婚約破棄される予定の悪役令嬢はとにかくがんばるしかない(短編)

雨傘ヒョウゴ

悪役令嬢がんばる

 彼女、ルカ・シドニスはひどく絶望していた。

 貴族学院の卒業の場であるダンスパーティーの会場には、それこそ多くの生徒達がひしめき合っている。眼前には白銀の青年が真っ直ぐに立っていた。月のような金の瞳は、じっとルカを睨んでいる。それこそ、愛する人の敵である彼女を。


 彼の隣にいる、マーナ・ドランテタルが震えながら青年の腕にすがりついた。愛しい少女を、彼――――イージオ・マケッナは優しく抱きしめた。


 その場所は、本来はルカのものであるはずなのに。彼女は静かに唇を噛み締めた。ここは断罪の場である。公爵家令嬢である彼女は、憎いマーナをいじめにいじめた。すでに証拠は揃っている。彼女の黒々しい髪は魔女と蔑まれ、白いドレスは罵詈雑言を塗りたくられ、まるでペンキでベタベタになってしまったようだ。


「私、イージオ・マケッナは!」


 高らかに、彼は宣言した。


「ルカ・シドニスとの婚約を破棄し、マーナ・ドランテタルを新たな婚約者とするッ!!!」



 わあっと歓声が鳴り響いた。

 静かに、静かに。ルカはその人生の幕を引いたのだった――――




 みゅんみゅんみゅんみゅんみゅん







 ルカは謎の音で目を覚ました。天井はいつもと変わりがない。なのに奇妙な音だけ響いている。みゅんみゅんみゅん……。音は頭のてっぺんから聞こえているような気がする。おかしいわ、とルカは自身の頭を探った。異物がある。「なあにこれ」 すぐさま引っこ抜いたのだけれど。すぽんっと何か気持ちの悪い感覚がする。


「……本当に、なあにこれ」


 痛くはなかった。それがまた気持ちが悪い。ベッドから体を起こして、抜いた管を見つめた。ぷらぷらと手元で揺れて、先は未だにみゅんみゅんしている。ひどく悪い夢を見た。間違いなくこれのせいだろう。


「ヒイッ……」


 手元で管をぶらつかせていると、小さな悲鳴が聞こえた。視線を落とすと、ベッドの下では、手のひらサイズほどの人間が、いくつもボタンがついたおかしな箱をいじっている。どう見たところで、ルカが握る管と、その箱はつながっている。箱には不思議なことに動く写真がついていた。精巧過ぎる写真だ。あれは“彼女”だ。泣いて、断罪される。先程の夢と、まったく同じである。


「…………」

「…………」

「オス、おつかれ様ですッ!」


 じゃあ自分はこれで! とピシッと片手を上げて高くジャンプし去っていく小人を、ルカは瞬時に捕まえた。「お待ちなさい」 これは一種の呪いだろうか。公爵家にあだなすものは許さない。普段はおっとりと、素早く動かないようにと心がけているが、できないふりをすることと、できることは別ものである。ルカは運動神経はとてもいい方だし、馬でもなんでも、なんなく乗れる。貴族学校ではトップの成績で、美しさは周囲からも評判だ。しかしそれは全て努力の賜物で、ルカはこの国の王子の婚約者として、胸をはれる存在になれるようにと日々精進を繰り返している。

 しかしただ、一点、彼女には欠点があるわけだが。努力では克服できないものもあるのだ。


「とりあえず、捻り潰すわ」


 呪いは即座に叩き潰すに限る。

 ルカは小人をぎちぎちと捕まえた。小人は叫んだ。


「じょじょじょ、冗談だよお! 僕は天使だ! この物語を成就させるためにやってきた、恋のキューピットだよ!」



 ***



 小人は天使と名乗り、恋の物語を成就しにやってきたのだと言う。それが一体なぜ、頭に妙な機械をつけるのか。ルカに掴まれていた首元をさすって、げほげほと天使はわざとらしい咳を繰り返していた。天使と名のつくものだ。さぞ神々しいはずが、見てみれば一匹の羽根のない羽虫にしか見えない。ルカは静かに彼だか彼女だか分からない存在を見下ろした。暫定、彼とする。


「僕たち天使は、恋の物語を管理しているんだよ。これは恋の物語なんだ」


 天使はくるくるとその場で回って宙に浮いた。なんとこの天使。羽根もないのに飛べるらしい。やはり叩き潰しておくべきか、とルカは逡巡したが、さすがに天使と名のつくものを何の確証もなく潰すことは、彼女のなけなしの良心が傷んだ。


「恋って……」


 思い出したのは彼女の婚約者である、イージオ・マケッナのことである。彼はこの国の王子であり、ルカの幼い頃からの婚約者だ。まさか、そんな、とルカは先程から微動だに動きもしなかった表情を、わずかに緩めた。彼のことを考えると、ルカはとにかく、“緩んで”しまう。へにゃへにゃと、体の内側からおかしくなる。その感情が、どんな意味を持つのか理解している。


「もちろん、相手はイージオ、君の婚約者さ」


 この際、天使の怪しさなどどうでもよかった。ルカは、真っ黒な瞳をきらきらと輝かせた。彼とは、貴族学院を卒業次第、正式に結婚する予定となっている。多くの重責が小さなルカの体にのしかかるが、そんなこと、イージオと一緒になるためならどうだっていい。ルカは小さな口元をきゅっと閉じた。どきどきと、心臓が幸せな音を立てている。


「君は物語の役割上、こっぴどく振られる予定の悪役令嬢だ。この世界は『乙女ゲーム』がもとになっているからね。もちろん、きちんとしたヒロインも存在する。僕はこのゲームが、ちゃんと物語というレールに乗って進行するかどうかをチェックする、見守り役なのさ!」


「…………はい?」


 ***


 ――――ルカ・シドニスは悪役令嬢である。マーナ・ドランテタルと言う名の可愛らしい男爵家令嬢をいじめ、陥れ、嫉妬に狂う悪女である。


「いやいや」


 ルカは片手を振った。あまりにも覚えがなさすぎるし、マーナなんて生徒の顔すら知らない。もしかすると学校ですれ違う程度はあったかもしれないけれど、その程度だ。


「なんで私が、その、マーナという生徒をいじめる必要があるの? 私はイージオ様と正式な婚約者なのだし、今更意味のない行動をする必要がわからないわ」


 彼とは決して良好なパートナーと言うわけではないが、幼い頃にダンスをしながら将来を誓い合ったこともある。子供の頃のただの口約束と言えば微笑ましく、意味のないものに思われてしまうかもしれないけれど、それはルカにとって忘れられない思い出だ。


「その幼い頃のダンスとはこれかな?」


 天使はすちゃっと手元の箱を取り出した。スイッチを一つ押すと、明るかったはずのルカの自室が途端に真っ暗になってしまう。ルカはおろおろと周囲を見回した。室内の壁には、スクリーンが映される。それは幼き頃の思い出のワンシーンだった。ピンク髪の見知らぬ少女と、イージオがどこかの庭で可愛らしく踊っている。


「これは共通ルートに出てくるスチルの一つだね。マーナとイージオの出会いのシーンだ。子供たちが集まるパーティーの中に、王子もこっそり出席したと解説にある。ちなみにこのとき君は……おおっと」


 天使はスクリーンの端を拡大した。


「ファンタジー世界なのにまるで推理小説の死体状態だね、恐ろしいな」

「死んでないわよ!」


 設置された池の中に、少女の足のみが逆さに突き立っている。

 天使は異界の文学にも詳しかった。


「君のダンスが下手くそすぎて、パートナーからすっ飛び池の中に沈み込んだシーンがこれだね。よくぞ美しいヒーローとヒロインの出会いをここまで汚せるね。悪女の才能しかないよ。体をはっているね」

「そんなことに体をはった覚えはないわ!?」


 ルカの唯一の欠点とは、ダンスが下手くそすぎることである。

 運動神経はいい。なのに、リズム感が壊滅的に死んでいた。幼い頃から必死で訓練したところで、狂った彼女のリズムは正常な時を刻むことはなかった。


「すでに物語は動き出している」


 いつの間にか、部屋の中は元通りになっている。「人々は、僕たち天使の操り人形となっている。天界から糸が落ちているんだよ。物語の通りにきみたちは動くしかない」 朝見た夢は、彼が言う物語のシーンだ。否応なく、ルカの頭の中にはその映像が染み付いていた。


 ぞくりと、恐ろしくルカは後ずさった。糸が、見えた。自身の両手、両足を縛り上げている何らかの、恐ろしい糸を。この糸の通りに、彼女は動き、操られるしかない――――「いやでも君だけは無理だったんだけど」 天使が困った困った、といいながら自身の頭をポリポリひっかく。


「誰しもが、運命の操り人形だ。でも操られる側にも才能がいる。君はあんまりにもダンスが下手くそすぎて、糸がもつれあって、動かない。君の踊りは、神様さえも匙を投げる壊滅的なものだったよ」


 さすがに池に頭からつっこむつわものは違うよね、という言葉に、ルカは静かに自身の額に手を置いた。ちょっとまって、少しまってと落ち着くために息を吸い込む。公爵令嬢たれと美しい言葉に囲まれ、育った彼女は罵り言葉が下手だった。「確か、こう、まって、いいものが出そうなの」 確か使用人が、以前こんな言葉を言っていたような。「ち」「ち?」「チクショウ!!!!!!」 叫ぶしか無い。


 でも逆にダンスが下手くそだから、運命に巻き込まれずにすんだと言えなくもないような。言えるような。どうなのだろうか。



 ***



 羽根のない羽虫である天使はルカの周囲をぶんぶん回ることとなった。鬱陶しいことこの上ない。初対面時、彼女の頭につけていた装置は悪女イメージを植え付けるための洗脳装置らしい。最悪だった。


「僕たち天使は物語の中にある愛を食べて生きているから、全ての愛の物語には僕たちが存在するんだよ」


 まったくもって聞きたくないことを聞いた。夜中にはひっそりと恋愛小説を読むことを楽しみにしていたルカだから絶望した。あの小説も、あの小説も、全ては見知らぬ天使がほほえみながら見守っていたのだと考えると嫌すぎる。


「それで? 私はあなたの思い通りにはならないわ。マーナさんをいじめる? するわけがないでしょうそんなこと」


 何の恨みがあって、可愛らしい少女をいじめなければならなないのだ。ため息をついた。


「じゃあせめて、王子の好感度を下げてくれる? 両方の鼻の穴に指をつっこんで、おならぷっぷう、とか言ってくれると最高なんだけど」

「ふざけているのかしら!?」


 何が悲しくて好きな人の前で、そんなに体をはらないといけないのだ。

 こうしていくら部屋の中で叫んでいるのに、誰も不思議に思わないところは恐ろしい。やっとこさノックされた、と思うと、朝の準備の時間だと言う。ルカはため息をついてメイドの言う通りにいつもの支度を終えた。もちろん、誰にも天使の姿は見えやしない。



 馬車に揺られて学校に行き、片手に鞄を持った。くるくると羽虫がとんでいる。「悪役ッ! 令嬢ッ! 悪役ッ! 令嬢ッ!」 無意味なコールに、さすがにそろそろ腹がたってきた。すると運命のいたずらだろうか。ふわふわとしたピンク髪の少女が、ルカの隣を通り過ぎる。「あ、あなた……!」 思わず呼び止めてしまったのは失敗だった。


 はい? と振り返った少女は、誰からも愛されるような、とても可愛らしい少女だった。「この人がマーナだよ!」 やはりだった。羽虫の言葉をルカは無視した。「今だ! 平手打ちだ!」 技の名前を叫ぶかの如く、こちらに指示する羽虫をルカは平手打ちをして吹き飛ばした。生け垣に突っ込みながら、天使はぴくぴくと体を震わせている。


「……あの?」


 マーナは不安げにルカを見上げていた。いけない。「ごめんなさい、寝癖がついていらっしゃいましたから」 ルカはそっと、マーナのピンクの髪を細い指先で解いた。「可愛らしい髪型ですからね。きちんととかさないと」 ふわりと優しい風がふいた。これが彼女とルカの、ファーストインプレッションとなった。


「なるほど。身だしなみくらい気をつけなさいこのピンク髪が、ということですね。ストーリーの展開、ちょっと書き換えとくね」

「あなた、まだいたの」


 小さく消えていくマーナの背中を、ルカは静かに見守った。手元にあるメモにかしかし何かを書き出す天使の背中をつまんで、ぽいと投げ捨てておいた。



 その夜、ルカは悲鳴を上げた。「ひいいい!!」 彼女のお気に入りの本棚がぎちぎちとぎゅうぎゅう詰めになって、悲鳴を上げている。こんなに無理やりに入れた覚えなど、もちろんない。


「な、なにこれ……」


 明らかに、何かがおかしい。とにかくと一冊抜き出すのも苦労した。記憶よりも、全ての本が若干分厚くなっている。気持ちが悪い。背後を見ると、天使はにやにやと満足げな顔をしている。やっと気づいたかと嬉しそうだ。嫌な予感をさせながら、ルカはそっとページをめくった。すぐさまめくられたのはお気に入りのシーンのはずだ。


 じっと文章を見つめる。男女が、ひっそりと夜の広場で出会って、愛を語る。主人公と、その想い人が、手を握る。その手を天使も掴んでいた。三人で手をつなぎ、微笑んだ。そっと二人は見つめ合った。その中心には天使がいた。にこりと笑って、天使は二人の間にそっとその身をねじ込み、微笑んだ――――「き、気持ち悪いわ!!!?」 即座に本を床に叩きつけた。全ての描写に見知らぬ天使が挿入されているので物理的にページ数が増えている。


「ね? 天使って存在するでしょ?」

「ねじゃないわよ!!! 一体なんなの!?」

「天使を見る目を持つ人間の定めさ。物語の裏側に気づいてしまうんだなあ」


 慌てて全てのページを確認すると、気持ち悪く天使たちが多くの恋人たちの恋を見守っていた。デートの全てに体を無理やりねじ込ませ、なぜだか一員のような顔をしている。さすがに泣いた。

 ルカができたことと言えば、天使を逆さ吊りとすることだった。すぐさま抜け出されたため、窓を開けて投げ捨てて、即座に硬く鍵をかけた。外は素晴らしい夜空だった。明日は天気になるだろうか。



 ***



 くるくると、ダンスを踊っている記憶はルカのとても、とても大切な記憶だった。お月さまの光がきらきらとして、ふわふわとしているのは記憶は、幼い頃だからだろうか。

 この夢を見るときは、いつも幸せな気分になる。なのに目がさめると、天使が踊り狂っていた。「悪役、令嬢、大作戦ッ!!!」 彼なりの気合なのだろうが、天使とは投げても捨てても帰ってくる呪いの防具のようである。いつか人に伝えることがあれば、ルカはそれを伝えたい。なるべく後世まで。


「悪役令嬢パワースーツというものを開発してみたんだ! もしよかったら着てみて欲しい!」

「心底遠慮するわ……」

「そこをなんとか! 悪役令嬢らしい動きしかできなくなる、画期的な発明なんだ!」


 悪役令嬢らしい動きとは一体。

 わけがわからないが、とりあえず庭から投げ捨てておいた。そのとき、悲鳴が聞こえた。慌ててルカが窓から体を乗り出すように見ると、イージオがいた。眼前に落ちたスーツを見て、彼はへたりこんで目を白黒させている。彼はいつも、予告もなくルカのもとにやってくる。イージオに怪我がないことにホッとして、ルカはすぐさま準備を始めた。良くも悪くも、彼は幼馴染なのだ。やっと出来上がった頭や服を優雅にさせて、かちこちの顔をつくって王子との茶会は始まった。


「ルカ、さきほどお前の部屋からおかしなものが落ちてきたんだが……」

「天使のいたずらでしょう」


 間違いなくその通りなのだが、イージオとしてみればごまかされたように感じている。ルカは表情の一つも変えることなく、王子を見つめた。イージオは静かに息をついた。


「ルカ、お前は相変わらず能面のような顔をするな。たまには大声で笑ってみたらどうだ?」

「まさかそんな。殿下の前でそのようなことができるはずもございませんわ」


 ふん、とイージオはつまらなそうに顔をそむけた。

 大好きすぎてしにそうだった。イージオを見ているだけで、ルカは幸せだったのだ。表情をうっかり動かしてしまえば、でれでれとしてしまう。そんなみっともない姿を彼に見せるわけにはいかない。きりりと彼女は眉を釣り上げた。表情の死んだ彼女とそっぽを向く青年の空気はただただ冷たく、凍っていた。


「いやこれ、僕が手を回す必要もなく撃沈するのでは」


 運命の力って偉大だね、と胸をはる天使を無視した。こうして、ルカと天使の攻防は続いた。月日は流れ、卒業の日が近づく。



 天使はルカに様々な邪魔をした。ルカの兄を攻略キャラ達の好感度や連絡先を常に把握する恐るべきお助けロボットと変化させたときは、さすがに息の根を止めようとしたのだが、腐っても天使、ルカごときに何ができるわけもなかった。これを参考に好感度を下げるようにと言われたが、がっつり無視した。


 ルカの兄は現在でも謎の社交性がある公爵家子息となり、「ルカ! 今イージオ様は夜の月見をしていらっしゃるみたいだぜ! ちなみに殿下の伝書鳩番号はこれだな!」とか教えてくるようになった。なんで把握しているのかわからなくて怖すぎた。

 知らないイケメンとデートしないと嫉妬の爆弾が爆発するぜ! とか言い始めたときにはとりあえず頭を冷やしておいたのだが、なんで顔も知らない人とデートしなければならないのだ。ルカは以前からイージオ一筋である。天使はゲームのお約束だと言ってたが、意味のわからない理由で兄を改造するのはやめてほしい。



 卒業式のあとは、生徒たちだけで集まるダンスパーティーだ。ダンス、と聞くだけでぞっとするルカだが、それよりも恐ろしいのは、以前に頭の中で天使に見せつけられた映像だ。あの中では、イージオがルカを断罪し、婚約を破棄する。絶対嫌だ。


 せめてもの抵抗として、白いドレスの色は変えてみた。とは言っても、白いドレスを着るのは卒業式でのルールだから、大きくは変えられない。白ではなく銀はどうだろう、と考え刺繍を施してみた。それは裾にいくにつれて、星のように輝いて、まるで、イージオの髪の色のようだ、と心の底ではうきうきしてしまうのは仕方がないと思ってほしい。


 緩みそうになる頬を、ルカは硬く引き結んだ。一見、無表情にも見えるその顔はいつものことなのであるが。


 一歩、踏み出す。おかしな空気が、全身を貫いた。




 誰しもが、ルカを見ていた。生気のない、冷たい瞳だった。いつもは虫のごとく、ルカの周囲をうろついている天使もいない。

 ホールの中では、人形のように多くの人々が固まっていた。中心には、イージオが。その隣にはマーナが。いったい、なぜ、どういうこと。


「人は、全員が運命の糸に操られていると言っただろう? ルカ、君がいくら抵抗したところで無駄なんだよ」


 するすると、天使が天井から降りてくる。禍々しい表情だ。「できれば、説得力のあるストーリーにして、美味しく物語を頂きたかった。けれども仕方がない。多少の無理を通してでも、君たちの物語を僕たちがいただく」 僕たち、と彼はいった。


 ルカは恐ろしく、天井を見上げた。何もあるはずのない空間から、みゅんみゅんと幾匹もの天使たちが舞い降りる。全てがまったく同じ姿をしていた。彼らは小さく、一見、なんの力もない姿に見える。しかし、強大な数だった。全ては背に矢という武器を備えている。

 震えた。けれども、それよりとルカは叫んだ。


「み、みなさん、逃げて……!!」

「無駄だよルカ。彼らは僕たちの支配下だ。ダンスが下手くそな君以外は、全員操り人形さ」


 だからルカだけ彼らの魔の手から逃れられた理由が嫌過ぎる。神にも匙を投げられるダンス下手とは一体。しかしそんなことを突っ込んでいる場合ではない。「イージオ様、マーナ! みんな! 逃げて! せめて私が、あなたたちを背負って……!!」 マーナをいじめようと天使が求めるたびに、彼女とルカはすっかり仲良くなってしまった。愛する青年だけではない。ピンクの髪の可愛らしいこの少女が傷つく様など、ルカには耐えられない。


「無駄だってば。まるで蝋のように、彼らは自身の体が動かなくなっていると感じているはず」


 天使はそっと分厚い本を出した。


「電話帳ほどのこのサイズの本……そう、これは、乙女ゲームのシナリオさ」


 電話帳が何かはわからないが、とにかく分厚い、とルカは震えた。まさか、全ての物語が、あそこに記載されているというのか。天使は、そっとイージオの目の前にその本を突き出した。


「ほら、王子殿下。ここ、P400。下の方だよ。君が話すべき台詞がある。さあ、読んでくれたまえ」


 物語はエンディングに近づく。その言葉を、ルカは知っている。悲鳴をあげた。逃げようにも、すでに扉は天使たちで塞がれている。けれども、この好きな人々を前にして逃げてしまおうなどとルカは頭の端でも考えたことはない。


 イージオの唇の端が、ぴくぴくと震えた。


「さあ、この言葉だ。君たちの国の文字で書かせていただいたよ。読めるかね、王子殿下」

「……い、いや、だ」


 小さく、イージオは呟いた。ルカははっと目を見開いた。ただそれですらも、彼は苦しげに呻いていた。「殿下……!!」 喜びではない。苦しく顔を歪める青年を、見ていることができなかったからだ。「いけません、殿下!」 まるで彼の頭の血管が、吹き飛んでしまいそうなほどに、イージオは真っ赤な顔をして抵抗した。幾度もルカは首を振った。愛する人のそんな姿など、まさか見たいわけがない。


「おおっと、抵抗が激しいな。仕方ない、念押しだ」


 天使は静かに無理やりイージオに本を渡した。さっと片手を伸ばす。「うてーーーー!!!!」「い、いやあーーーーー!!!」 ルカの悲鳴が響き渡ると同時に、天使達の弓矢がイージオの体に幾本も突き刺さった。しかし不思議なことにも、彼の体から血が出ることもなく、ぐんぐんと小さな弓が沈んでいく。


「この弓矢の一本、一本は一つの“言葉”だ。彼は、『ルカ・シドニスとの婚約を破棄し、マーナ・ドランテタルを新たな婚約者とする』と、いう言葉以外は、もう言うことなどできないのだよ」

「そ、そんな……」


 それは夢で見た台詞と同じものだ。ルカははらはらと涙をこぼした。そんな彼女を天使は鼻で笑った。「神に抵抗などするからだ。さて、王子殿下。台詞を言いなさい」 先程までの抵抗は虚しく、イージオは一つ一つ、言葉を確かめるように、本を見ながら呟く。


「私、イージオ・マケッナは……」


 続きの言葉はすでに決まっている。ルカは、力なく崩れ落ちた。その姿は、夢で見た姿とまったく同じだ。「こ、こんや、く、は……」 わかっている続きの言葉は。わかっているのだ。そのとき、ルカは知りもしないことだが、イージオの頭の中では、凄まじく回転していた。ルカが泣いている。鉄仮面で、動くこともない表情の彼女が、わけもわからない何かに泣かされていた。


 その権利は、イージオにあるはずなのに。

 彼女を笑わせるのも、泣かせるのも、イージオのはずなのに。


「婚約、破棄、な、ど、して、たま、るかーーーーーー!!!」


 彼が力強く叫んだ瞬間、まるでガラスが崩れ落ちるかのような音が響き渡った。びきびきと、血管が膨れ上がって頭の中から血が吹き出しそうだ。むしろ鼻からは血が流れていた。「ふんぬう!」 イージオは、分厚い本を破りさろうとした。けれどもやっぱり無理だったので、すっかり固まっていた警護の人間の腰から剣を引き抜き、思いっきり突き刺した。「ぎゃああーーーーー!!!」 天使が悲鳴を上げている。


 すでに幾人もいた天使は消え失せ、ただの一匹となってしまった。彼は口から血を流しながらも、「な、なぜだ……あの言葉、以外は、言えなくなっていたはず、なのに……」 はん、とイージオは流れた鼻血を思いっきり片手で拭った。


「お前が何者かは知らないが、気味が悪い時間だった。俺のルカを、好き勝手に泣かせやがって。その言葉以外が言えないと言うんなら、言い換えればいいだけだ」


「ルカ」・「シ」ドニスとの「婚約」を「破棄」し、「マ」ー「ナ」・「ド」ラン「テ」「タ」ルを新たな婚約者とする


 るか し こんやく はき ま な ど て た


 こんやく はき な ど し て た ま るか



「そ、そんな、ばかな……」


 かくりと天使は力尽きた。気持ちはわかる。「いいさ、僕を倒したところで、第二、第三の天使は生まれ、アーーーッ!!!」 弱っていたところを、イージオはグサッとさした。


「……なんだったんだ、あいつは?」


 すっかり塵とかした、天使、もとい悪魔のような何かの姿を見下ろし、鼻からふん、と鼻血の塊を出しながら、イージオは眉をひそめた。次第に、周囲の人間たちも瞳に生気を戻していく。マーナはぱちぱちと可愛らしい瞳を瞬いている。


 よかった、とルカはいつもの鉄仮面を落として、ぽろぽろと涙した。「お、おい!」 イージオが慌てて彼女の手を掴もうとしたけれど、自身の鼻血で血まみれだったから、彼女の周囲を何もできず、ぐるぐると歩いた。その間、ルカはただ泣いていた。ほっとしていた。誰も傷つかなくてよかったのだと。




 ダンスパーティーは、わけもわけもわからず仕切り直しとなってしまった。

 なぜなら誰も意識もない間にぐちゃぐちゃになっていて、令嬢達が卒倒した。全ては天使が放った矢によるものであったが、まさかそんなことを言うわけにはいかないから、ルカはそっと口をつぐんだ。



 その夜のことだ。

 月夜の中で、一人の青年が立っていた。「遅い」 ムッツリとして、腰に手を当てている。そんなことを言われても、とルカは肩をすくめた。これでも、抜け出してくるのは大変だったのだ。


「まったく、一国の王子の伝書鳩番号を、どこで知ったんだ?」


 おかしなお助けキャラに改造された兄からである。心配していたのだが、帰ってみると、「なんだか知らないうちに友人がいっぱいできていた!」と喜んでいたので、彼の頭はもともとハッピーなのだろう。

 確かに、王子の鳩番号を知ったから、思わず飛ばしてしまったのはルカだったけれど、一度飛ばした手紙に、何度も返事をつけてきたのは彼だった。今日だって、彼が時間を指定したのだ。


「誰にも、見つからないようにとなると、とても大変ですのよ。わかっていらっしゃいますか?」

「当たり前だ。警護はすでに回している。周囲の警戒は万全だ。すでにお前は俺の護衛に丸見えだ。こそこそ隠れる必要なんてどこにもない」

「…………」


 確かに、一国の王子が、なんでも無い公園にこそこそとやってくるわけがない。当たり前のことだが、少し恥ずかしくなった。


「さて、ダンスは少しくらいうまくなったか?」


 イージオはにやりと笑った。月の明るい夜だから、彼の表情がよく見える。イージオとルカは、幼い頃に約束をした。誓い合った約束は、彼女にとっては大切なものだった。でもまさか、彼が覚えてくれているとは思わなかった。ずるりと脱げてしまいそうな鉄仮面を、ルカは必死にかぶり直した。


「なんのことですか? 殿下。わかりませんわ」

「小さい頃、同じ場所で抜け出したら、必死に、奇天烈に踊っているお前を見た。その相手をしてやっただろう。下手くそで見てられなかった」


 そのときこそ、護衛など誰もいなかった。今考えると、なんて恐ろしいことをしたのだろう、とルカは自分自身に呆れてしまう。天使は、幼い頃に彼らが踊ったときは、マーナとイージオの出会いの際と言っていたが、本当は違う。同じように月明かりの下彼らは出会って、手のひらを握った。


「下手くそすぎて、見ていられなかったからな。ダンスが上手くなったら、結婚してやると言っただろう」


 イージオは、いつもは何もかもが完璧で、苦しい顔ひとつせずに何でも飄々とやってのけていた彼女が必死に練習を繰り返している様を見て、ひどく胸が締め付けられる思いがした。そのときすぐに、それが恋だと気づいたから、顔を出して、彼女の相手役を名乗った。したダンスは、ダンスなんてものじゃない。両手を握って、ぐるぐると回るだけの子供の遊びだ。それくらいじゃないと、ルカは下手くそすぎて、まともなステップも踏めなかったからだ。


「……ちょっとは。ちょっとだけ、なら」

「今度は、池にはつっこまないな?」

「お忘れくださいませ!」


 つん、とルカのすました顔が真っ赤に染まる様を見て、イージオは嬉しくてたまらなかった。会う度に、笑って欲しいと願っているのに、硬い顔をする彼女だ。どうしてくれよう、と歯噛みをしていたときに、鳩が窓を叩いて手紙を持ってきたときは、嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。内容は、他愛もないことだった。あんまりにも嬉しかったから、イージオも言葉を返した。何度も、何度も彼らは手紙を交わした。


 ダンスパーティーが終わったら、また夜のダンスをしよう。


 それは踊りなんて名がつくような、立派なものじゃないけれど。ゆっくりと、互いに手のひらを握った。子供のときのようになんていかない。互いにすっかり成長してしまった。男と女になった彼らは、互いの手のひらの違いを感じて、不思議に幾度も握りあった。そんな自身に気づいたから、顔を見合わせて、互いに笑った。彼だって、やっぱり少しばかりは照れている。


 婚約破棄など、まさか彼らに訪れるわけもなく。

 ダンスが下手くそな令嬢は、運命の糸さえも退けた。踏んだステップは、幾度も躓いて、上手く行かなくて、大変だったけど。大きく育った彼の手のひらが、彼女を支える。


 月の下で、彼らは踊る。きらきらとした光が美しく、彼らをずっと照らしていた。

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