善悪と主観

 この世には絶対的なものと相対的なものというのが多数存在するが、善悪というのは後者の代表的なものの一つだろう。誰かにとっては善であり、誰かにとっては悪。自身の善を何の疑いもなく普遍的な善だと考えることほど愚かなことはない。

 具体的な例を挙げると、戦争というのもその内の一つだろう。私たち日本人は、小中高と反戦教育を受けてきた。戦争がいかに残酷でむごいものなのかということを、様々な手段を通して教えられてきた。だからこそ、きっと、大半の日本人は、戦争は悪だと言うだろう。これは日本人に限ったことではないかもしれないし、そうであると私も思っている。

 だが、そんな中で、戦争を是とする立場を考えたことがある人、及びそれについて深く考えを巡らせたことのある人はどれほどいるだろうか。戦争が起きた、あるいは起きるのには必ず理由がある。それを考慮せずに、一意的に戦争が悪だと断定してしまうのは、大人としてはどうなのだろうか。

 悪というのは元来、相対的なものでなければならない。これは、もっと言えば、個人の主観に影響される部分が大きいということである。個人の思考、思索の上で、時として苦悩の上で、悪と判断されるべきなのだ。

 しかしながら、戦争に関しては多くの人において、その思考のプロセスが省略されている。明確な根拠をもって、戦争に対する意思表示ができないのだ。まさにステレオタイプに凝り固まった怠慢行為と言える。

 もし戦争が起きてしまったらどうするのだろう。「仕方ないね」で済ますのか。もっと、理由の方に目を向けて考えていれば未然に防げたかもしれないのに。

 このことは決して、戦争だけに当てはまることではない。諸々の犯罪だってそうだ。「法律で罰せられるから悪」などとは全くの妄言である。例えば大麻なんぞは、日本では厳罰化されているが、特定の海外に行けば合法である。法律という、ある種一部の人間が恣意的に定めたような基準によって、自身の善悪を規定してはならない。考えて、考えて、その上で到達した主観的な考えこそが、真の善悪であると信じている。

 一つ主張したいのは、私は決して犯罪を勧めているわけではない。ただ、思考を放棄した物事について思考せよと言っているのである。各々が自分なりに考え、自分なりの意見を持つ。これが必要だと思う。

 私たち人間は結局、自意識のもとで生活をしており、主観を通してしか物事を認識できない。大衆化された思考や意見というのは決して主観ではない。思考という人間の武器を自ら放棄する、非常に冒涜的な行為である。だからこそ、もっと考えて、その上で得た主観を大切にしてほしい。

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