芸術

 芸術というのは、とても難しい。特に現代アートに至っては、難しいを通り越して意味が分からない。が、それは恐らく私の怠慢ゆえにだろう。

 こと美術、それも絵画に限って論じても、ミケランジェロやボッティチェリ、比較的現代に近しいのであればピカソやダリ。よく教科書にも載っているが、私たちと同じ人間が描いたとは思えないような絵が、私たちの視界に訴えかけてくる。人によって、想起する感情は異なるだろう。「美しい」「綺麗」といったものから、「よく分からない」「難解だ」、そして「おぞましい」に至るまで。だがとにかく、なにかしらの感情は持つ(だろう)。

 私も特に芸術に素養があるわけではなく、自分からほど遠いものと感じていた。上述したような感情は抱くものの、真意や本質が見えてこない。きっと美術の才能ある人にのみ分かる何かしらがあるのだろうと。

 しかし最近、考えが変わった。美術と科学を比較して考えてみるとどうだろうか。

 ガリレオの地動説から始まり、ニュートン、ライプニッツらの微分積分学、そして18世紀の産業革命において存在を確立し、今や人類の生活の基盤となり、さらに今でも進歩を遂げている科学。電子機器や遺伝子操作を代表とし、様々なことが人類の予測のもと行えるようになった。では、科学にできないこととは何か。そこでよく引き合いに出されるのが、美術、文学や音楽など芸術、そして宗教等々。「非科学」とでも呼ぶべきだろうか。

 科学とは異なる、科学では表現しきれないということで、これら「非科学」が持ち出される。だが、西田幾多郎も言っている通り、比較して並べられるものどもというのは、部分的に、もっと言えば一か所のみ異なっていることが多い。一般的に、「黒」と比較対象されるのは「白」であるが、これは「色」という枠組みが同じで、その詳細のみが異なっている。「黒」と、「像」や「パソコン」などは比較されることが滅多にない。

 同様に考えて、科学と「非科学」は、ある意味似ているのではないかと思う。

(このような議論はきっと、ほぼ確実に、学会でも行われており専門家の方もいらっしゃるだろうに加え、私も特段詳しくはないので、より詳しい、そして厳密なものを読みたいという方は他の文庫本や新書、論文等を読むことをお勧めするが、ここでは私が考えていることを述べたいと思う。)

そこで私が挙げたい点が、構造である。分かりやすいと思うので、科学、それも数学を例に考えてみる。私たち日本人は、小学校で、算数という科目において日常生活で必要な最低限度の計算能力を学ぶ。その後、中学校で数学の入り口に立ち、極々初歩的な代数と幾何を学ぶ。義務教育はここまでで終わりだが、高校ではさらに学習を進めて、解析学に片足を踏み込む。この後、さらに学びたい者だけが、大学などで深奥を覗く。では私たちは、小学校の算数なくして、人類が300年かけて証明したフェルマーの最終定理を理解できるだろうか。これと同じことが、芸術にも言えると思うのである。

 私たちは、少なくとも私は、芸術の勉強が致命的に足りていない。小中高での、算数及び数学と、図画工作及び美術、書道、音楽の時限数を比較すれば、一目瞭然である。私は四則演算なしに、積分、それもルベーグ積分を行おうとしていたのである。

 芸術に天才は存在するだろうが、それは科学も同じだ。そしてその才能の壁を、努力という武器で壊していった猛者たちがいるのも確かだ。日本人でいうなら、ノーベル賞、特に化学賞受賞者を例にすると一番良いだろう。(彼らに才能がなかったと主張したいわけではない。その才能が霞む程の努力があったと言いたいだけだ。)

 もちろん、そのような一級レベルの話だけではない。私たちは、教育を通して、四則演算をはじめとする数学的素養を身に着けてきた。それによって理解できる数式もあるだろうし、難問も、何を示せばよいか自体は把握できる場合がある。芸術においても、分かることが増えるのかもしれない。

 才能とは残酷なまでに実在していて、しかも強大なものである。しかし、毎度毎度、それを理由にして背を向けてしまうのは間違っていると思うし、もったいないとも思う。それに対抗しうる武器を私たちは持っているのだから。(怠慢ゆえに芸術を全くと言っていいほど理解していない私が言うのも説得力のない話なのだが、、)

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日々の思想 主観 太郎 @kilkegohl

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