第4話 七月八日

 あれから三ヶ月が過ぎた。あれとは同僚の横森に言わせると、世の中から性欲が無くなった日だ。


 三ヶ月も経つと流石に世間の人々は気付いたのだろう。最初はネットの掲示板だった。


《俺の性欲が急に無くなった件》


 誰かが立てた板に、物凄い勢いで書き込みが殺到した。ほんとんどが共感や賛同であり、似たような板がネット上で無数に増殖して行った。


 次にテレビのワイドショーがその騒ぎを取り上げた。ある程度今の現実を理解していた俺は、俯瞰した見方でワイドショーを見た。


 コメンテイター達は互いを探る様な目つきで無難な言葉を選び、その場は特に盛り上がらなかった。


 所がその流れが変わった。歯に衣着せぬ言動で有名な初老のタレントが、生放送番組で突然自分の中で性欲が消え去ったと叫んだ。


 そこから有名人達が雪崩をうって同様の事を言い始めた。自分だけがおかしいのか。そう思っていた一般庶民は、テレビから流れる有名人達の驚天動地の事実を知り安堵した。


 自分だけでは無い。どうやら世の中全ての人間達が性欲を失ったのだ。皆同じだ。何も恐いことはないのだ。


 人々の内に抱えた不安が一旦取り除かれ、心の中に平安が訪れる。そして一時が過ぎれば、また人々は新たな不安を抱える事になるのだった。


「······これから世の中はどうなるの?」


 街頭インタビューで答えた若い学生のその一言が、人々の不安を全て語り尽くしていた。


「······どうなると思う? 横森?」


 職場の休憩室で、俺と横森はテーブルを挟んで深刻な話題を話し合っていた。深刻な話題とは勿論世の中から性欲が無くなった件だ。


 最も、真剣なのは俺だけで、横森は退屈そうな表情で紙コップを満たしていたカルピスウォーターを口に運んでいた。


「鏡さんは? どうなると思います?」


 質問に質問を返され、俺は深くため息をついた。


「······余りに壮大な問題だから俺には考えもつかないよ。でも、単純にこのまま人間から性欲が無くなったら、当然子供も生まれない。そうすると、人類の存続が危ぶまれる。頭に浮かぶのはそれ位だ」


 俺は横森に素直に思っている事を伝えた。すると横森は真面目な表情で頷く。


「私も鏡さんの考えに同感です。この現象が続けば、人類は滅びるでしょう。余計な事を付け加えれば性欲が無くなった日。つまり三月一日までに懐妊した女性が生む子供達が人類最後の世代になるでしょう。そして一つだけはっきりとしている事があります」


 横森の思わせぶりな言葉に、俺はそれは何かと質問する。


「私達一般庶民に出来る事は何も無いと言う事です。この現象に幾ら恐れ慄いても。パニックになっても。何をしても無意味です。要するに私達はこの現象を受け入れていく他無いんです」


 淡々と。そして乾いた口調で横森は言い切った。そして言い終えると同時に空になった紙コップを持ちながら椅子から立ち上がる。


「······横森は。その。恋人とは何も問題は無いのか?」


 俺は去ろうとする横森に聞きにくい事を聞いた。彼女の居ない俺には分からないが、世の中の恋人同士はどう過ごしているんだ?


 すると、一度立ち上がった横森は再び椅子に腰をかけた。


「······向こうがどう思っているのか分かりません。ですが、私は何も問題はありません。そもそも私は性欲が薄かった方ですから」


 横森はクールな表情と声で言いにくい事を平気で言う。少しずつ慣れて来たが俺はまだそれに戸惑っていた。


「鏡さんはどうですか? 性交渉が無くてもパートナーと上手くやって行けますか?」


 横森は真顔で返答しづらい事を聞いてくる。だが、正直に物を話す相手にはこちらも正直にならなくてはならなかった。


「俺には彼女は居ないよ。でも。仮に居たとしたら。関係を続けるのは難しいと思う。その。横森は軽蔑するかもしれないけど、男は性欲と愛情がセットなんだ」


 馬鹿正直に告白した俺に、横森は相変わらず真面目な表情を変えない。


「別に軽蔑しませんよ。男に性欲があるから人類はここまで存続して来たんです。世の女達は男の性欲を悪しざまに罵りますが、それが厳然たる事実です」


 だが、それを浮気の正当化に使う男は論じるに値しない愚か者だと横森は付け加えた。


「······試されているのかもしれません」


 唐突に横森はそう呟いた。


「試されている? 誰に? 何を?」


 何も分からない俺の質問に、横森は再び椅子から立ち上がった。


「神か仏か悪魔か。それとも自分の庭で好き勝手に暴れていた人類を冷ややかに見ていた地球か。いずれにせよ私達はあと百年持たずに絶滅します。性欲を失った人類がその百年の間にどれだけ精神的な進歩を遂げられるか。それとも発狂しながら狂い死にしていくか。これまでの人類史の中で最も密度の濃い百年になるでしょう」


 少し喋り過ぎた。横森は最後そんな表情をして去って行った。余りにスケールの話の内容に、俺は何故か自分の年収を頭に思い浮かべていた。


 ······年収二百万弱の低所得に悩む俺には手に余る問題だ。人類最後の百年なんて。俺は思考を停止させ、残り十分の休憩時間を身体を休める事に費やした。

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