第7話 八月二十九日

「セックスボランティア? 何ですか? それ」


 横森かなえの声は意外に響いた。俺は慌てて自分の口に人差し指を当てて横森の声量を制する。


 倉庫の出入り口で、俺を含め数人がトラックから倉庫内に運ばれて来るパレットの搬入を手伝っていた。


 幸い俺と横森の会話を気に止める他の従業員は居なかった。俺と横森は忙しい仕事の合間を縫って会話を交わす程度の余裕は持ち合わせていた。


 俺は一週間と少し前、三輪優子と会った。それ以来、優子は俺に電話を三回かけてくれたが、俺はその内二回を故意に出なかった。


「つまり、清楚な女だと思ったら違った。幻滅して会う気が無くなった。そう言う事ですか?」


 パレットを手押ししながら、横森かなえは逃げを許さない言葉を俺に浴びせる。俺は一切の言い訳を排除し、横森の推測を全面的に認めた。


「······そうかもしれない。いや。横森の言う通りだ。俺は勝手に三輪さんを自分の都合のいい様に想像していた」


 クールな表情を崩さない横森は無言で俺と言葉の続きを促す。


「······その。俺もスマホで検索して見ただけなんだが」


 俺は何か言い訳がましくセックスボランティアについて仕入れたにわか知識を横森に話す。


「身体的に問題を抱えた人への性欲の処理の手助け。有料だったり無料で行う人もいるらしい」


 俺は何故か横森から目を反らしながら抑揚の無い声を発した。俺は何か後ろめたい気持ちを持った気分になっていた。


「······いい機会かもしれませんね」


 パレットから荷物を下ろしながら、横森は静かにそう言った。


「機会?」


「ええ。以前、鏡さんは言いましたね。男が女に向ける愛情は性欲がセットだって。性欲が無くなった今、果たして男は女に愛情を持てるのか。若しくは人間として、友人として付き合えるか。自分の想像と違った相手なら尚の事いい機会だと思います」


 俺は横森の長台詞に必死に脳を働かせ考える。性欲が失われた今、男が時間と金をかけて女に取り入る必要は無くなった。


 だが、人間は孤独のままじゃ生きていけない。だがら俺は三輪優子と会う事にした。これからは男女関係無く人との繋がりが必要だからだ。


 だが、若く清楚な三輪優子は俺の想像を超えるボランティア活動を生き甲斐としていた。


 女に勝手に期待して勝手に裏切られと感じて落胆する。以前、性欲があった頃には腐る程経験して来た事だ。


 だが性欲が無い今、俺は三輪優子に失望する理由は無い筈だ。その証拠に心が痛む訳では無い。


「······横森は、相手に損得勘定抜きで向き合え。そう言っているのか?」


 俺は逸していた両目を横森に向ける。今度は横森が視線を他所に向ける。


「そこ迄は言っていません。相手がある事ですから。自分に合わない相手と無理に付き合っても苦痛なだけです。問題は向き合う価値を相手に見出すかどうかだと思います。所詮、人間関係って自分に利益があるから成立するものでしょう?」


 繕う事を放棄した様に、横森は本質的な事を俺に問いかける。俺はその直接的な物言いを咀嚼するのに時間がかかった。


「私的に本音を言わせて貰えば······」


 俺の返答を待たずに、横森が珍しく躊躇いがちに言葉を続けた。


「私は世界から性欲が無くなって以降、鏡さんと本音で話せる様になりました。性欲があった頃とは比較出来ない位に」


 意外な横森の言葉に俺は戸惑う。これは彼女の友好的な表現と取っていいのか俺は迷う。


 その時、俺の脳裏に三輪優子の優しい笑顔が思い起こされた。


「······俺もだ。横森。今の方が、俺は自分を偽らず横森と話せる。世の中がおかしな事になっても、いい事もあるのかもな」


 俺は素直に心のままの気持ちを言葉にした。横森は無言で自分の仕事をこなし、俺もそれに倣った。


 

 ······三日後の休日。俺は三輪優子を誘い前と同じカフェで会う事にした。俺はカフェに向かう途中、念仏の様に自分を何度も戒めていた。


 先入観を捨てる。とにかく人を決めつけない。相手の。優子の話をとにかく聞くんだ。それからだ。それから三輪優子という人間を考え、自分と人間関係が築けるか判断するんだ。


 優子はセックスボランティア活動を生き甲斐だと言っていた。その経緯に至った彼女の気持ちを聞くんだ。


 俺にそれが理解出来るかどうかまるで自信は無いが、目が見えない優子のあの優しげな笑顔は確かに心地が良かった。


 ふと俺は交差点手前で足を止めた。今は誰もが性欲を無くしている。では、優子がセックスボランティアをする相手も皆無の筈だ。


 今年の三月以降、優子はセックスボランティア活動を確実にしていない。生き甲斐とまで言い切ったボランティア活動が出来なくなった優子。


 それが優子にどんな影響を与えていたのだろうか? 彼女は落胆したのか? 失望したのか? 自分の存在意義を見失ったのだろうか?


 そんな誰かにすがりたかった時、偶然道で出会った親切な相手に連絡先を聞いてきたのか?


 ······交差点の信号が青に変わった。俺は無駄な妄想を振り払い、カフェに向かって再び歩き出した。


 男と女の間に友情は生まれるのか。人々の中から性欲が無くなると言う異常事態の最中、俺はそんな事を考えていた。


 否。こんな事象にならない限り、俺は男女の友情についてなんて真剣に考えもしなかっただろう。


 晩夏が静かに迫る昼の盛り、俺の視界には、新しい友人になるかもしれない相手が待つカフェの看板が映っていた。


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その日から、人間は性欲を無くした @tosa

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