがる小僧と子ども相手に勝ち誇る僧がいた。皆、目を丸くしている。案内をした光育が一番驚いていた。

 おそらく、客人がいなければ怒りが爆発していただろう。

「……何をしているのですか、二人とも」

「あん、ジジイに……実綱か。今忙しいからどっか行け」

 ピクリ、虎千代の不遜な態度に大熊の目つきが僅かに険しくなる。その理由は長尾家と直江家、その関係性があってなお諱、つまり本名で呼ぶのは良しとされていなかった時代なのだ。中国より伝わった名前に関する思想が元となり、本名ではなく仮名(けみょう)や官名などで呼ぶのが通例となっていた。

 ちなみに、室町時代中後期頃より、諱呼びが絶対的に禁忌とされているわけではなくなり、敵対している武将同士が呼び合うこともあれば、目下の者が目上の者に対し諱を呼び捨てにすることが表敬に当たるケースも見られ、実は諸説あるのが現状。

 ただ、どちらにせよ本来は親子でもなければ軽々に口にするものではなく、鎌倉武士からの伝統として「無礼られたら殺す」という価値観があるため、例え目下であっても礼を欠けば斬られる覚悟も必要な時代であった。

 ゆえに大熊の反応は過敏ではない。至極真っ当な反応である。

「若様、客前でございます。せめて神五郎とお呼びください」

「嫌だ。俺は俺が呼びたい名で呼ぶ。そもそも人の名なぞ、二つも三つも覚えられるかよ。俺にそう呼ばせたければ理屈を通せ、屁理屈ではなく理屈ぞ」

 長尾家と直江家、この二つは上下関係にある。だが、当主でもない者が軽んじていいほど本与板城、一城の主は安くない。

 主に大熊を中心に空気が淀む。実綱はこの対応に慣れているのか、さほど気にしている様子は無いが、様子を窺う覚明は何が起きるかとひやひやしていた。

 だが――

「ほほう、碁ですか。どれどれ……ふむ、ほう、置き碁ですかな?」

「そうだ。五子では勝ったが、四子で負けた」

 そんな複雑な空気もお構いなしに、宇佐美は碁盤を覗き込む。四子と聞けば相当な力の差だと思うが、盤面を見る限り互いに相当荒い打ち方であり、どうにも手順が読み取れない。四子を背負う側が無理やり攻め込むことは理解できるが――

「御坊、名を伺っても?」

「覚明と申します。先日、京より修行のため参りました」

「……少しばかり聞いた名ですな。確か、将軍家の指南役にそのような者が名を連ねていた記憶があります。本人であれば相当な上手(うわて)なのでしょうな」

「人違いかと。覚明という名の僧はそれなりにおりますれば」

「なるほど」

 宇佐美は愉快げに覚明を、そして虎千代を見つめる。

「長尾虎千代さまに相違ないでしょうか?」

「如何にも」

 興味なさそうに答える虎千代。その態度にも大熊は眉をひそめる。ただ、適当にあしらわれた本人はさほど気にせず、ニコニコと周りを見渡す。まあ、見渡さずとも嫌でも目に入る城郭模型に目が行くのは当然のこと。

 そして、それを軽く見渡しただけで、

「合戦ですな」

 宇佐美は石が兵であることを見抜き、しかもそれが合戦の最中であることすらも見て取った。そこで初めて、虎千代の興味が宇佐美に向く。

「其の方が守り手であればどう捌く?」

「状況次第ですが、とりあえずはこのまま籠城ですな。城が堅牢、兵数も互角なれば、守り手側を任され負ける方が難しいかと」

「ほう……では、攻め手であれば如何とする?」

 虎千代の問いに宇佐美は目を瞑る。考え込んで、首を振った。

「手前どもは非才ゆえ、この状況であれば包囲し続け、相手の糧食が底をつくのを待つしかないと思います」

「ふむ、そうか。まあ、そうであろうな、俺も――」

「ですが、この状況になる前であれば同じ状況であっても、もう少し良い状況に持っていくことも可能ですな」

 宇佐美の言を聞き、虎千代は目を見張る。

「申せ」

「そも、この模型には戦における重要な要素が抜けておるのです」

「む、抜かりはないつもりであったが、何が足りぬ?」

「民草が足りませぬ」

「……確かに武器を持たせれば多少戦力になるが、それを言い始めればキリがあるまい。その石くれに農兵がおらぬとは言っておらぬぞ」

「いえ、民草の使い方は攻め手の戦力として設けるのではなく、守り手に押し付ける形で使いまする。この戦場に至る前より、補給線を極力絞りつつ、民草を押し込むのです。あえて逃がしてでも……儂ならば、そうします」

 宇佐美の考えは虎千代の頭にはなかったものであった。考え込み、足りなかった要素を当て嵌めることで見えてくる城攻めの神髄。

「なるほど、確かに……俺のは所詮ごっこ遊びであったな」

「いえ、若様であればいずれ思い至ったことかと。戦場を知れば、ですが」

「く、くく、あっはっはっはっは、其の方、名は何と言う?」

「宇佐美定満と申しまする」

「覚えたぞ、定満。実綱や義旧ぐらいかと思えば、なかなかどうして越後にも人材はおるものだ。俺もまだ知らぬことばかりよな。非礼を許せ」

 そう言ってあっさりと頭を下げる虎千代。こうして城から離れて住まわされているとはいえ長尾家の子が、である。

 直江も、大熊も、覚明も、頭を下げられた宇佐美も、驚く。光育以外の全員が。

「飢えさせて殺す、いや、待て。領民の家を壊し、家畜などを殺せば――」

「ハッ、挑発も通りやすくなるかと」

「ふは、なるほど、確かに道理だ。民草に火を付ければ、城主も打って出んわけにはいかぬ、と。さすれば野戦、戦も随分容易くなろうて」

 虎千代の飲み込みの早さに宇佐美は苦笑いを浮かべる。一の気付きで十を得る。なるほど確かにこれは虎児、直江がここに連れてきた理由を円熟の智将は知る。

 長尾晴景か長尾虎千代か、どうする、と言っているのだ。

(若いのに狸のような男よのぉ、直江実綱)

 されどこの虎児、果たして地を這う虎に収まる器か、宇佐美の胸もまた少しだけ高鳴っていた。晴景が悪いわけではない。彼の言っていることは正論であり、耳障りも良かった。理想があり、知識もある。だが、力に欠ける。

 越後と言う地を治めるに、一番重要なモノが――

「若様、宇佐美殿は先の上杉方についた将であり、大殿を窮地に追い込んだ幾人かの一人でございます」

「……父上をか」

「はい。そしてもう一人、連れてきております。宇佐美殿を越後きっての切れ者とすれば、こちらは越後随一の豪傑にございます」

「ほう、先ほどから俺を睨むだけの木偶の坊がか?」

「ええ。強き者は黙して語らず……若様、折角ですので一つ、大熊殿に稽古をつけて頂いては如何でしょうか。きっと、実り多き邂逅になるかと存じます」

「直江殿、拙者は手抜きなど――」

「面白い。大熊とやら、表に出ろ。加減は無用だ。誤って俺を殺しても父上は其の方を咎めたりせぬ。何なら裏で褒美の一つでもくれるかもしれぬぞ」

 虎千代は着物が折り重なった山より太刀を取り出す。

 そしていの一番に外へ飛び出した。


     ○


 大熊朝秀は最悪の一日だ、と童を前に思っていた。

 自分を追い詰めた自分たちに、力で越後の国衆を押さえつけ長尾家を確固たるものにした大人物はどのような対応をするのか、どのような顔をするのか、そこに興味があって挨拶に参じたというのに、現れたのは線の細い長兄であったのだ。

 語る言葉は耳に入らない。内容以前に思ってしまうのだ。御前は自分を率いるほどの力を持つのか、と。それを示さねば、何を言っても絵空事。

 端的に言えば長尾晴景を気に入らなかった。見栄まみれの春日城下が気に食わなかった。そもそもどこか湿っぽい越後の国衆、いや、越後自体――

「おい、雑念は捨てろ」

 そして今、元服前の子どもに刃を向けられているのだ。本人は一人前のつもりか、手加減無用などと宣うが、そんなこと出来るわけがないだろうと苦笑する。

 子どもに本気を出すなど武人の名折れである。

「捨てろと言ったぞ」

 その瞬間、大熊の眼に鞘が飛び込んでくる。突然の出来事であったが何とかそれをかわすと、追い打ちをかけるように虎千代が飛び込んできた。

「ッ⁉」

「疾ィ!」

 子どもとは思えぬ鋭い袈裟切り。その太刀筋を見て、大熊の中で子どもと言う言葉は消える。崩れた体勢、獰猛極まる刃をどう捌くか――

「ふぅ」

 力感なく、大熊はそれを、刃を滑らせるように当て、受け流す。体感したことのない手応えであったのだろう、虎千代は大きく目を見開いた。

「良い奇襲でしたな、若様」

「勝った気か、木偶の坊!」

 奇襲は失敗、それでも虎千代は笑う。目の前にそびえる高き山、今まで光育が彼の中で武の上限であった。彼の槍は強かった。父よりも強かった。

 だが、眼前の男はそれよりも遥かに強い。

 勝ち筋が見えない。だから、飛び込む。そこに迷いはない。

「暴力的ですな。そのように振り回すだけでは、刀が泣きますぞ」

 その姿勢を大熊は好ましく思った。真っ直ぐに、力で押し通ろうとする姿は湿っぽさを感じさせない。良くも悪くも、越後を感じさせない姿に――

「刃先を立て過ぎです。それではすぐに刃が潰れまする」

「む、確かに」

 傍若無人かと思えば、自らが劣ることを知ると素直になる。最初は引っ掛かるところしかなかったが、刃を合わせた今、少し心地よさすら感じている自分がいた。

「こう、こうか? こうだ!」

「見事」

 そして、飲み込みが異常に早い。大熊がそれなりの時間をかけて到達した継戦のコツを、この短時間で会得してのけたのだ。受け止めるのではなく、刃を滑らせて受け流す。むしろ刃を研ぐように――それが出来れば何時であっても戦い続けることが出来る。そこに力が加われば、剣は無双の領域へと至る。

「名は?」

「大熊朝秀と申す」

「其の方の名も覚えたぞ!」

 刃の衝突、その勢いに対して音は驚くほど小さかった。見る者が手を抜いているのでは、と錯覚するほどに。しかしこの場で、実力を見誤るような使い手は誰一人いない。皆、理解しているのだ。この歳にして虎千代の強さは怪物じみていることを。そしてそんな彼をあやしながら指導する大熊は若くして達人なのだと。

「俺の名は長尾虎千代だ。定満も、朝秀も、今日は学ばせてもらった。俺はまだまだ力が足りぬ。武も、智も、何もかも。ゆえに、だ」

 虎児は笑う。全力の斬り払いを受け流され、そのまま首元に刃を添えられながら、大熊を、そして宇佐美を見て、笑う。

「俺はいずれ其の方らを超え、従わせて見せようぞ。しばし、待て」

「「御意」」

 力がある。知恵もある。何よりも色気がある。上に立つ者としての器量がある。彼らとの邂逅は虎千代にとっても衝撃であったが、それ以上に宇佐美、大熊にとっての衝撃であったのだ。初めて心の底より、仕えたいという欲が出た。

「実綱、よく連れて来たな。感謝する」

「いえ、お楽しみ頂けたようでしたら、幸いにございます」

「感謝しておく。今日のところはな」

 これが長尾虎千代と宇佐美定満、大熊朝秀の出会いであった。片方はのちに上杉四天王に数えられる重臣に、もう片方は――

 今はまだ、どちらも想いは同じである。


     ○


 夜、客人が去り寺には静寂が満ちていた。

「ジジイ、いつまで禅を組んでなきゃいけないんだよ」

「御仏の許しが出るまでです」

「ジジイの気分次第じゃねえか、クソ。つーか覚明がいねえのはなんでだよ。あいつも修行サボってたんだろ? サボって碁してたんだぞ!」

「彼には本日、虎千代の世話を申し付けていたのです。あそこまで熱中してしまうのは想定外でしたが、本人も反省しておりますので」

「俺も反省してるんだけどなぁ」

「喝! 反省している者はそんなこと言わぬものです」

「クソがァ!」

 と、こんな感じで終わらぬ座禅、時間ばかりが過ぎゆく。

「……なあ、ジジイ」

「何ですか?」

「定満も、朝秀も、覚明も、凄いな。世の中には、他にもあんなのがいるのか?」

「……彼らはまごうことなき才人ですよ」

「それでも、いるんだな」

「……世の中は、広いですから」

「……そうか」

 今日だけで世界が大きく広がった。今までさほど気にならなかった世界が、今はどうにも気になって仕方がない。外の世界は、どれだけ広いのだろうか。彼ら以上の才人とはどのような人物なのだろうか。

 想像も出来ない。だからこそ、この眼で見たいのだ。

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