無記名墓碑

陋巷の一翁

無記名墓碑

「おはようございます」

 通学路の旗を持って黄色い蛍光テープの止められた上着を着たおじいさんの下半身は透けていた。

「おはよーございまーす」

 けれども子供たちはみんな慣れっこで下半身が透けているおじいさんに挨拶する。おじいさんは嬉しそうな顔をすると、歩行者用のボタンを押す。すぐに小学校前の交通量の多い車用の信号が黄色から赤になり、子供たちが横断する歩行者用の信号が青になる。

「ほら、渡って!」

 下半身が透けているおじいさんは黄色い小旗を伸ばして子供たちを守るように前に出て横断を手助けした。子供たちも嬉しそうにその指示に従う。それがここのいつもの光景。けれどこの町に新任の教師として赴任してきたばかりの私には違和感しか無かった。幽霊に子供を見守らせる? 幽霊なんて信用できない! そもそもなんで私がこんな田舎の町に? 私はその不満を(町への不満のことは隠して)一緒に見守っていた先輩の男の教師に話した。この町で生まれた少し先輩の教師は幽霊なんて見慣れているのか鷹揚だった。

「役に立つからな」

「役に立つなら幽霊だって使うんですか?」

「そりゃそうさ、人手不足だもの」

「そのおじいさんが事故を起こすような指示をしたら誰が責任を取るんですか?」

「さあ? だれだろうね。きっと大人の誰かだよ」

「それに幽霊じゃ車が突っ込んできた時に助けてあげられないじゃないですか!」

「車が本気になって突っ込んできたら大人だってたいして役に立たないよ」

「でも……」

「ここじゃこうなんだ。そうそう口出しするようなもんじゃない」

 先輩はそうやって私の議論を遮った。この人はいつもこう口にする。『ここじゃこうなんだ』、『ここじゃこれが決まりなんだ』と。聞き飽きた言葉だ。私はそのことに何よりも憤慨しているのに。だから私は自分で自分に言い聞かせる。あの幽霊を信じてはいけないと。絶対に絶対に信頼してはいけないと。


 けれども私の不審をよそに幽霊のおじいさんは子供達を安全に誘導し続けた。私は生徒を出迎えるという体で交差点で交通誘導のおじいさんのことを毎日向こう側から観察していたが、おじいさんが何か間違いを犯すようなことは一度も無かった。そう一度たりとも。そうして何年か年が過ぎ、子供の数も減った学校は隣町の学校と統合され、私が教える小学校は廃校になることになった。

「……」

 交通誘導をしている幽霊のおじいさんはどうなるのだろう。私の頭にふと疑問が浮かんだ。その答えはじきに明かされることとなる。


 小学校が最後の日、卒業式が終わると生徒たちと教師たちと保護者たちは皆で揃って学校前の交差点に移動し影の功労者であるおじいさんの幽霊に花束を贈ることになった。教師の中で一番若い私がおじいさんに花束を贈った。幽霊のおじいさんはそれを恭しく受け取ると、道の端にそっと置いた。それを見ていた生徒達や教師達、保護者達からは拍手がわき起こった。

「成仏してね。おじいさん」

「じょーぶつしてね。おじいさん!」

 私を除く教師達や保護者達がそう言い見守っていた生徒がそう唱和すると幽霊のおじいさんは恥ずかしそうに笑った。私はと言えばそんな風習に慣れずに口をポカンと開けたままだった。


「いい式だったろう?」

 おじいさんを見送った後、先輩教師が私に言う。

「はあ、まあ、はい」

 私はしどろもどろに答えることしかできなかった。

「これであのおじいさんも成仏しただろう」

「そう、だといいですね」

 私は口を濁してうなずいた。

 そして物語は終わるはずだった。けれど残念ながら続きがある。そう、おじいさんは成仏しなかったのだ。


 その後もおじいさんはずっと廃校になった小学校の前の交差点でじっと立ちつくしていた。いつもと変わらぬ交通誘導姿のおじいさん。もう交差点を渡る子供の姿も無く歩行者用のボタンも押されることも無い。


「ふしぎですね」

「そうだね、不思議だね。まだ未練でもあるのかな?」

 良く一緒に帰ったり買い物をしたりするようになった先輩教師とたまたま廃校になった小学校の前を通りがかると、まだいるおじいさんの姿を見て口々に言い合うこともあった。そんなことを口にしても、当然のことながらおじいさんの姿は消えるはずもなく交差点に存在し続ける。後日一人でここを通りかかったある日、私は意を決しておじいさんに話しかけてみた。


「……」

「おじいさん、ここに未練があるの?」

「……」

 答えないおじいさん。私は先輩の教師や周囲の人たちから聞かされた話をした。

「ここでずっと前、あなたの娘さんが交通事故で亡くなったのよね」

「……」

 おじいさんは顔色一つ変えなかった。

「それからずっと子供達のためにここに誘導員として立って、お亡くなりになって幽霊になっても続けてる」

「……」

「でももう、ここ渡る子供はいない。あなたの役目は終わったのよ」

「もう十分でしょう。あなたは成仏して天国だか極楽だかに行くべきだわ」

「……」

 おじいさんは答えない。

「それなのにどうしてここに留まっているの。そんなのせつないじゃない。おかしいじゃない!」

 私は叫ぶ。始めはあんなに不審に思っていたのに、今はそれが嘘みたいにおじいさんに同情してしまっていた。よくよく聞けば悲しい話だ。自分で話していて感情移入してしまったのかも知れない。私は懇願するように言う。

「おじいさんのおかげで救われた子供はたくさんいる。もう十分よ。成仏してお願いよ!」

「わしは救われてなどいない!」

「え?」

「わしは救われてなどいない!」

 おじいさんは二度うなるように言った。目をかっと開いて怒って、憎しみをあらわにして。その様子に私は驚き戸惑ったが、やがてあることを察した。私は真顔でおじいさんに向き直る。

「おじいさん」

「……」

「もしかしておじいさんはここで事故が起きれば良いと思っていたんじゃないの。子供が死ねば良かったと思っていたんじゃ無いの」

「……」

 おじいさんの顔があからさまに変わった。焦りと紅潮。そこには真実を突かれたという羞恥があった。

「……どうなの?」

 問い返す。やがておじいさんは弱々しく言った。

「……わかってしまったか」

「やっぱり……」

 私の最初の不安は正しかったのだ。おじいさんは重く口を開く。

「なぜ他の子らが娘のようにならないと不思議で仕方ない。自分の娘は苦しんで死んだのに他の子はのうのうと生きている。許せなかったとも、許せなかったさ」

「おじいさん……」

「けれどもほだされてしまったよ。子供はみんな可愛いし、素直だ。わしが間違えて旗を振ればきっと子供達はいとも容易く死んでしまうに違いないのに、ずっと信じて付いてきてくれた」

「そうね。それにあなたは間違うことををしなかった。最後の日までずっと」

「ああ」

「だったら善意でやったことと同じじゃ無い! ここで苦しむことなんて無い!」

「それは他人の目があったからだ」

「目?」

「そう大人の目、子供の目。社会の目。そしてあんたのいぶかしげな目」

「私の……」

「あんたははじめっからわしのことを信じてなかったな」

 目で笑うおじいさん。私は少し赤面した。

「それは……」

「いいんだ。その目でわしは自分の浅ましさに思い至ることができた。感謝こそそれ恨みなんて思うはずも無い」

「それでも、いつまでもここに捕らわれていいはずが無い!」

「いいや、こういうのは幽霊になった意思が大事なんだ。結果が良かったからと言ってゆるされる物では無いんだ」

「おじいさん……」

「成仏できないのは、よこしまな気持ちでこの誘導を続けていたわしへの罰だ。放っておいてくれ」

「……」

「頼む」

 力なく笑うおじいさん。私は何も言えず引き返す他なかった。それからももおじいさんは誰も渡らない交差点の前で立ち続けた。おじいさんの罪は許される日は来るのだろうか。私は人知れず祈っても見た。けれどもおじいさんの姿は消えることは無かった。



 雨の降る日。私はいまでは私の夫となった先輩教師と一緒に交差点の前を通りがかって言った。

「おじいさん、今日もいますね」

「ああ、いるね」

「どうすればいいんでしょうか……」

「そうだね。君はどうすれば良いと思う?」

「私は……」

 口ごもる。私には答えることができなかった。おじいさんの真実を彼に告げることもまたできなかった。


 それからさらに時が流れた。ある雪の降った後の冬の日、一人であの交差点を通る時のことだ。私はおじいさんの姿がふといつもの交差点から消えているのに気がついた。

「……」

 どこへ行ったのだろう。私はふらりとおじいさんの姿を探す。

「未練が無くなったのかな」

 ぼんやりと思いこんでいるとふと車道へと私の体がはみ出してしまった。そこ高速で突っ込んでくる軽トラック。急ブレーキをかけるが雪が残っていてなかなか止まらない。

「あぶない!」

 おじいさんの声だ。振り返るおじいさんは私と車の間に立ちはだかろうとし――。何もできずにそのまま車に轢かれる私のことを見送った。

 軽トラックは止まることなく私の体に向かって飛び込んでくる。

 衝撃と共に私の視界が暗転した。


 ……。

 ……。


“叶ってしまった”

“結局わしのよこしまな思いが叶ってしまった。叶って欲しくなどなかったのに、叶ってしまった”


 暗闇の世界で声だけがする。私は目を開いた。何もない白い光に覆われた場所。そこでおじいさんが一人座り込み自分のことを嘆いていた。私はそばによって座り込む。

“いいのよ。ごめんね”

 私の声なのにどこか私の声で無いように聞こえた。私はやさしくおじいさんに言う。

“悪かったのは車道にはみ出した私。おじいさんは気がついて声を出してくれた。それだけで十分だよ”

 おじいさんは無言で首を横に振った。

“いいや。こうなることは本当に望んでなかった。このまますり切れるまで幽霊のままで良かった。なのに叶ってしまった。わしのよこしまな夢が、な……”

“そうね。でもそれは仕方ないことじゃないかしら。それにこれで未練、なくなったでしょう?”

“ああ、ああ、あんたのおかげだ。これでもう未練はない”

 力なく笑うおじいさん。

 ふと、おじいさんの周りを黒いもやが包み込む。おじいさんを下に引っ張るようにもやは私とおじいさんとを引き離していく。

“何、これ?”

“おむかえがきたんじゃよ”

“おむかえ?”

“わしは地獄行きじゃ。当然だな”

 ため息をつくようにおじいさんが言う。けれども私は言い返した。

“そんなことない”

“?”

“ほら、みんなが呼んでる”

 立ち上がり確信を込めて空を指さす私。

“みんな?”

 不思議そうに首をかしげるおじいさん。私は言った。

“おじいさんのおかげで安心して学校に通えた子供達。子供達の安全を確信していた大人達。みんな今も人を信じて立派に生きてるわ。いまでも心のどこかでおじいさんに感謝してる”

“感謝……”

“だから昇って行きましょう。おじいさん”

 黒いもやは霧が払われるように消え、代わりに白く輝くもやがおじいさんを包み込む。

 目の前が白く開ける。その中をみんなの声に押されるようにおじいさんが昇っていく。私はそれを見送る。そして。


……。

……。

……。


 そこで目が開いた。私の体を飛び越えた先で軽トラックは緊急停止していた。軽トラックがたしかに私の体を通り過ぎたのに私は全くの無事だった。なにごとかが起きたのがわかった。

 止まった軽トラックから運転手が不思議そうに降りてきた。私に尋ねる。

「あんた。俺の軽に轢かれたよな?」

「いいえ、なんともないですけど」

「本当か?」

「はい。なんともないです」

「ならよかったけどよ。……気をつけろよ」

「……すみません」

 ぺこりと頭を下げる私。まだ不思議そうなのか、軽トラの運転手は首をふりふり車に戻りエンジンをかけて行ってしまった。

 周りを見回す。おじいさんの姿はない。

 探すまでもなかった。おじいさんはさっき天に昇っていったのだ。そしてこれはそのとき誰かがかなえてくれたささやかな奇蹟。おじいさんは誰も傷つけることなく、天に昇ったのだ。

「ありがとう」

 それをしてくれた何者かに。私は感謝する。きっとそれは大いなる大いなる大いなる存在。幽霊がいるのだからそんな存在もいるに違いない。私は畏敬の念を抱いた。そして思う。

「ちゃんと見てたのね。あなたは、おじいさんのこと」

 その存在は私とは違う視点でおじいさんのことを見ていたに違いない。そうしておじいさんだけではなく私を軽トラックの運転手さえも救ったのだ。感謝しても感謝しすぎることはなかった。

「この町を好きになってくれましたか?」

 だれかがそう呼びかけるて来るような気がする。

 私は無言で頷き、夫が待つ家に帰る為にまた歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無記名墓碑 陋巷の一翁 @remono1889

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ