第3話 五月十六日

「鏡君。ぼうっとしてちゃ駄目だよ?」


 職場で同じミスを二度繰り返し、俺は女上司から叱責を受けていた。俺は必死に雑念を振り払い、巨大倉庫の中での仕事に集中する。


 昨日、レンタルビデオ屋からアパートに帰宅した俺は、いつものルーティンを無視してスマホのアダルト画像に食い入った。


 だが、レンタルビデオ屋のアダルトコーナと同様に、俺の中の性欲が全く反応しなかった。


 ビニール袋に入ったままのコンビニ弁当を無視し、俺は必死にスマホでいくつかの事を検索した。

 

 横森が言った通り、ここ一ヶ月直近の性犯罪事件は見当たらなかった。出てくる事件は一ヶ月以前の物ばかりだ。


 そして「性欲減退」と文字を打ち検索する。だが、出て来るのは医療記事や怪しげな健康食品ばかりだった。


 その日以降、俺は街を歩く時男女のカップルと思われる人達を観察する様になった。するとどうだろう。


 腕を組む者。手を繋ぐ者が一組もいなかった。わざわざ休みの日を使って若者か闊歩する街を見に行っても結果は同様だった。


 大勢の人々が行き交う街の中で、俺は一人呆けていた。その後牛丼屋でスマホをいじり検索する。


 ここ最近の芸能界でのゴシップ記事を探すが、いずれもここ一ヶ月より前の記事ばかりだった。


「······どうなっているんだ?」


 半分残しままの牛丼に視線を移した時、ガラスの窓の外を歩く若い女性が目に止まった。


 モデル体型のその女性は、胸が大きく開いたブラウスを着ていた。その時、俺は呆然とした。


 ······そうだ。俺は街中を歩く時、好みの女の胸や尻をいつも見ていた。盗み見とはとても言えない下手な。そしてあからさまな視線で。


 それがどうだ? 今俺の前を横切って行った女の胸を見ても何も感じなかった。いや。違う。胸を見たのは何時もの癖で反射的にだ。


 そもそも見たいと俺は思っていなかった。 そうだ。ここ最近、俺はすれ違う女の身体を見ていなかった。


 俺の中で。いや。もしかして世間の中でも何か異変が起きているのだろうか? 俺は食べかけの牛丼に気付かず俯きながら考え込んでいた。


「······横森。前に言っていた仮説ってヤツを教えてくれないか?」


 翌日。俺は職場で荷物を載せた台車を押す横森かなえの背中に話しかけた。横森は静かに俺の方を振り返る。まるで「来るのは分かっていました」みたいな顔をしていた。


「いいですよ。休憩時間に話しましょう」


 横森は淡々とそう言って再び台車を押して行った。俺も巨大倉庫の中を這いずり回る仕事に戻る。


 そして休憩時間。俺と横森は休憩室の片隅にあるテーブルで向かい合う。


「結論から言います。どうやら世の中から性欲が減退。若しくは失われたと思われます」


 横森の突然の結論に、俺は息が止まる思いだった。俺自身と周囲の奇妙な現象。その謎の答えを横森はいとも容易く言い放った。


「私が最初に異変に気づいたのは恋人の行動です」


 横森はまた淡々と。そして極めてプライベートな事を話し始めた。横森が一緒に暮らしている恋人は、横森から見ても性欲が強い傾向にあったと言う。

 

 時間や場所を選ばず、とにかく横森の身体を強く求めて来るらしい。そんな恋人がある日を境に突然横森の身体に触れなくなった。


 自分への気持ちが冷めたのかと横森は危惧した。だが、恋人の横森への態度は全く変わらず、何時もの様に仕事が終わると寄り道もせずに帰宅するらしい。


 恋人の浮気疑惑をはっきりとさせる方法を横森は知っていた。横森は恋人の目を盗み、恋人のスマホを調べた。


 だが、浮気を匂わす証拠は何も出なかった。恋人の性欲が鳴りを潜めたのは一時的な物。


 横森はそう自分を納得させ、恋人との生活におかしな空気が流れないように気を払った。


 心の中に残るしこりを抱えた横森が異変に気づいたのは、懇意にしているあるカップルに会った時だった。


 そのカップルは人目も憚らず常に互いの身体を寄せ合っている恋人同士だった。カフェで待ち合わせした横森は驚愕した。


 そのカップルが手も握らず離れて椅子に座っていたのだ。だが、横森の恋人同様に、そのカップルも特に喧嘩をした様子は伺えなかった。


 カップルと別れた後、横森の視線は自然に街を歩く恋人達に向かった。そして横森は再び驚く。


 街中を歩く男女が誰一組として腕を組んだり手を繋いだりしていないのだ。呆然とする横森はスマホで所構わず検索する。


 性欲。恋人。仲違い。頭に思いつくワードを指で液晶画面に打ち込んで行く。画面には医療記事。性犯罪や芸能人の熱愛報道の記事が出てきた。


 世間は。世の中は何も変わっていない。内心で胸を撫で下ろす横森は、ある事に気付いた。


 記事に表記された事件や報道の日付だった。それは、横森の恋人が身体を求めなくなった日より以前の物だった。


「······それは。つまり?」


 つばを飲み込む事も忘れた俺は、乾いた口を動かし少々掠れた声で横森に質問する。


「三月一日。この日を境に世の中の人々から性欲が無くなった。それが私の仮説です」


 横森の返答に、俺はようやくつばを飲み込んだ。その音は、騒々しい休憩室の中で不思議と頭の中に響いていた。


 

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