第5話 バレンタインの贈り物



 私が今の商品企画課に異動して、バレンタインを中止にして一年がたった。


 女性社員の何人かが、毎年バレンタインにチョコレートを用意するのが面倒という話を耳にした。うちの部署は人数はそこまで多くはないものの、全員分のチョコレートを用意するとなれば出費も手間もそれなりに嵩む。


 男性社員も毎年をお礼を返すのが大変だと嘆く者がいくらかいた。


 あげる側ももらう側も少なからずこのイベントを負担に感じていたわけで。


 上司として私はバレンタインを禁止することにした。


 とは言え皆大人同士である。個人でやり取りしたければ、人目につかないところで好きにしてくれたらいいと伝えた。


 大々的にバレンタインをやらなくて済むということは、概ね好評であったし、困る者はいなかった。


 これで皆心置きなく本命に集中できるわけだ。


 私も義理チョコを用意する手間が省けて、面倒なことが減った。


 味気ないと思わなくもないが、禁止にしたことは周りの反応を見ても間違いではなかった。




 

 今年のバレンタインは月曜日。


 いつもと変わらない週の始まり。


 きっと朝のニュースでも見ていなければ、今日がバレンタインなんて意識することもなかったかもしれない。


 事実、仕事中はそんなことを忘れていた。


加古かこさん、こんな遅くまで付き合わせてしまってごめんなさいね」


 私は隣りのデスクで共に残業することになってしまった部下の加古さんへ謝った。


 まだ二十代の彼女からしたら、こんな日に残業なんて嫌だったかもしれない。


「いいえ。七瀬ななせ課長と一緒なら残業くらい何でもありません」


 なんて可愛らしい笑顔で微笑む。


 以前から真っ直ぐで健気な子だと思っていたけど、本当によくできた子だ。仕事だっていつも一生懸命で、きちんとしているし、上司としてなんと良い部下に恵まれたことか。


 私たちは帰り支度をして一緒に会社を出る。外は夜の帳がすっかり降りて、二月の冴え冴えとした風を吹かせていた。


 都会の明るい夜空には控えめに光る星がぽつんと輝いている。


「あの、七瀬課長。帰りご一緒してもいいですか?」


「ええ、構わないけれど」


 幸い私たちは同じ沿線に住んでいて、帰る方向も同じだ。こうして同じ時間に会社を出れば、自然と同じ電車に乗ることも度々あった。


「よかった。実は課長に渡したいものがあって」


「私に?」


 何だろうかとしばし考える。


「取り敢えず、喫茶店にでも入ろうか」


 明日は雪予報が出ているくらいに今夜は冷え込んでいる。そこら辺で立ち話していては風邪を引きかねない。


 私たちは最寄り駅のすぐ近くにある喫茶店へと入った。昔ながらの喫茶店で、店内はふくよかな珈琲の香りが漂っている。 


 流れているのはショパンのノクターン第二番。ゆったりとした切なくもどこか甘い音色が静かに時を撫でるように店内を巡っている。


 二人で一番奥の席に座り、カプチーノを頼んだ。


「それで加古さん、渡したいものって何?」


「あっ、そうですね。それですよね。⋯⋯えっと、課長は甘いものはお好きですか?」


「ええ。そんなにしょっちゅう食べたりはしないけれど、好きな方ね」


「そうですか。よかった」


 加古さんは明らかに安堵して、ふわりと笑ってみせる。


 人の良さが隠しきれない、いい笑顔だ、なんて思いながら、私は運ばれてきたカプチーノのを一口流し込んだ。


「課長、ご迷惑でなければこれ受け取っていただけますか?」


 そう言って加古さんがカバンから取り出したのは、落ち着いた渋めのピンク色の箱だった。白いリボンが巻かれている。


「これは、チョコレート?」


「はい。そうです。うちの課はバレンタイン禁止ですから、ご迷惑かなと思ったんですけど、どうしても課長に渡したくて」


 加古さんは少し気まずそうに目を伏せると、私の前へとチョコレートを差し出した。


「ホワイトデーのお礼とかはいりませんので、ただ受け取ってもらえたら」


「気持ちは嬉しいけれど、どうして私に?」


 うちの課はバレンタイン禁止になったのだから、わざわざ上司に渡すなんてしなくてもいいというのに。


「それは⋯⋯。あの、何というか、お礼です。日頃から課長にはお世話になっているので、どうしても渡したくてなってしまって。もちろん、こういうのが迷惑だからバレンタインは禁止になったのですよね。知ってますけど、それでも⋯⋯」


 最後は空気に溶け消えそうな小さな声になってしまった加古さんは、不安げに私を見つめていた。


 目の前のチョコレートは包装もしっかりしていておしゃれだし、見るからにそれなりの値段がするのだろうと思われた。


 せっかく用意してくれたものを無碍にするのは可哀想だ。


「加古さん、私のためにどうもありがとう。受け取っておくね」


 私は手で箱を自分の元へと引き寄せた。


 それで安心したのか、加古さんの表情が和らぐ。


「課長、ありがとうございます!」


「いいえ。こちらこそ、素敵な贈り物をありがとう」 


 会社の同性の上司にこんなしっかりしたチョコレートを贈ってくれるなんて、物好きである。


 もしかしたら、こうして他の人にも渡しているのだろうか。表向きは禁止なわけだし、そうなのかもしれない。


 私たちは他愛もない日常の話をお供にカプチーノを飲んで、喫茶店を後にした。


 このチョコレートの意味に私は気づかないままに。

 

 

 


 季節は移ろい、桜が咲き、うだるような猛暑、秋刀魚が美味しい秋に、気づけばクリスマス。お正月も終わり、またバレンタインの季節がやって来た。


 やはり社内で表立ってチョコレートのやり取りをする者はなく、仕事をしている限りバレンタインであることを意識することはない。


 仕事を終えて会社を出ようと通用口に向かうと、壁によりかかって人待ち顔の加古さんがいた。


「どうしたの、加古さん。誰かと待ち合わせ?」


 商品企画課を出た最後の一人は私である。だから加古さんはきっと他の課の人でも待っているのだろう。もしかしたら彼氏なのではと思い至り、余計なことを聞いてしまったかもしれないと申し訳なくなる。


「実は七瀬課長のことを待ってました。どうしてもお話したいことがあって」


 私と目が合うと、戸惑ったような様を見せる。何か深い悩みでもあるのかと心配になってきた。


「加古さん、どこか他の所で話しましょうか」


「いいんですか?」


「ええ、構わないわ」


「それじゃ、以前一緒に行った喫茶店で」


 と言うので、私たちは駅近くのクラシックが流れる喫茶店へと赴いた。


 店内に入るとピアノ曲が流れている。


(何だったけ、この曲)


 どこか重く暗い音色に、私まで渋い気持ちになってきてしまった。


 今日は店内の中程にある席に座った。


「七瀬課長、お時間をいただいてしまって申し訳ありません」


 若干、悲愴感を漂わす加古さんを見て、流れているのはベートーヴェンのピアノソナタ第八番『悲愴』だったことを思い出す。


 実に曲と加古さんの表情がマッチしている。


「私は特に予定とかないから大丈夫よ。だからそんなびくびくしないで。話、聞いてもいい?」


「あっ、はい。すみません。ありがとうございます。話というか、渡したい物がありまして⋯⋯」


 加古さんはいつも使っている茶色のカバンから赤い包装紙にくるまれた箱を取り出した。


「バレンタインのチョコレートです。どうしても七瀬課長に渡したくて」


 おずおずと私の前に差し出す。


「ご迷惑でしたら、捨てて構いませんから」


「まさか。そんなことするわけないじゃない。ありがとう。去年ももらったね」


 同じシチュエーション、バレンタインの夜だというのに、私はチョコレートが出て来ることを全く想定していなかった。


「あのね、加古さん、私が上司だから渡さないとなんて気遣わなくても大丈夫だからね。いただくのはとても嬉しいけれど、加古さんの負担になってないか心配で」


「全然、負担にはなってません。むしろ私がご迷惑かけてないかと思って。それでも七瀬課長にはいつもよくしていただいてるので、少しでもそれをお伝えしたくて」


「ありがとう、加古さん。あなたには仕事でもいつも助けてもらってばかりで感謝してる」


「そんな、助けられてるのは私の方で⋯。課長といると、癒されるというか。この人とずっと仕事していたいって思えて」


 頬を高潮させながら、身を乗り出して加古さんは熱っぽく語る。


 それはまるで恋する人のようで。


(全く私は何を考えてるのかしら)


 少しだけ妙な期待をしている自分に私は呆れてしまった。


 ノンケの女の子のこういう所は罪深い。


 ついつい自分に気があるんじゃないかって、夢を見てしまう。


 だが現実でそんなことはそうそう起きはしない。悲しいかな、ほとんどの女性は男性に恋をする。


 同性への大好きや憧れなど、男には所詮勝てはしないのだ。三十年以上生きてきて私はそれを経験で知っている。


「私なんかが加古さんみたいな素敵な人の癒しになってるなら、光栄ね。私も仕事のしがいがあるってものよ」 


 経験で知っているが、少しだけ試したい気持ちが顔を覗かせる。


 私はテーブルに指を組んで置かれた加古さんの手にそっと触れる。


「これからもよろしくね、加古さん」


 私は自分にできる精一杯の最高の笑顔を彼女へと向けた。私が美男子なら加古さんを落とせたかもしれない、特大の笑顔を。


 加古さんはと言えば、顔も耳も真っ赤にして、うつむいてしまった。


(いい感じに見えるけど、そんなわけないのよね)


 冷静な部分の私は期待を遠くに放り投げて、加古さんを見つめていた。


「あっ、あの、七瀬課長⋯。私の方こそこれからもよろしくお願いします」


 顔を上げた加古さんの目は潤んでいて。


 でもきっとこれは恋じゃなくて。


 私は寂しい気持ちを飲み込んだ。




 

 

 その年の三月。丁度その日はホワイトデーで。私は加古さんを社内の別室に呼び出していた。


 室内はとても静かで、窓から陽光が降り注いでいる。


 穏やかな春の雰囲気であればよかったのだけど、加古さんも私も浮かない顔をしているのは一目瞭然だった。


「今日は加古さんに伝えなければいけないことがあるの」


 私が重々しく言葉を吐き出すと、加古さんの表情が緊張を帯びた。


「⋯⋯、あの、課長。もしかして異動ですか。異動の内示ですか」


「ええ。そうなの。四月から加古さんの異動が決まったの」


「⋯⋯そうですか。異動なんですね私」


 冴えない表情で加古さんは心ここにあらずな瞳を私へと向けた。


「私、商品企画課や課長のお役には立ってなかったんでしょうか」


「違うわ、加古さん。あなたの仕事ぶりがよかったから、評価されたから異動になったの。あなたの力が必要とされて決まったことなの。だからね、この異動は誇っていいのよ」


「私でもお役に立ててたんですね。ありがとうございます」


 加古さんはあらかじめ決まってるセリフを無理矢理読まされてるような調子だった。あまり異動は嬉しくないのだろう。


「私としても加古さんがうちからいなくなってしまうのは痛手よ。でももっとあなたの力を必要としている人たちがいるなら、胸を張って送り出さなければいけないね」


「あの、課長⋯⋯、私がいなくなったら悲しいですか?」


 加古さんはいまにも泣きそうな面持ちで、こちらまで泣きそうになる。


「それはね、もちろん悲しい。この内示が嘘だったらいいのにって、思ってる。そんなこと思ってはいけないのにね⋯」


「課長が悲しんでくださるだけで、私は充分です。変なことを聞いてしまってすみません」


「いいのよ。別に。だって悲しいもの。本当に。こんな時に言うことじゃないけれど、今夜あの喫茶店で会えない? 加古さんにお礼を渡したいから。今日はホワイトデーでしょ?」


「今年もバレンタインのお礼用意してくださったんですね」


「私だって、加古さんにはお世話になっているから、きちんとお返ししないと、と思ってね」


 そんな話をしながら、私はただ彼女の異動が何かの間違いだったらいいのにと、願っても仕方ないことを思っていた。

 

 

 


 仕事を終えた私たちはあの喫茶店へ来ていた。今日は窓辺の席。いい具合に植えられたプランターが上手く外からの目隠しになっている。 


 流れている曲はショパンの練習曲十・第三番ホ長調。一般的には『別れの曲』と呼ばれている。切ない調べが淡々と店内を満たしていた。


 よりにもよって異動の内示を出した日に、タイミングよく『別れの曲』を流してくるのだから、嫌になってしまう。


「加古さん、バレンタインにチョコレートをありがとう。とても美味しかった。去年はマドレーヌを渡したと思うんだけど、今年は私もチョコレートにしたの。ホワイトチョコ。すごく美味しいって評判のお店探して。お口に合うといいのだけど」


 私はラッピングされた箱を加古さんの前に置いた。


「七瀬課長、ありがとうございます。私の身勝手に⋯⋯、こうして付き合って⋯⋯、くださって⋯⋯」


 突然加古さんはテーブルに顔を伏せると肩を震わさせて泣き出してしまった。


「加古さん⋯⋯?」


「⋯⋯⋯すみません。⋯⋯⋯もう近いうちに、課長の部下じゃなくなるんだと思ったら⋯⋯、辛くて」


 それで泣いているなんて、何ていじらしいのだろう。


 私は立ち上がると加古さんの隣りに腰を下ろした。そのことに気づいて、彼女の体が一瞬びくりとしたけれど、泣いたまま。


 今は思う存分泣かせてあげよう。それしか私にできることはない。


 私はそっと加古さんの肩を抱いて、泣き止むの待った。


 どれくらい時間が過ぎたかは分からない。店内の曲はいつの間にか変わっていた。柔らかな調べはシューマンのトロイメライ。夢の中のような優しい曲。


 加古さんの心も少し落ち着いたのか、ようやく真っ赤になった顔を上げてくれた。


「課長、みっともないところをお見せしてしまって申し訳ございませんでした」


 ハンドタオルで目元を押さえながら、加古さんはややこざっぱりとした口調で謝る。


「いいのよ。そんなことで泣いてくれる人なんて私には滅多にいないもの。ありがとうね、悲しんでくれて」


「もう何でまたそんな風に言うんですか。止まりかけてた涙が戻ってしまうじゃないですか」


「ごめんなさい。でも加古さんの異動先はうちの課と同じ階だし、またいつでも会えるよ。転勤するわけではないのだし」


「そうですね。何だか私、課長の部下じゃなくなって永遠の別れみたいな気持ちになってしまって⋯⋯」


「私も異動しない限りはずっといつもの場所にいるから。だから新しい所に行っても、困ったことがあったら会いに来て。私はいつでも加古さんの味方だからね」


「会いに行っていいのは、困った時だけですか?」


「それ以外でも加古さんが会いたければ、私は歓迎するよ」


「本当、課長って優しいですよね。でも私はそういう課長の優しいところに惚れたんです」


 加古さんは今まで見せたこともないような華やかさで微笑んだ。思わずどきりとしてしまう。ましてや、惚れたなんて。もちろん私が期待してる意味じゃないことは分かっているけれど。


「加古さんみたいな素敵な人に惚れられるなんて、私もまだまだ案外いけるのかしら」


 わざとおどけてみせる。


「案外どころじゃありません。七瀬課長は私が出会った時から、変わらず魅力的ですから。それこそバレンタインのチョコレートを渡したくなるくらいに」


 真剣な眼差しで加古さんは私の手を握って、ぐいっと迫って来る。


 顔が近い。そんなに近いと、変にどきどきしていることが伝わってしまいそうで、焦る。


「⋯⋯そ、そう。そこまで惚れてもらえるなんて課長冥利に尽きるというか。嬉しいな」


「七瀬課長、私はけっこう本気で惚れてますよ」


「へぇ⋯⋯。そうなんだ。それは⋯」


 どうしていいか分からず言葉がつまる。


 このまま押せばいいのか。引けばいいのか。


 けれど押して何でもなかったら、やっぱりショックだ。だからなるべく期待はしない。しないでおく。


「例えば、加古さんがそこまで惚れてるなら私たち付き合ってみる? ⋯⋯⋯⋯なんてね。冗談だから気にしないで」


 私は乾いた笑いを顔に貼り付けながら誤魔化した。付き合えるわけないのに。どうせ加古さんにも彼氏なり好きなひとがいるんだから。


「冗談なんですか、今の。私はちょっと本気にしましたけど」


「えっ⋯⋯」


 互いに見つめ合う。沈黙が流れる。夢のような淡い曲だけが私たちの合間を通ってゆく。


「その、加古さんは本気にしたって言うけど、付き合うってその辺のモールに遊びに行くとかそういう付き合うじゃないのよ。えーっと、あの、いわゆる交際という意味で」


 混乱していて自分でも何を言っているか分からなくなっている。もし自分の思い違いならどうやって言い訳しようか。


「私は⋯⋯、私はもし七瀬課長とお付き合いできるなら本望ですけど」


 予想外に真剣すぎる加古さん。


 これは夢だろうか。だってこんな女性同士で上手くいくなんて普通はなくて。


「あのね、加古さん。私たちはお互いに女じゃない。男女じゃないわけで、実際に交際するとなると抵抗とかないの? 私はね、ないけどね。ないんだけど、加古さんはどうなのかなって」


「あったらこんなこと言わないと思いますけど、玲香れいかさん」


 急に下の名前を呼ばれて、私は益々胸の高鳴りが速くなるのを感じる。


「玲香さん、私は女性が女性を好きになってもいいと思うんです。今は恋愛するのに性別がどうとか関係ないと思います」


「確かにそうかもしれないけど⋯⋯」


 加古さんは若いから恋愛は男女だけでするものではないという常識になっているのだろうか。私たちの世代とは考え方が違うのかもしれない。


「あの、玲香さんにも気持ちがあるなら、私に少しでも気持ちがあるなら、考えていただけませんか? 私、わりと本気で玲香さんのこと好きなんですけど」


 私たちはお互いに素面で、お酒に酔ってるわけでもなく。そして加古さんの今までを考えればこんなことを冗談として話すわけもなく。


 期待してもいいのだろうか。


 気になっていた同性の部下と付き合うなんてことが実現することを期待しても。


「加古さんのことは好きよ。すごく大事に思ってる。でも、その、本当に私でいいの?」


「私には玲香さんしかいません。あとできれば私のことも名前で呼んでくださいませんか?」


「⋯⋯、み、美波みなみさん」


「はじめて玲香さんに名前で呼ばれました。嬉しいです」


 加古さん、もとい美波さんは私の手を強く握りしめ、実に幸せそうな表情をする。


 こんな表情を嘘でできるわけない。


「玲香さん、私と付き合ってください。お願いします」


 熱い眼差しでの告白にノーなんて言えるわけもないし、言うつもりもなく。


「はい。⋯⋯お願いします」


 私も彼女の手をしっかりと握りしめた。


 店内の曲はまた別の曲になり、喜び跳ね回っているような明るい曲になっていた。


 何て曲だっけ。確か、ええっと、ショパンの子犬のワルツだ。


 まるで今の私みたいな気持ちの曲。


 私も子犬みたいにどこまでも駆けて跳ねて喜びあかしたい気分だった。

 

 

 


「美波さん、遅くなってごめんなさい」


 私は駅前で佇む美波の元へと走ってよった。


「家を出る前に急に母が電話をよこすものだから」


「いいえ、そんなに待ってないですから、玲香さん。お母様からの急なご連絡があったのに、私のところに来ても大丈夫でしたか?」


「ええ。荷物を送ったからってそれだけだったから大丈夫。最近あんまり連絡してなかったから心配されちゃって」


「そうでしたか。ところで玲香さん、いつになったら呼び捨てにしてくれるんですか?」


「ごめん。まだ慣れてなくて」


 私と美波が付き合って一ヶ月が過ぎた。今のところ順調に交際している。


 美波は女性と付き合うのは私が初めてらしいのに、戸惑うこともなく自然体で隣りにいてくれた。


 女性としか交際したことのない私だって、初めて付き合った時は色々と悩んだり考えたというのに。美波は大人しそうに見えてかなり肝がすわっている。


「玲香さん、それじゃ行きましょうか」


「そうね」


 さりげなく美波は私と腕を組む。


 これだって最初は人前でいいのかなんて私の方が気にしていた。でも美波はそんなことは気にしない。


「玲香さんとこうして一緒にデートできるなんて、本当に夢みたいな気分です」


「そうだね。私もたまに現実じゃないかもなんて思うことがある」


「私もある日起きたら全部夢でしたってならないかたまに心配になります。バレンタインのチョコレートも、実は玲香さんに気持ちが伝わるまで毎年渡そうって思ってて。何年も片想いなのを覚悟してたんですけどね。伝わってよかったです」


 実に健気なことを言ってくれる。


 こんな美波だから二人きりになるたびにたくさん幸せをもらっている。


 きっと来年のバレンタインは遠慮なく好きの気持ちを込めて堂々と渡せる。


 そう思うとまた季節が巡って来ることが楽しみだ。


 今は美波との幸せをかみしめていたい。             

     

           

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

百合小説短編集2 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ