いつか空になる人へ

宮守 遥綺

いつか空になる人へ

 喉元に突きつけられた黒光りする短刀に、エヴァ・アドバンスは眼を見開いた。濃い茶でできた薄すぎる刃は呼吸をすることが躊躇われるほどの位置で動きを止めている。ほんの少しでも動いてしまえば……想像するだけで、背筋が冷える。

 放課後の大食堂には有志によるカフェーが開店し、辺りにはコーヒーの匂いが色濃く漂う。制服姿の生徒たちはマグカップ片手に談笑していて、そのほとんどは今回の試験には関係の無い、下級生たちだった。彼らはこの異様な状況を目にしながらも気にすることなく素通りしていく。月曜から始まった三年の卒業試験について、教師たちから聞いているからだろう。エヴァは誰にも助けを求めることができない状況で彼女に近づいてしまったことを、今更ながら後悔した。

 アイリーン・ポートナーは有名な生徒だった。

 入学当時から「素性のわからない、得体の知れない生徒」として教師陣に注目されていたこともあったが、彼女をここまで有名にしたのはその恐るべき才能であった。

 歴史や数学など座学の試験だけでなく、魔法化学や呪術、防衛魔法などの実技においても彼女の右に出る者はなかった。そして入学以来主席を守り続ける彼女に、今回の試験でも、進んで戦いを挑む者などほとんどいなかった。


「何の用?」


 深い碧の瞳が刃の奥から冷たくエヴァを射貫く。

 その顔の怜悧な美しさが一層瞳の鋭さを際立たせ、同時に構えられた茶の刃を薄く見せていた。穏やかに漂う、深くまろやかなコーヒーの香り。すっかり空になったアイリーンのマグカップが、恨めしげにエヴァを見上げている。

 その横に置かれた幾本もの金の腕輪に、エヴァは目を見張る。

 今週の月曜。三年にひとり一本、金の腕輪が配られた。


「今年の卒業試験は、腕輪の争奪戦です。卒業要件は、期間内にその腕輪を三本集めること。いいですね」


 きらびやかな講堂に集められた三年に、学年主任の女教師は冷ややかに言った。途端、ざわめきが広がった。空気が戸惑いの色に染まっていくのが肌で感じられる。それはそうだ。ひとり一本渡された腕輪を三本集めろ、ということは。


「そ、それは、この中の三分の一しか卒業できない、ということですか」


 エヴァの斜め向かいに座っていた男子生徒が声を上げた。隣のクラスの委員長だった。眼鏡の奥の丸い眼が、可哀想なくらい揺れている。眼だけではない。先ほど発せられた辛うじて聞き取れるほどの疑問も、情けなく震えていた。彼の言葉に講堂内が水を打ったように静まった。


「三分の一とは限りません。中には座学が得意な一方で、実技が苦手な人もいるでしょうから。座学の授業で特別優秀だった人には、私たちから腕輪を渡します」


 あちらこちらで「ほぅ」という安堵の息が漏れたのが聞こえた。教師陣から腕輪が配られるということは、全体の母数が増えるということだ。母数が増えれば、卒業できる人数も増える。実技が得意な生徒は他の生徒と奪い合うだろうが、苦手な生徒は座学に力を入れて教師陣からの供給を受けるのが得策だろう。

 エヴァは実技が得意ではない。試験を突破するには座学で教師陣から供給を受ける必要がある。どの授業ならば確率が高いか、頭の中で算段を立てていたとき。

 先ほどの女教師が「ただし」と力強い声を上げた。


「あくまで、私たちは腕輪を渡すだけです。その後その腕輪を守り切ることができなければ、いくら座学で稼いでも卒業はできません。また、卒業要件は三本ですが、四本以上集めることも自由です」


 その言葉に講堂が再び静まり返った。「座学のほうが得意な生徒が不利ではないか」そんなことをいう生徒はいなかった。魔法は使うためにある。いくら座学ができたところで実際に使えなければ何の意味も無いのだ。


「試験期間は今週の金曜まで。授業中を除くすべての時間が試験時間です。食堂とトイレ、浴場を除くすべての場所を戦闘可能区域とします」

「まあ、『戦闘』しなければ、どこでも腕輪を奪うことは可能じゃがな」


「ホホホ」と、暢気に魔法化学のジジイが笑った。ちなみに、「ジジイ」はあだ名ではない。彼の本名だ。表記的には「ジジー」だが。


「質問はありませんね」


 女教師が講堂を見回した。そして。


「それでは、試験を開始します」


 戦闘開始の合図が、響いた。


 それから五日。今日が試験最終日だ。

 エヴァが身につけている腕輪は二本。卒業までにはあと一本足りない。もう、手段を選んでいる場合ではなかった。

 必ずしも、戦って奪い取らないといけないわけじゃない。

 彼女があえてアイリーンを追ったのは、戦わずして、かつ相手を蹴落とさずに腕輪を手に入れるためだった。それがうまくいくかはわからないが。

 冴え冴えとした碧の瞳を見つめ返す。エヴァは自分の背に冷たいものが伝うのを感じていた。一度、できる限り大きく息を吸い、吐く。喉カラカラに乾ききって貼り付いていた。


「……食堂は戦闘禁止区域です」

「知ってる。だから戦ってはいない」

「これを、下ろしてくれませんか。私はあなたに頼みがあってきたんです。アイリーン・ポートナー」


 数瞬、アイリーンはエヴァの眼を見たまま何事かを考えているようだった。エヴァはじっと彼女の眼を見つめ返しながら、内心気が気ではなかった。突きつけられた短刀はエヴァの喉元で止まったまま。アイリーンが少しでも手元を狂わせれば、たちまちエヴァの首からは血が噴き出すだろう。


「……頼みって?」


 カタリ、と音を立てて刃がテーブルに置かれた。同時にアイリーンの眼が読んでいた本に戻る。それを見て、エヴァの呼吸が深くなる。やっと動くことができるようになった。一度大きく息を吸う彼女をアイリーンは眼を細めて見ていた。自分の元にやってきた者が、珍しかったのかもしれない。


「腕輪を一本、分けてほしいんです」

「なぜ」

「足りないから」

「それは自分の問題でしょう」

「……お恥ずかしながら。座学で稼いだ腕輪を、私は守り切れなかった」


 爪が掌に刺さり痛むほど、エヴァは拳を握りしめていた。

 彼女は最初の目論見通り、座学で腕輪を稼いだ。その数、六本。しかしそれを守り切る方が問題だった。稼いでも奪われるを繰り返し、結果手元に残ったのは二本。卒業には、あと一本足りない。

 実力が足りないのだと、そう言われれば返す言葉もない。それでも彼女がここに来たのは、僅かながら勝算があるからだ。


「……もしも分けていただけるなら、父にあなたの話をして、士官学校への推薦を取り付蹴ることもできます」


 アイリーンが僅かに眼を見開いた。そして何かを探るようにエヴァの眼を再び凝視する。エヴァは心の中で笑った。勝てるかもしれない、と思った。

 魔法の実力では敵わない。しかし腕輪を奪い取る必要が無いのなら、取引すればいい。

 彼女が卒業後、志願兵として軍に入ることは噂になっていた。優秀であるにも関わらず、政府関係からは一切の推薦がなかったことも。それは彼女が、この国の出身者ではないからだ。だったら、それを利用する。


「士官学校の入校試験が受けられるのはこの国の出身者、もしくは上級官僚の推薦がある者のみ。それはあなたも知っているでしょう?」


 決して良いやり方ではないだろう。汚いと言われればその通りだと思う。それでも、どんなやり方であれ、諦めるよりはいい。地位も生まれも、持てる物のすべてを使うことの何がいけない。持って生まれたカードを最大限に使わないことほど、愚かなことはない。

 二人の間に沈黙が落ちた。

 周囲の穏やかなざわめきが静けさにかき消されていく錯覚を覚えるほど、それは重い沈黙だった。


「……別に、推薦はいらない。これは持って行きたいなら、持って行けば良い」


 アイリーンがエヴァに向かって腕輪を一つ投げた。

 放物線を描いたそれはしっかりとエヴァの掌に着地する。窓から射す橙の陽光が反射し、腕輪は一層輝きを増しているように見えた。


「どうせ四本以上持っていたって、何の意味も無い」

「だったらどうしてそんなに集めたの」

「身の程知らずを返り討ちにしていたら溜まっただけ」


 それだけ言うと彼女はエヴァから興味を無くしたようにまた本を広げた。それから思い出したようにテーブルの上の短刀に指をかざす。すると短刀は形を崩し、マグカップの中に戻っていった。ついでのようにカップに向かって彼女が指を一振りすると、コーヒーで満たされたカップからはまるで淹れたてのように湯気が上がる。


「……まさか、コーヒーで刀を作るとは思わなかった」

「魔法は想像力。やろうと思えば何でもできる。それ相応の魔力があれば、の話だけれど」


 エヴァは受け取った金の腕輪を自身の腕に嵌めた。アイリーンはコーヒーを啜りながら本を読んでいるだけだった。


「ありがとう。アイリーン・ポートナー」

「礼より、その腕輪を守り切ることを優先した方がいい」

「わかってる」


 エヴァは踵を返し、食堂を後にする。窓から見える時計塔は午後六時を指していた。試験終了まで、残り六時間。






「私が彼女と話したのなんてそれっきりだけど、彼女がいたから卒業できたのは事実だわ」

「なるほどな。だから、私に声をかけてきたのか」


 父がエヴァの話に納得したように頷いた。

 父は今日廊下で一人の女性士官に「尉官になるために推薦が必要だから、推薦してほしい」と頼まれたという。その女性士官が、アイリーン・ポートナーだったらしい。彼女の経歴を調べた父はエヴァと同じ学年で同じ学校の生徒だったことを知り、彼女に尋ねたのだ。


「彼女は優秀なんだが、物をハッキリと言いすぎる。それ故に上官たちからの評判が頗る悪い」


 それを聞いて、エヴァは声を立てて笑った。何とも彼女らしい、と思った。

 そして彼女があの時の彼女のままであるならば、とも思った。


「お父さん、お願い。彼女を推薦してあげて」


 あの時の彼女のままであるならばきっと、助けを求める弱い人間を見捨てない、良い上官になるはずだから。



Fin




ノベリ隊SSお題「魔法・コーヒー・刀」より

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いつか空になる人へ 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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