友人

 友人とは、人がポリス的動物である以上、人生が始まった当初から付き合う代物だが、決して単純なものではない。シンプルに見えて(シンプルゆえにかもしれないが)、複雑で面白い。

 友人というのは、何か明文化された契約で成り立つものではない。個人間の口約束で、あるいは口約束もなしに(後者である場合が多々であるのも面白い)成立するものだ。だから、突然友人をやめたからといって、明確な罰則があるわけでもない。

 しかしながら、明確な罰則がないにしろ、人間社会にはその行為を断罪する機構が備わっている。その人間の社会的評価というものだ。誰しもが、何らかの形で「楽しみ」を享受するために友人関係を構築する。その楽しみは、控えめに言って長期的、願わくば永続的に続いていってほしいものだ。友人関係の構築及び継続というのは少なからずエネルギーを消費するものであるから、突然何の前触れもなく友人関係が解消されてしまうというのは、およそ一般的に腹立たしいものである。そうした感情から、友人関係を解消した人物の社会的評価は下がっていく。

 そしてさらに、この友人関係の解消というのも、前述したものほど簡単なものでもない。具体的な例を二つ紹介する。

 一つ目は、友人関係を解消されてしまった受動の側が問題を有していた場合。この場合は、受動の側の社会的評価が元々低いパターンが多く、関係を断った能動の側の評価が下がることは少ない。そして大抵の場合、能動の側が他の友人に悩みやら愚痴やらを垂れ流しており、その友人関係の解消は、能動の側への同情という形で取り扱われる。

 二つ目は、解消する能動の側が、強大な権力を有している場合。これは特に年齢が低い場合に顕著である。ある特定の集団において、表面上、あるいは道徳上の平等は保ちつつも、どうしても個人間で力関係の強弱が発生する。そして、多少大げさな表現ではあるが、権力者というのが発生する。その権力者からすれば、その集団は、自分に逆らうものもおらず、好き勝手にふるまえる都合のいいものである。そして、3人いれば多少の好き嫌いが生じるのと同様に、その集団においても、権力者が気に入らない人間というのが存在する。そんな場合、権力者は、その集団をより居心地の良いものにするために、その人間を追放するのだ。もちろん追放にはエネルギーがいるし、集団内の(あるいは集団外の)人間からの社会的評価というものも関わってくるから、おいそれとできるものではない。追放するメリットが追放するデメリットを上回ったときに、それが実行される。幼年期というのは、リスクの計算が十分にできず、目の前のメリットを愚直に追及する傾向があるため、このケースが顕著である。大人になればこのケースがないというわけではないし、何よりやり口が陰湿になるのが悲しいところだが。

 いずれの場合についても、やり方が過激で、友人関係を断たれた側が大きな心的(時として身的)ダメージを負った場合、「いじめ」というケースに分類されるのだが、それはテーマとして大きすぎるのでここでは割愛する。

 このように、私たちが慣れ親しんでいる人間関係だが、簡単に分析してみるだけで想像以上に深いものだということが分かる。ここで挙げた例などはほんのわずかなもので、決して一般的な推論がなされたわけではない。他の具体例について、どのようなことが起きているのか考えてくれる方がいれば、嬉しい限りである。また、こと人間関係に限らず、慣れ親しんだものを少し客観的(チック)に捉えなおしてみるというのも面白いのではないだろうか。

 

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