第5話 八月三日
······世界から性欲が失われてから五ヶ月が経過した。世の中に異常な現象が蔓延していても、俺の忙しない労働環境は変わらなかった。
倉庫の中をひたすら往復する毎日。性欲が無くなっても人の物欲は相変わらず旺盛だった。
いや。むしろ性欲と言う一つの人間の欲求が失われ、人は無意識にそれを他の物で埋めようとしているのでは無いか?
例えばその一つがネットショッピングだ。人々は物欲を満たし、自己の中に欠けた要素を紛らわせようとしている。
そうで無くては最近の過剰な仕事の量が説明出来ない。人がスマホでワンクリックすれば、倉庫に運ばれる荷物が一つ増える。
同僚の横森が人類はあと百年持たず滅びて行くと言っいたが、俺の様な労働者は日々の生活で手一杯であり、人類の未来など構っている暇は無かった。
だが、性欲と言う人間の本能が失われた世の中では、多大な影響が出始めでいた。先ず避妊具を商品とする企業が大ダメージを受けた。
当然と言えば当然かもしれない。性欲が無い者が避妊具を使う理由が無い。スマホのネットニュースには、それらの企業の倒産報道が連日の様にされていた。
そしてラブホテルだ。この五ヶ月。ラブホテルの利用者は殆ど皆無だったらしい。稀に利用するのは終電を逃し寝床として利用する者達のみだった。
街のラブホテルは次々と閉鎖されて行った
。そして一般のホテルも無傷ではいられなかった。
男女のホテルの利用者が激減した。逆に言うと、普通のホテルをラブホテル替わりに使っていた男女がこれまで多くいたと言う事だった。
そして本屋やコンビニから主に男性読者を対象とした成人向けの本や雑誌が消えた。購入する者がいないのだから仕方ないだろう。
只でさえ不況の出版業界に更なる不安材料が加わった。そしてアダルトビデオの制作会社。スナックやバー。風俗業界も同じ様に利用者が無くなり、働き手達は次々と失職して行った。
休日、テレビから流れてくる国会討論を珍しく俺は眺めていた。世の中から性欲が無くなり、経済に影響を及ぼし始めたこの問題を国も無視出来なくなったらしい。
『男女間に置ける生理現象の退化』
国会やメディアは公の場で「性欲が無くなった」と直接的な表現で言えないらしい。生理現象の退化と連呼する政治家達やニュースキャスターを見て苦笑してしまった。
だが、国民の代表者達は真剣な面持ちで「男女間に置ける生理現象の退化」について議論していた。
現在原因究明に全力を尽くしており、国民の皆様は不安に駆られず安心して今まで通りの生活を過ごして下さい。
首相はマスコミのインタビューでそう答えた。なる程。原因究明か。この現象の原因が分かるのならそれは大した物だ。
だが、首相に心配されなくても俺達は今迄通り変わらず生活している。その時初めて感じたが、性欲が無くなっても特段困る事は無かった。
むしろ性欲に関連する出費が無くなって、その分他に回せると気づいてしまった。最も、性欲に関連する仕事に就いていた人達はとんでもない災厄だが。
六畳間の古びた壁紙に背中を預けながら、俺は漠然とした不安感に襲われていた。このまま原因が分からなければ、人類はあと百年で絶滅する。
二十七歳の俺がその瞬間を目撃するのは無理な話だった。そもそも、そんな先の未来を想像するのは困難極まり無かった。
それよりも、このまま自分は一人で生きて行くかもしれない。その孤独な想像は容易に出来た。
以前、同僚の横森にも言ったが、男は女に対して性欲と愛情はセットだ。性欲が無いのに女に近づこうと思うだろうか?
答えは否だ。少なくとも俺はそんな気にはなれない。随分長い期、恋人が不在だった事も影響しているのかもしれないが、今の俺は恋人が欲しいとは全く思わなかった。
だがそうすると、このまま俺は一生独りで生きて行く事になる。パートナーが欲しいと思わないのだから当然だが、それを迷い無く受け入れられない自分が何処かにいた。
自炊する気も起こらず、俺は外食する為に外に出た。夏本番の日差しは、人間達の悩みなどお構い無しに容赦なく降り注ぐ。
人気の少ない住宅街の交差点で、誰かが倒れていた。倒れていたのは長髪の女だった。地面に落ちていたのは白い杖だった。
視力に障害がある者が使う杖だ。女は必死に手探りに杖を探していた。俺は女に構わず通り過ぎる。
今は偽善者ぶって親切心を表現する気分じゃなかった。俺が何もしなくても女は杖を探し当てるだろう。
そうで無くても、誰かが通りかかった時手助けをするかもしれない。俺には関係無い事だ。
誰がどうなろうと知った事か。それよりも俺はこの先の孤独をどつすれば解消出来るのを悩んでいた。
交差点から数十メートル離れた所で俺は後ろを振り返った。遠目にも女はまだ立ち上がっていなかった。
俺は鋭く舌打ちをすると、今来た道を引き返した。女に近づく度に、俺は何の得にもならない事をする間抜けな奴だと自分を罵っていた。
「どうぞ」
俺は落ちていた白い杖を女に手渡した。一瞬驚いた様子の女は、恐る恐る俺から杖を受け取った。
「······ご親切にありがとうございます。バイクの音にびっくりして倒れてしまって」
両目を閉じたままの女は若く美しかった。女は白いスカートの埃を払いながら立ち上がるすると杖を脇に抱えたまま両手を組み始めた。
「神よ。感謝致します。主と主が使わした心優しき男性に」
女は真剣な表情と声でそう言った。俺は強い日差しも忘れて、暫く口をぽかんと開けていた。
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