第2話 五月九日
かつて女性に突然誘惑された事が俺の人生に於いてあっただろうか? それも突然自分の胸に俺の手を押し当てるなんて。
俺は激しく混乱した。だが、その最中俺は何かの違和感を覚えていた。女の。しかも好みの女の胸に自分の手が触れているのに、反応すべき物がまるでしなかったのだ。
「······勃たないですか?」
小柄な横森が俺を見上げながら唐突な質問をする。た、勃たない? それって何がだよ? い、いや。そんなモンは一つに決まっていた。
「よ、横森。これは一体何の真似だ? 俺には全く意味が分からない。ちゃんと説明してくれ」
横森の豊かな胸に触れていた右手を俺は引き抜き、動揺しながらも至極真っ当な質問をする。
横森が俺を誘惑するケースは残念ながら無い。彼女は俺を歯牙にもかけていなかった。では横森の悪質な悪戯か? これも生真面目そうな彼女からは考えにくかった。
要するに俺には彼女の行為の理由がまるで分からなかったのだ。
「ごめんなさい。鏡さん。私の都合で貴方を実験台にしました」
横森は礼儀正しく俺に頭を下げて来た。実験台? 俺が? 何の?
「······何の実験台だ? 詳しく話してくれ」
彼女の俺への評価点数を最早気にせずに済む俺は、余計な愛想を加えず地で話す事にした。
「······鏡さん。最近。いえ。ここ一ヶ月位周囲や世間が妙だと思いませんか?」
横森は伏し目がちにその理由を話し始めた。俺には何が妙なのか皆目検討もつかない。
「ゼロなんです」
「······何がゼロなんだ?」
「ここ一ヶ月程の女性暴行事件です。猥褻行為も同様です。ネットでくまなく調べましたが、一ヶ月間この国で性犯罪が発生していないんです」
クールだとバイト仲間達に評判のその両目を俺に向ける。性犯罪が起きていない? そんなのたまたまだろう。
性犯罪は親告罪って聞いた事がある。事件を表沙汰にする事を嫌う被害者が泣き寝入りするってケースが多いんじゃないのか。
偶然表に出る事件が無かった事が続いているだけだろう?
「街中もおかしいんです。並んで歩く男女が腕を組んだり手を繋ぐ事が無くなったんです。ひと目をはばからずイチャつく若者達もです」
性犯罪の次は男女の腕や手だって? それが何だって言うんだ? 意味が分からない。
「鏡さん。ここ一ヶ月の間女性と性交渉、若しくは自慰行為をしましたか?」
横森は真面目な表情でとんでもない事を聞いて来た。顔も大した事無いし低収入。そんな俺に恋人などいる筈も無かった。
だったら当然自慰行為なんて日常茶飯事に······内心で記憶を反芻しながら俺は思考が停止した。
······してない。俺はここ一ヶ月自慰行為をしていない。俺は必死に一日のごとに記憶を遡って行く。
アダルトDVDもレンタルしていないし、スマホでアダルト画像を見る事もしていない。そうだ。何でだ? 何で何もせずに耐えられたんだ?
「何か思い当たる事がある様ですね。鏡さん。私の仮説を聞いて貰えますか?」
横森が一歩俺に近づき、俺はその分後ろに下がった。この時の俺は、表現し難い異様な恐怖感に襲われていた。
「······よく分かったよ横森。要するにお前は俺をからかって楽しんでいるんだな?」
何か言いたそうな横森を俺は睨みつけ、踵を返しその場から去って行った。その日の仕事帰り、俺は疲れも忘れ大股でレンタルビデオ屋に向かった。
横森の奇妙な話を聞いて以降、俺の中に質の悪いモヤモヤが無くならなかった。それを払拭する為に一ヶ月振りの自慰行為に及ぶ。
まるでそれが全ての解決方法であるかの様に。俺は店内のアダルトコーナに足を踏み入れた。
「······誰も居ない」
アダルトコーナは俺以外、無人だった。横森の顔が頭を過ぎったが、それを振り払い借りる為の作品を品定めして行く。
俺を誘惑する様に半裸、または全裸の女性がパッケージに映っている。だが、どの作品にも俺の手は伸びなかった。
借りようとする意欲。否。性欲がまるで湧いて来なかったのだ。また横森の顔が脳裏に浮かび、俺は無理やりパッケージからDVDを抜こうとした時だった。
手が触れたパッケージの上下左右に置かれている作品。どのDVDも誰にも借りられる事なくパッケージに収まっていた。
俺の足は自然に動きたした。俺はアダルトコーナに置かれている作品を虱潰しに確認し始める。
······一枚も無い。このアダルトコーナに置かれている数百枚のDVDは一枚も借りられる事なく棚で沈黙していた。
俺は後ろから聞こえる客を迎える店員の声を聞きながら、呆然とその場に立ちすくんでいた。
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