第4話 ハロウィンの魔法
私がこの夏に転職して入社した会社には、ハロウィンにはパーティーをするという習わしがある。
小さな会社なので、社員同士の親睦を深めるために行うという。
社長の従兄が経営する飲み屋をわざわざ貸し切って行うというのだから、随分な気合の入れようだ。
仮装が必須で、私も黒い角がついたカチューシャに黒いワンピース姿で、簡素な悪魔姿。
みんないい年した大人なのに、けっこう仮装にも気合を入れてて、それなりに楽しんでいる。
私の隣りで唐揚げを頬張る
このまま舞台に上がっても映えそうな姿に、私はちびちびと発泡酒を飲みながら視線を送った。
「何、ゆかりちゃん。もしかして私吸血鬼似合ってない?」
私の視線の意味を勘違いした貴世子さんが困ったように笑う。
「まさか。その逆ですよ。似合ってますよ。吸血鬼が似合ってるってのが褒め言葉かどうか分かりませんが、かっこいいですよ」
「本当? ありがとう。ゆかりちゃんに褒められるなら頑張って仮装したかいがあったなぁ」
嬉しそうにビールを飲む貴世子さんの、ほんのり朱に染まった顔がまた艶っぽくもあり、私はどきりとする。
「ゆかりちゃんもそのお洋服似合ってるよ。可愛い。そういう服好きなんだ?」
「これは妹に借りたんです。妹はこの手の服が好きなもので。なので普段は着ません。私には派手で⋯⋯」
私はフリルがふんだんに使われたスカートの裾をつまんでみせた。
黒一色ではあるが二十八の女が着るには、随分甘いデザインだ。地味な私が着ていると、服だけが浮いている。今日は無礼講ということで大目に見てほしい。どうせ家に帰る時には着替えるのだから、問題はない。
「そうかな。ゆかりちゃんに似合ってると思うけどな。可愛いよ!」
酔っているのか貴世子さんは私の頭をぽんぽんする。
(な、何っ、このシチュエーションは⋯!)
思わず顔が熱くなる。
そんな私に気づいているのかいないのか、貴世子さんは楽しそうに笑う。
(本当、ずるいなぁ。貴世子さんは)
最初は職場のハロウィンパーティーなんて面倒だと思っていたけれど、こんなボーナスがあるなら悪くないかもしれない。
貴世子さんは、入社以来ずっとお世話になっている私の上司。仕事のいろはを手とり足取り教えてくれた人で、感覚としては上司というよりは先生とか師匠に近い。
確か今年で四十になると言っていたけど、溌剌とした明るさが年よりも若く見せている。
困っていれば親身になってくれるし、何より気さくで話しかけやすい雰囲気。それでいて馴れ馴れしいわけではない。一緒にいて心地よい人だった。
入社したばかりでびくびくしていた私の心を一瞬で解きほぐしてしまった人。
私はきっと入社した時から貴世子さんが好きなんだと思う。私の緊張を軽くどこかへ吹き飛ばしてしまうほどの親しみやすさや、彼女持ち前の明るさ。
それらが柔らかい絹のように私に纏って、魅了し続けている。
一目惚れなんてしない質だと思っていたけれど、まぎれもなく貴世子さんには一目惚れしたと言える。
彼女の全てに私は惹かれている。
そんなことを打ち明けることはきっと一生来ないのだけれど。
「ゆかりちゃん」
私の名前を呼ぶ少しハスキーな声。
「何ですか?」
「何でもないよ。ゆかりちゃん〜」
「もう、貴世子さん酔ってますよね」
「まだビール一杯も飲みきってないのに酔うわけないでしょ」
おでこを人差し指で小突かれた。
実際に酔っているかはともかく、上機嫌なのは確かだ。ここにいるみんな上機嫌ではあるけれど。
「ゆかりちゃん、このポテサラ美味しいよ。食べてみて」
貴世子さんはお皿に私の分を取り分けてくれる。
私が食べるのを確認したいのか、こちらをじっとにこにこしながら見ているので、ちょっと気恥ずかしい。
見られていると食べにくいけれど、私はポテトサラダを口に運んだ。
「確かに美味しいですね」
私は二口、三口と箸が進む。
「ゆかりちゃんの口にも合った? これいいよねー。ね、ゆかりちゃん」
私は頷きながら、自分を呼ぶ楽しげな貴世子さんの声音を何度も脳内でリフレインさせている。
ゆかりちゃん。ゆかりちゃん。ゆかりちゃん。
(貴世子さんの声って何か落ち着く)
そう言えば貴世子さんが下の名前で呼ぶ社員は私だけだ。他にも社員はいるのに。私は途中入社だから馴染みやすいように、気を遣ってくれているのだかろうか。それで下の名前で呼ぶのだろうか。貴世子さんのことだ。それは充分にありえる。
そこまで考えて、もっと特別な理由ならいいのにな、なんてわがままな私が顔を覗かせる。
(下の名前で呼んでもらえるだけでも贅沢だよね。だって他の人は名字で呼ばれてるわけだし)
見方を変えれば、それは少し特別と言える。貴世子さんにとっては大した意味はないかもしれなくても、私にとって特別ならそれでいいはずだ。
ハロウィンパーティーはそれなりに盛り上がり、私も普段より貴世子さんと話せて楽しむことができた。
会がお開きになると私はトイレで灰色のスーツに着替えてカバンにワンピースをしまう。席に戻ると貴世子さんもいつもの姿に戻っていた。
「ゆかりちゃん、一緒に帰ろ?」
貴世子さんはさらりと私の腕を取る。
好きな人に誘われて断るなんて、当然できるわけもなく。
私は二つ返事で了承して、二人で駅に向かうことになった。
十月の下旬ともなれば夜風もかなり冷たくなっている。でも酔った体に今の風はとても気持ちがいい。
心が洗われるような、と言ったら大げさだけれど、頭がすっきりする感じがする。
私は貴世子さんに腕を取られたまま駅へと続く道を歩いた。お店や通りはまだハロウィンの飾りつけがあり、私たちと同じようなパーティー帰りらしき人たちも見かける。
「ゆかりちゃんあの黒いワンピース似合ってたのに、着替えちゃうなんてもったいない」
「さすがにあれで帰るのは勇気がいりますね。あとあれだと寒いですし」
「言われたらそうだね。でも可愛かったよ」
今日は一段と貴世子さんに褒めてもらえる。今の貴世子さんは機嫌がいいからだとは思うけれど。好きな人に可愛いと言われて嬉しくない女がこの世にいるだろうか。
「貴世子さんも素敵でしたよ。吸血鬼。あんな吸血鬼になら
私はほんの少しくらい気持ちが伝わったらいいのに、と思いながら返す。
こんなことで伝わるわけないし、伝わったところで私が願うようなことにはならないと分かっているけど。
「またまた、ゆかりちゃんは上手いこと言って。そんなこと言うと本当に拐っちゃうよ?」
「いいですよ」
私は貴世子さんの指に自分の指を絡ませた。お酒がいつもより私を大胆にさせた。心臓がどきどきしている。
「ゆかりちゃん⋯⋯」
「拐ってください、貴世子さんのところに」
「⋯⋯悪い子だな、ゆかりちゃんは。私も悪い人になっちゃいそう」
「今日の私は悪魔でしたからね。当然いい子なわけないじゃないですか。貴世子さんだって吸血鬼だったんですから、いい人じゃなくていいんですよ。今日くらい」
普段とは違う空気が私たちの間を流れる。目と目が合う。私の胸はさっきからずっとうるさいまま。
貴世子さんは、どうなのだろう。どうして私たちは今こんな会話をしているのだろう。
その後は特に何を話すでもなく駅に到着して、電車に乗り込んだ。ハロウィンの夜のざわめきを感じながら、一駅一駅通り過ぎていく。
そして貴世子さんの家の最寄り駅であるS駅に到着した。
「今日もお疲れ様でした。貴世子さんとたくさんお話できて楽しかったです。また月曜日に」
「うん。私もゆかりちゃんと色んな話して、ご飯食べて楽しかった。またね」
電車のドアが開く。何人も人が降りてゆく。貴世子さんも。
私は離れ難くて、でも引き止めるなんてできなくて。ただ背中を見つめていた。
「ゆかりちゃん!」
ホームに降り立った貴世子さんが私を呼ぶ。何故だろう、貴世子さんも寂しそうな顔をしている。
自然と体が動く。電車の外へと足を踏み出す。貴世子さんは驚いた顔で私を見ている。背後のドアが閉まった。
「ゆかりちゃん⋯⋯!」
貴世子さんは私の手を引っ張った。
「ここで降りたらお家帰れないじゃない」
呆れてるような、泣きそうな複雑な表情の貴世子さん。
「私がですか? 貴世子さんがですか? また次の電車に乗ればいいですよ。それとも貴世子さんが拐ってくれますか? さっき言いましたよね」
「そうね。言った。私酔ってるからさ。この手、今日はもう離さないかも」
「いいですよ、離さなくても」
私たちは手を繫いで駅を出た。すれ違う人が私たちは見ている。こんな大人同士で手を繋ぐなんて変だと思っているのかな。いや、それともこれは私が気にしすぎてるだけで、誰も何にも見てないのかもしれない。他の人のことなんてどうだっていい。今はこうして好きな人に触れている幸せを感じたい。
それから私たちは十分もしないうちに貴世子さんが住むマンションにたどり着く。
「ここの五階に住んでるの」
「五階なら景色良さそうですね」
「悪くはないかな」
なんて適当に話しながら二人でエレベーターに乗って。そしてあっという間に503のプレートがはまったドアの前に立つ。貴世子さんが鍵を開ける。
「散らかってるかもしれないけど、どうぞ」
私は貴世子さんに促されて中に入った。
「おじゃまします」
部屋の中は散らかってるなんてことは全然なくて、すっきり片付いている。アンティーク調の家具で揃えられた、おしゃれな部屋。
ここが貴世子さんの家なんだ、という感動と、貴世子さんの家にいるという現実感のなさ。
(まだ私は夢を見てる?)
「ゆかりちゃん、どっかその辺に適当に座ってて」
「はい、失礼します」
私はオリーブグリーンのソファに腰をおろした。
ぼんやりしていると、頬に冷たい何かが当たる。水の入ったペットボトルを貴世子さんが私に当てたのだ。
「びっくりした? お水飲む?」
「いただきます」
貴世子さんはグラスを私の前に置くと、横に座った。
「これってやっぱりゆかりちゃんを拐ったことになるのかな?」
「そうかもしれないですね。私は貴世子さんならいいって、さっきも言いましたよ。もっと傍によってもいいですか?」
私は真横にいる貴世子さんに向き直って、彼女の優しい面立ちに視線を馳せる。
何だか今日の私は変だ。普段なら出来ないことをしている。ハロウィンの魔法が私にもかかっているんだ、きっと。
「いいけど、私はゆかりちゃんを拐いたいと思うような女だけど、大丈夫?」
「嫌ならそもそも貴世子さんの家にまで来たりしません」
私はそっと貴世子さんにもたれかかった。いい香りがする。私が知ってる貴世子さんの香り。
私の背中にゆっくりと貴世子さんの腕が回されて、ぎゅっと引き寄せられて、その柔らかい体に身を預けることとなった。
「ほら、私こういう風にしたくなるからさ。ゆかりちゃん相手だと」
「私は嬉しいです、貴世子さん」
好きな人の腕の中にいる心地良さ。突然目が覚めてこの夢が終わってしまったら、私は泣いてしまうかもしれない。こんな幸せな時間を失いたくないから。夢だったら切ないから。
「ゆかりちゃんは優しいね。でも嫌なら嫌ってちゃんと言ってね。上司だからって遠慮は禁物だよ」
「嫌などころか幸せな気分ですよ。何だかずっとふわふわ夢見心地です。貴世子さんと一緒だから」
「⋯⋯それはお酒のせいだったりしない?」
「お酒だけでこんな幸せなら、私毎日だって飲みますけどね」
見上げると穏やかな月の光のような貴世子さんの目と合う。
表の通りを走る車の音と時計の秒針以外は、ただ静かな空間が広がっていた。
このまま二人きりの時間が永遠に続いたらいいのに。好きな人を独占していたい。
「貴世子さん、私実は職場に好きな人がいるんです」
「⋯⋯そう。その人のこと、私が聞いてもいいの?」
「いいですよ。聞いてほしいので」
「私も知ってる人だよね⋯⋯」
「ええ、もちろん。
ついに私は言ってしまった。一生言うつもりがなかったのに。
貴世子さんは案の定、驚いた顔で私を見ている。息を飲むのが分かった。
「冗談や嘘じゃないですからね、貴世子さん」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「私、入社した時から好きだったんですよ。貴世子さんのこと。自分でもどうしようないくらいに、気づいたら貴世子さんに惹かれていたんです。だから、貴世子さんにあんまり優しくされたり、好意的な態度をされると、もっと夢を見たくなっちゃいます」
少し怖いけど、でも今なら私の気持ちも叶うんじゃないかって、妙な自信も湧いている。
だってこんなにも貴世子さんが私に優しいから。私にだけ特別みたいに見えてしまうから。
それともこれも夢なんだろうか。ハロウィンが見せた夢。
「ゆかりちゃん⋯⋯。でも私、けっこう年上だし、若いゆかりちゃんからしたらおばさんだし⋯⋯」
どこか戸惑っている貴世子さん。
「私が好きなのは貴世子さんですから。年とかあんまり考えたことないです。貴世子さんが貴世子さんでいてくれたら、それだけでいいんです、私」
貴世子さんは体勢を私に向けると、優しく抱きしめた。体と体が密着して、体温を感じて、息遣いまで聞こえる。
私は急に現実に引っ張り戻されたかのように、心臓がどくんどくんと脈打つのを耳の中で聞いている。
「ゆかりちゃん! 私もね、ゆかりちゃんのこと好きだったの。最近は仕事ばっかりで、恋とか恋愛なんて考える余裕なかった。けどね、ゆかりちゃんがうちに来て、毎日一緒にいるうちに、気づいたら好きになってて⋯⋯。こんな年下の子に夢中になるなんて、自分でも思ってなくて⋯⋯。でもゆかりちゃんと過ごす時間が、たとえ仕事でも私の癒やしになっていたの」
私が聞きたいと願っていた、貴世子さんの言葉。けして現実では聞けないと思っていた言葉。
「貴世子さん、私好きです。あなたのことが好きです!」
「私もゆかりちゃんが好き」
ハロウィンの夜に私の恋が叶った瞬間だった。
朝、目が覚めると横に貴世子さんがいた。起き上がって眼鏡をかけ、新聞を読んでいる。水色のパジャマが爽やかで似合っていた。貴世子さんは文字を読む時だけ、眼鏡をする。職場で見かける度に、眼鏡の貴世子さんも素敵だなとよく盗み見してたっけ。
じっと見つめていると貴世子さんの視線が私に降り注ぐ。
「おはよ、ゆかりちゃん」
「おはようございます、貴世子さん。今何時ですか?」
「今? あと五分で七時になるところ。眠いならもう少し寝てていいよ」
「貴世子さんが抱きしめてくれるなら、もう少し寝たいです」
「甘えん坊だね、ゆかりちゃんは」
貴世子さんは眼鏡と新聞をサイドテーブルに置くと、毛布の中に入り込んで来た。そうして私を抱きしめてくれる。
昨晩は告白してから、嬉しくてすっかり高揚してしまい、記憶が飛んでしまった。どれもこれも思い返せば幸せな夢の一場面のよう。
思いが通じ合ったところで、私たちはお互いがいかに好きか語り合った気がする。今になってみれば、少し恥ずかしい。
気づいたら夜も更けて、私は結局貴世子さんの家に泊まることになった。
私が着ている白いパジャマは貴世子さんに借りたものだ。彼女のいつものいい香りがする。
「朝になっても、覚めませんでしたね。昨日のこと、夢だったらどうしようって、まだ少し思っていて⋯⋯」
「私も起きて横にゆかりちゃんがいるのに、全部私の妄想だったらどうしようって、ちょっとだけ焦っちゃった。でも夢じゃないよ、全部。ほら、こうしてゆかりちゃんに触れられるもの」
貴世子さんは私の頭を静かに撫でる。
「そうですね。私も貴世子さんに触れられますし」
私は体を伸ばして貴世子さんの唇にキスをする。二人で見つめ合う。貴世子さんからも私にキスをする。
「ゆかりちゃん、これからも一緒にいてくれるよね」
「はい。できるなら、ずっと貴世子さんと⋯⋯」
ハロウィンの夜は終わったけれど、ハロウィンの魔法は私たちの恋を愛に変えてくれた。
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