第3話 全てはこの部屋から始まっていた
仕事を終えた私は同じ市内に住む従兄弟たちと久しぶりに会って焼き肉に出かけた。
バカみたいな話で盛り上がって、気づいたら夜も大分深まっていた。
従兄弟に車で家まで送ってもらい、私は自宅のマンションまで帰りついた。
明日はどうせ土曜日で休みだし、あとは寝るだけでいいのが楽だ。面倒だからシャワーは朝にして、楽しい余韻に浸ったまま一日を閉じる幸せに酔いたい。
部屋の鍵を開け、手探りで明かりのスイッチを押す。目の前に眩しい蜜色の光が広がる。
だが、足元にあった大きな塊に私は慄いて玄関ドアまで後退る。
心臓がばくんばくんとけたたましく鳴り響く。
一人暮らしの私の部屋の廊下に、人が倒れている。
白いシャツに紺色のスカート。
明るい茶色の長い髪を乱して倒れている横顔に見覚えがあった。何故ここにいるのかは分からないが、私は慌ててしゃがみ込み、顔を覗き込む。
「
名前を呼びながら、様子を伺う。
顔色は至って普通だ。見たところ怪我などはしていない。目元が赤いが、すやすやと寝息を立てて眠っている。
取り敢えず病気や怪我で倒れているわけではないと気づいて胸をなでおろす。
しかし何で元ルームメイトであり元後輩がここにいるのか。この状況に疑問だらけの私は彼女の体を揺すった。
「環希、環希起きて」
「⋯⋯⋯ん、先輩おはようございます」
もそもそと環希が起き上がる。
「おはようございます、じゃないよ。もう何でこんな所にいるの。びっくりしたじゃない」
「鍵、返そうと思ったんですけど〜、廊下で待ってたら不審者に見えるかなって思って中で待たせてもらいました。そしたらうとうとしちゃって」
「今更鍵なんて返さなくても⋯⋯。変なところで律儀ね。別にポストに入れておいてくれてもよかったのに」
「言われてみたら、そうですね。それじゃ、返しますね」
環希はカバンのポケットからりんごのキーホルダーが付いた鍵を出して、私の手の平に落とした。
「これは、いいの?」
私はキーホルダーを指す。
二年ほど前に環希と二人で信州へ出かけた際にお揃いで買ったものだった。
「⋯⋯そうですね。取りますね」
環希は私の手のひらから鍵を取ると、見るからに不器用な手付きでキーホルダーを外そうとする。だが、なかなか上手くいかない。
「ほら、貸して」
何故か環希は一瞬躊躇ってから私に鍵を渡した。私はキーホルダーを外す。
「はい、これ」
「⋯⋯ありがとうございます、先輩。用も済んだので帰りますね」
環希はふらりと立ち上がろうとする。
「今から? こんな時間に一人で帰るなんて危ないよ?」
環希は私と違ってまだ若いし、可愛いし、こんな夜中に一人にするのは、はばかられる。
「通りでタクシー捕まえます」
「すぐタクシーが見つかるか分からないし、泊まっていけば? 明日も仕事?」
私は以前の調子で提案した。
まだ環希が同じ職場にいた頃は、よく泊まりに来たものだ。映画を見て、夜更しして熱く語り合ったことを昨日のことのように覚えている。
それが極まって環希とはルームシェアして暮らすまでに至った。
気づけば三年も共に暮らしていた。
一年前に環希が転職して家から出て行って、二人の生活は終わったけれど。
「休み⋯⋯です」
「そう。なら泊まっていけばいいじゃない。昔みたいに映画でも見る? あ〜でもこの時間からだとかなり夜更しになるか⋯⋯」
「
環希は丸っこい瞳をうるうるさせながら私を見つめる。
「どうした?」
「⋯⋯私」
何か言いたそうにしながらも、環希は口をつぐんだ。言いたいけれど、言ってもいいか迷っている。そんな素振り。
「取り敢えず、いつまでも廊下にいるのもあれだからリビングに行こう」
私は環希の腕を取ると、奥のリビングまで連れて行った。そのままソファに座らせる。
「何か飲む? そうだ、環希が好きなジャスミンティーあるんだ。それでいい?」
環希はこくりと頷くので、私は冷蔵庫からペットボトルのジャスミンティーを持って行った。環希が好きなメーカーのもので、一緒に住んでいる頃によく飲んでいた。そのせいか私も見かけるとたまに買ってストックしていた。
「ありがとうございます、智奈先輩。私本当は⋯⋯。いえ、何でもないです」
環希は頭を振るとジャスミンティーに口をつけた。
どこか思いつめたような眉間のしわが目に入った。何か悩みでもあるのかもしれない。環希が一息ついたところで声をかける。
「何でもないって雰囲気じゃないけど?」
私も隣りに腰を下ろして、どことなく憂いを見せる環希と目を合わせた。
突然、連絡もなく現れて何もない方がおかしい。いざ行動に出たところで、よく分からない遠慮を働かせて、本来の目的を躊躇っているように見える。
「環希、私に何か聞いてほしいことでもあるんじゃない? わざわざ鍵を持って来たりしたのも、私と話したかったから、だったりしない?」
そうでもなければ、鍵なんてポストに入れるなり処分するなり、郵送するなりすればいいことだ。引っ越しから一年も経って、手間と時間をかけて仕事帰りに来ることもない。
「何でも聞くから、話して環希。何か悩み事でもあるの? 私で良ければ相談に乗るから」
「先輩⋯⋯!」
意を決したように環希は膝の上で手をぎゅっと握る。
「あの、先輩⋯⋯。私ルームシェア解消したことを後悔してて」
「そうだったの?」
普通に笑顔で去って行ったので、後悔していたなんて意外だった。たまに電話で話す時も、そんな話題など出たことがない。
「また一緒に暮らす?」
私としては環希との生活はとても楽しくて、日々に潤いを与えてくれた。
解消時にはかなり凹んだくらいだ。
環希という存在が家からいなくなり、私の生活は味気ないものになってしまった。
おかげで立ち直るのに一年近くも経っている。今だって、寂しさがないと言えば嘘だ。
若い頃は彼氏と同棲していたことも何回かある。
でも相性が合わなかったのか、粗が見えてしまい交際も破綻した。そんなことが続いて、私は彼氏ができても同棲という選択はしなくなった。。
だから私には誰かと暮らすなんて無理だと思っていた。
けれど環希といると気楽さや安心感があって、おまけに趣味まで同じ。
私としては環希との生活を再開するのも悪くないと思っている。
「先輩はまた私と暮らしてもいいって思ってくれているんですね。それともただのお世辞ですか?」
「全然、そんなんじゃないよ。だって環希と暮らしてる時、すっごく楽しかったから」
まるでパズルのピースとピースがかっちりと合わさって一つの絵になるような、そんな心地よさが環希との生活にはあった。
「本当に、本当ですか?」
「うん。本当。こんな嘘ついてどうするの? 三年も一緒に暮らしたじゃない」
「先輩⋯⋯」
寂しげな面持ちで環希は私の手に触れる。その手は緊張しているのか、少し震えていた。
「一人になったら、人恋しくなったとか? 環希はにぎやかなのが好きだもんね」
「寂しい⋯⋯。寂しいですよ。だって毎日智奈先輩がいないし。仕事に行ってももう会えないし、家に帰っても一人だし。映画も一人で見てるし。寂しいです」
瞳の端から小さな涙を流した環希を、私は思わず抱きしめてしまった。
二人で暮らしていた時、環希はいつだって笑顔だった。向日葵みたいなきらきらとした笑顔を何度見ただろう。
その環希が泣いてる姿は、心を握りつぶされたような痛みが走る。なるべくなら悲しんでる泣き顔は見たくない。
「そっか。寂しいんだね。一人が嫌ならいつだってここに戻って来ていいんだからね」
私は泣いている環希の目元を拭った。
「もう同じ会社じゃなくても、ですか?」
「確かに今は別々の職場になったけど、環希は大事な後輩、友だちだから。そんなの関係ないよ」
「友だち⋯⋯。もし、もしまた一緒に暮らしたとして、先輩に大事な人ができたらどうしますか? ⋯⋯彼氏ができたら」
「それは何か関係あるの? あぁ、私に彼氏ができたら環希との生活を解消するかもしれないから?」
環希は私の言葉に頷く。
友だちを取るか、彼氏を取るか。どちらかしか選べない場合、それはとても難しい選択になるだろう。
「私は彼氏ができたからって、彼氏と一緒に暮らすかどうかは別だと思う。環希と暮らしてたら、環希を優先する。彼氏できました、それじゃ環希は出ていきなさいなんて、ひどいことはしないよ。私にとって環希は大切な後輩なんだから」
「先輩は優しいですね。そんなんだから私は⋯⋯」
環希は何かを訴えかけるように潤んだ瞳で私を見つめている。
「⋯⋯先輩とまた話したいです。色んなこと」
小さな子供が甘えるように環希は私に強く抱きついた。
こんな様を見せられると、無性に可愛がりたくなるような衝動にかられる。
「話したいことたくさんあるなら、話していきなよ。ね、環希」
突然の事態ではあったが、環希は家に泊まっていくことになった。
リビングでテレビを見ながら、適当に作った惣菜をつまみにお酒を飲む。
お酒はこれまた環希がよく好んで飲んでいたチューハイだ。
環希が好きなものを見かけると、もう一緒に住んでいないのにもかかわらず買ってしまう。一種の癖のようなものだろう。一年経ってもこれなのだから、私はやはり環希のいない生活はあまり楽しめていないのだ。
それほどまでに彼女の存在が自分の中で大きいことに気がつく。
環希はちびちびとお酒を飲みながら、今の職場のことや身の回りの話を色々と教えてくれる。
「今の会社の先輩がいっつも私に好きな人はいないのかって聞いて来るんですよ。恋愛関係の話好きみたいで困っちゃいます」
「環希は実際に気になる人はいないの?」
誰が見ても愛くるしくて可愛らしい環希なら引く手数多だろう。うちの職場で働いていた時も、同年代の男性からよくアプローチされていた。しかし環希の好みの男性はいなかったようで、いつも困ったようにあしらっていた。
「いません。⋯⋯全然ってわけでもないですけど」
環希は私の瞳を射るような双眸で見てくる。あまり触れない方がよかっただろうか。
「先輩、私は社内恋愛って面倒そうだし、仮に職場に好きな人がいても付き合いたいとまでは思わないです。本当にすごくすごーく特別なら話は別ですけどね」
環希は何か含みをもたすように言う。この話題に触れないでほしいのか、触れてほしいのかいまいち分からない。環希としても複雑な感情があるのだろう。
「すごく特別な人、いるの?」
「⋯⋯さぁ、どうでしょう」
目線はこちらに向けたまま環希はお酒を飲む。
「もしかして、その環希が気になってるって相手、私が知ってる人だったりする?」
環希に気になる人がいて、その相手が全く知らないなら、もっと自然と打ち明けてくれるはずだ。私の知ってる環希はとても素直で、でも今の環希はいま一つ端切れが悪い。
私の知っている人だからこそ、聞いてほしくないような、聞いてほしいような態度になっているのではないか。
「智奈先輩、手を出してください」
急に環希は話を変えた。
「うん、いいけど」
私も意図がよく分からないままに、左手を差し出した。すると環希は自身の右手を私の手の上に重ねた。ほんのりと温かな感触。
「ほら先輩、これで分かるでしょう?」
「何が?」
「何がじゃないですよ。集中すれば私のことなんてすぐ分かるはずです」
酔ってるせいか変なことを言い出した。
「あのね、環希。私はエスパーじゃないんだから、触れたくらいで環希のことお見通しってわけにはいかないんだからね」
呆れつつも私は環希のよく手入れのされたその手を掴んで握ってみた。
もちろん、それで環希の考えが自分に流れ込んで来る、などということはなく。
ただ柔らかなその手に触れているのは、何だか心地良いというか、愛おしいというか。スキンシップってたまにはいいものだなと感じる。
「先輩、今夜手をつないで隣りで寝たいって私が言ったらどうしますか?」
「別に構わないけど」
一緒に暮らしていた時だって、たまに同じベッドで寝ていた。今更の話だ。
環希は夜中に目が覚めると寝ぼけているのか、よく私のベッドに潜り込んで来た。
最初はびっくりはしたけど、何度もあったせいか慣れてしまった。たとえ相手が恋人でなくても存外、誰かと眠るというのも悪くない。これは暮らせるほどに気心が知れた環希だから、というのはあるけれど。
「本当ですか? それなら私は智奈先輩と寝ますよ。いいんですか?」
「いいよ、いいよ。環希は寂しいんでしょ。私なんかでその穴埋めできるならいくらでも協力するから」
環希は困ったような顔をしながらも、私の胸に飛び込んで来た。
酔って寂しさが増したのかもしれない。
私は環希を抱きしめた。
離れて過ごしている間、環希がどんな生活をしてきたのかはほとんど分からない。
ただ、今の環希を見ていたら、寂しかったことだけは察した。そんな姿を見ていたら私としては放ってはおけないし、できうる限り、彼女から憂いや寂しさをなくしたいと思う。
環希のことが愛おしい。こういう感情に名前があったはずだ。どんな名前だったかは出て来ないけれど。
「これ着るの久しぶりです」
環希は私が貸したパジャマに着替えていた。淡い水色のパジャマで、かなりゆったりした作りになっている。動きやすくて、寝るのにも最適だ。そのせいか、暮らしていた頃は環希が勝手に着ていることもあった。
私が着ているよりも環希の方がずっと可愛らしく見える。
「さぁ、そろそろ寝ようか」
私はサイドテーブルの明かりに手を伸ばす。
「そうですね」
環希が名残り惜しそうな顔をしつつも、ベッドに潜り込んだので、私は消灯した。
寝室には窓があるため、完全には暗くならない。
カーテンの隙間から外の街灯の光や月明りがひっそりと忍び込んでいた。
「智奈先輩、手」
環希が顔の前に手を出した。
そう言えば、繋いで寝るなんて話したことを思い出す。
私はその手をしっかりと取り、手を繫ぐ。
環希は薄暗い闇の中で私を見ていた。だから私も目を逸らさずに見つめる。
耳の中に自分の心音が響いていた。何故だが私は少し緊張している。環希にもこの音が伝わってしまいそうで、少し恥ずかしい。
「智奈先輩って優しいですよね。うぬぼれかもしれないけど、職場でも私へは特に優しかった気がします」
「そうだね。環希とはいつも一緒だったから、分け隔てなく接しようとしても、つい環希を贔屓してた部分はあったかもね。やっぱり仲が良いとその分、情も湧くでしょ」
「⋯⋯私は先輩にとって友だち、ですか?」
「友だち⋯⋯。友だちか。まぁ言われたらそうだと思うけど、もっと家族なような。でもちょっと家族とは違うような。環希を見守りたいというか、大切にしたいというか。でも友だちって言っていいのか⋯⋯」
元々は職場の先輩と後輩だったわけだけど、環希とはそれだけではない。友だちになったと言うのが正しいのだろうか。
やはりでも何か少し違う。
環希は黙って私を見つめていた。憂いを帯びた、でもどことなく嬉しそうな顔。
何か迷ったように一瞬目を伏せたかと思うと、再び私に視線を戻す。
環希は瞳に強い色を宿して私を見据える。多分、何かを決断したような、そんな雰囲気。
私に話したいことがある。そんな気配はずっとあった。私は環希が口を開くのを待った。
「先輩は私のこと好きですか?」
環希は真剣に私へと問いかけた。
「もちろん。嫌いな人と一緒に住もうなんて思わないし、こうして寝たりしないよ」
「例えば⋯⋯、例えばですよ。私が先輩のことを『好き』だったらどうしますか?」
暗がりでも分かるほど、環希は真っ白な肌を朱色に染め、じっと私を見ていた。
「環希は私のことが『好き』⋯⋯? 恋愛の意味でってことだよね?」
遠慮がちに環希はこくりと頷き、恥ずかしそうに目を伏せた。
「智奈先輩が、好きです」
思ってもみない告白に、私は頭が真っ白になる。
出会った時から環希はずっと私に懐いててくれてて、頼りにしてくれた。
趣味が同じで週末は一緒に映画を見て、お互い好きなことを語り合った。
いつしか私は環希に合鍵を渡すようになった。時間が合わなくても会えるようにと。過ごす時間が減るのが嫌だったから。
何気ない会話からルームシェアすることになって三年も暮らした。
その間も環希は私を好きだったのだろうか。
環希はいつも好意を持って接してくれてるのは感じていた。ただ、それが恋愛感情だとは気づかなかった。気づけなかった。
「いつから?」
どう答えていいのやら判然としなくて、それを聞くのがやっとだった。
「それがよく分かりません。先輩と仲良くなったら、自然と好きになってました。ごめんなさい、先輩を裏切っていて」
「裏切る? 待って環希。好きでいることは別に裏切りではないでしょ?」
好きという気持ちは自分の好き勝手にどうにかなるものでもない。
環希が自然と私を好きになってしまったのなら、それはもうどうしようもないのだ。それを攻めるつもりは私はない。
「でも私、先輩の前ではいい後輩の振りして、一緒に暮らしながら好きだったんですよ。そんなの嫌じゃないですか? ⋯⋯下心、あったんですよ」
「でも私は環希といて嫌だと思ったことはないよ。環希が私に好意⋯⋯、恋愛感情だとは思わなかったけど、それは感じてたよ。だけど嫌だなんて思わなかったし、今も驚いてはいるけど、拒否感なんてちっともない」
それが私の素直な気持ちだった。
知られたら嫌われるかもしれない、環希はそんな不安を抱えながら、共に過ごしていたのかもしれない。想像すると、切なくなってくる。何もできなかった自分が不甲斐なくて。
もし私が環希の立場なら、怖いと思う。築き上げてきた関係が壊れるかもしれない。縁を切られるかもしれない。気まずくなるかもしれない。
それでも環希は私に気持ちを伝えてくれた。
正直、まだ頭の中は混乱してるけども、これで環希を嫌いになんてなりようもない。
何より目の前の可愛い環希が苦しんだり、辛い思いをするのが嫌だ。
私は彼女には笑っていてほしい。幸せであってほしい。
「ありがとう環希。『好き』って言ってくれて。私は嬉しいよ」
「先輩⋯⋯」
環希の瞳がきらりと光を帯びる。小さな涙がこぼれ落ちた。
「ほら、環希泣かないで〜。今日は泣いてばかりだね。泣いたら可愛い顔が台無しだよ」
私は次から次へと涙の粒を滲ませる環希の頬を拭う。
そんな様子すらも愛おしく感じてしまう。
(環希は愛おしい。この気持ちは何て言うのだろう)
私の中に芽生えていた環希への気持ちに言葉を与えるなら友情が一番近いはずだ。
だけど、『好き』だと言われて何かが揺らぎそうになっている。
そもそも三年も平穏に楽しく暮らしてきて、環希が転職を期に引っ越してなければ今も一緒に暮らしていただろう。
私にとってやっぱり環希は大切で、だからこそ二人の生活は続いたのではないかと思う。
次は以前とは違った大切な気持ちで環希と向き合ってみたい。私は強くそう感じた。
私の中の環希へのこの感情は恋愛なのかどうか、まだ私は決められない。だけど環希が私にとって特別なのは確かだ。
「環希はこれからどうしたい? 私とどうなりたい?」
「それは⋯⋯」
はっきり言うのは抵抗があるのか、それとも先のことまで考えてはいなかったのか、環希は言い淀む。
「私は環希と付き合ってみたい。って言い方は軽々しいかな。でもね、私だって伊達に環希が好きなわけじゃなかったんだよ。その『好き』が恋愛感情かと言われたら違うかもしれない。だけど、環希をすごくすごく大切にしたいって気持ちがある。私はその衝動に乗りたい」
私は再び環希を抱き寄せて胸に抱いた。
「ってだめかな?」
「智奈先輩、後悔しないですか?」
「後悔はしないと思うよ。だって、自分でも何だかはっきりしなくても、環希が愛おしいって気持ちだけは本当だから。何より自分で選んだことだからね」
「先輩、好きです。大好きです!」
環希は私を強く抱き返す。
「ありがとう。可愛いなぁ、環希は。私も大好きだよ」
環希とのルームシェアが終わった時、私は無性に寂しかった。ありきたりな表現だけど、まさに胸に穴が空いた。あったはずのものがなくなってしまった喪失感。
一年かけて少しずつ埋まってきたけど、完全に塞がることがなかった穴。
でも今はその穴が無くなりそうになっている。
この穴は環希でないと埋められない。
私は環希が欲しい。傍にいて欲しい。
今まで誰かに持ったことがないような、揺るぎない気持ちが生まれていた。
いや、きっと前からあったのだ。この気持ちは。
「今日からまたお世話になります」
環希はうやうやしく頭を下げた。
私も同じように返す。
「こちらこそ、今日からまたよろしくお願いします」
あれから一ヶ月後、一年前に家から去った環希が戻って来た。
今度はルームシェアではなく、同棲と言うべきか。
以前と同じようで違う生活が始まろうとしている。
「私、智奈先輩が本当に受け入れてくれるなんて思ってなかったから、いまだに夢みたいな気がします」
「夢じゃないから安心して」
私は環希の手を取った。小指には私とお揃いで買ったピンキーリングが嵌っている。この指輪もかなり前に二人で買い物に行った時に買ったものだった。
思えば私たちはよく同じものを買っていた。
これも好きの現れなのだろう。
「先輩って本当にすごいな。器が広いというか大きいというか」
「そう? 私はただ自分の感情に従っただけなんだけどな」
環希が愛おしいから付き合う、という実にシンプルな理由。
「だって先輩は同性とお付き合いしたことないんですよね? なのに今までと違う道を選べるなんて、やっぱりすごいと思います」
「世の中に同性同士で付き合ってる人が全くいなかったら迷ったと思うけど、女同士でも恋人になれるんだから、その道を選んでもいいかなって。環希となら進める気がしたからね」
たくさん悩んだり苦しんだであろう環希からしたら、私が単純すぎてついていけないかもしれない。
けれど、人生は一度きりなのだから、その時の想いを優先した方が悔いがない。
「先輩に言われると女同士で恋人になるってことも、すごく些細なことのような気がしてきました。こんなことなら転職しなければよかった」
「転職したことが関係あったの?」
「それは⋯⋯、その先輩のことが好きで、でも絶対両想いにはなれないなって思ったから傍にいるのが辛くなったんです」
「転職したの、私のせい?」
「先輩のせいって言うか何と言うか」
それだけ環希は私への気持ちで思いつめていたのかと思うと、健気さに泣けてくる。
「でももういいです。今は先輩の彼女になれましたから」
「私たちは女同士だけどさ、大事なのはお互いの気持ちだと思うんだ。私は環希がいたら幸せでいられるって確信してる」
「先輩、私も。私もです!」
環希が大輪の笑顔を咲かせる。
私の大好きな環希の笑顔だ。
このために私は頑張れる。どんなことだって。
もしかしたら私もとっくの前から環希に恋をしていたのかもしれない。自分では気づかなかっただけで。
恋愛なんて全てが映画みたいにドラマチックなわけではない。
自然と知らずに始まっていたりもするのだろう。
だけどどんな形であれ、私たちが幸せであればそれは間違いではないはずだ。
環希の幸せそうな顔を見ていたら、私が選んだ道は正しいのだと実感する。
この部屋で積み重ねて来た想いを私たちはまたこれから育てていく。
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