第6話 八月二十日
「鏡さん。最近何かいい事でもあったんですか?」
倉庫の広い通路で、荷物が満載されたカートを押す俺に同僚の横森が話しかけてきた。忙しかった俺は曖昧な返事をしてその場を通り過ぎて行った。
世の中から性欲が失われてから、俺と横森の会話は以前より遥かに多くなった。性欲が無くなった俺は美人でクールな横森に何の下心も持たず、また気取って話す必要が全く無かなった。
何も計算せず自然に話せば、女性もそれと同じ対応をしれくれるのかもしれない。これまでの俺は無意識に女を二種類に分けていた。
恋人として対象か、対象外かのどちらかでだ。俺はその事について特段自分だけがおかしいとは考えていなかった。
大抵の男女が相手の第一印象で似たような事を考えると俺は思っていた。では、この前出会ったあの女性はどうだろうか?
目が不自由で杖を探していた女性。俺はほんの気紛れで手助けをした。彼女は俺と神に対して丁寧に礼を述べていた。
彼女は三輪優子と自分の名を名乗った。突然自己紹介されたので、俺も思わず名乗ってしまった。
優子はバックからスマホを取り出し、俺の連絡先を聞いて来た。若く美人な女にそんな質問をされたら喜んで答える俺だったが、性欲が皆無の今、そんな気分にはなれなかった。
礼など結構ですと返答する俺に、優子は尚も必死に連絡先を聞いて来た。仕方なく俺は電話番号を口にすると、優子はスマホの画面に素早く指を滑らした。
目が見えない彼女のスマホは電話機能優先の設定がされており、優子は数字の配列を記憶していた。そして口頭で聞いた俺の番号を正確にタップして行った。
すると、ズボンのポケットに入れていた俺のスマホが鳴った。優子は自分の番号が俺に伝わった事を確認すると、心から安心したように微笑んだ。
「怪しいですね。宗教の勧誘じゃないんですか?」
休憩時間、向かいの椅子に座る横森の容赦無い物言いに、俺は途端に心寒くなった。確かに三輪優子と名乗った女はクリスチャンと思われる言動が見られた。
あれから俺は、何度か電話で三輪優子と話した。そして今度の休日に彼女と会う事になったのだ。
その経緯を同僚の横森かなえに話すと、横森は合点が言ったと言わんばかりに頷いた。
「鏡さん、最近表情が明るかったから。そんな理由があったんですね」
だが、三輪優子と会う事を話すと、横森は途端に怪しそうな表情を見せた。よく考えたらそうかもしれない。
杖を拾っただけの相手に連絡先など聞くだろうか? 何か三輪優子に思惑があるのかもしれない。
例えば横森が言うように宗教の勧誘とか。それにしても、何で性欲が無くたったのに三輪優子との出会いでおれは機嫌が良かったのだろうか?
「その三輪優子と言う女性に対して、鏡さんは性的な目で見ていましたか?」
横森のストレートな質問に、俺は首を横に振る。
「性欲があった頃なら間違い無く俺は三輪優子をそう見ただろう。だが、今はそんな気も無い。じゃあ、俺が三輪優子と出会って浮かれていた理由は何だろう? 友情とかそう言う物を俺は求めているのかな?」
自分でも不鮮明な考えを俺は横森に聞いてしまった。横森は暫く考え込むように両腕を組んだ。
「······そうかもしれませんね。人間は社会的な生き物で孤独を忌避します。性欲が無くなって男女間の繋がりが無くなった以上、人は代償行為として以前よりも他人に友情を求めるのかもしれませんね」
横森の仮説に、俺は大いに頷いて納得した。確かに俺はこの先ずっと独りかもしれないと危惧していた。
その時、俺の頭の中にある疑問が浮かび上がった。それは、前々から思っていた疑問だった。
「横森。男女間の中で友情はあると思うか? 性欲が普通にあった頃の話だ」
俺の質問に、横森は両目を閉じて首を横に振る。
「難しいですね。あると断言する人もいれば、否定する人もいる。私個人の意見は否です。男女間に友情は成立しません。でも、世の中がこうなった以上、男と女の間で友情が成り立つかもしれませんね」
横森の言う事に俺は最もだと同意する。そうだ。性欲が失われたからと言っても人間は独りじゃ生きていけない。
男女間の友情。俺は三輪優子にそれを求めていたんだ。新しい友人が若くて綺麗な女性なら言う事無しだ。
こらからの人間社会は、そうやって互いに肩を寄せ合って孤独を感じない様に過ごして行かなくてはならないんだ。
俺はそう思い込み、それが唯一の答えだと自分に言い聞かせた。そして次の休日、俺は駅前にあるカフェで三輪優子と待ち合わせた。
優子は清楚な白いワンピース姿で店の前に現れた。店内のガラス越しにそれを視認した俺は、一度店の外に出て優子を店内に誘導した。
空調が効いた涼しい店内で、俺と優子の会話は弾んだ。初対面同士、互いの情報を色々と話し合う。
優子は二十四歳。十歳の時に病気で視力を失ったと言う。現在教会で修道女見習いとして働いているらしい。
俺は内心で少し警戒していたが、優子は宗教の勧誘を匂わす話は一切しなかった。
安心した俺は警戒心を解き、優子に仕事について質問する。修道女見習いとは教会でどんな仕事をしているのかと。
すると、優子は嬉々としてその内容を話し始めた。調理、掃除、祈祷と言った教会内での日常的な仕事や、養護施設などへの慰問や様々なボランティア活動もしていると言う。
「へえ。ボランティアか。三輪さんはどんなボランティアをした事があるの?」
すっかりリラックスした俺は、会話の流れから自然な質問をしたつもりだった。だが、この一言で優子の表情は一変した。
終始和やかだった優子の顔から笑顔が消え、みるみる内に優子の顔色が悪くなっていく。そして限界を迎えたのか優子は泣き出した。
「ど、どうしたの? 三輪さん?」
俺は慌てて優子に話しかける。優子はバックからハンカチを出し自分の涙を拭う。
「······す、すいません突然。急に思い出してしまって」
弱々しい声で優子は俺に謝罪する。優子は教会でのボランティア活動に熱心だったらしい。
盲目の自分でも人の役に立てる。そんな思いが優子の心を支えていた。だが、優子が一番大切にしていたボランティア活動が突然出来なくなった。
自分の支えが失われ、優子は戸惑った。だが表面上は普通に教会で過ごしていた優子だったが、俺の言葉で心が揺り動かされたらしい。
「そうだったのか。三輪さんの大切にしていたボランティア活動ってどんな内容なの?」
優子が落ち着き始めた頃合いを見計らって、俺は優しい口調で質問する。優子は気分を変える様に再び微笑して口を開く。
「はい。セックスボランティアです」
優子は笑顔のままそう言った。その言葉を俺の脳が理解した時、俺の表情は石像の様に固まっていた。
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