理想と現実

 自分の思い描く、ないし思い描いていた理想と、自分が今置かれている現実に乖離が存在するのは常だろう。そして多くの人の場合、自分の理想に(程度の差こそ個人によりけりだが)下方修正を加えたものが現実なのではないだろうか。

 幼い頃は日々を無我夢中で生きていた。自分で出来ることは数少なく、それゆえ世界も狭い。その小さな世界の中で、(現状から相対的に見れば)小さな幸せと小さな悲しみに一喜一憂して生きていた。そして、その小さな、ゆえに退屈な世界から見える外の世界の非日常に憧れを覚えるようになる。

 成長するにつれて、漠然としていた憧れが輪郭を帯びてくる。知識が増えるからだ。その憧れというものが、本当はどんなもの(人物や職業)で、具体的に何をすればたどり着けるかということを知り始める。ある人はその憧れに邁進し、ある人は憧れに向かって直接努力することは難しいから目の前のことに立ち向かう。いつかはその憧れに到達できると信じて。

 だが、現実はそれほど楽天的ではない。才能、金、人間関係等々。どれだけ綺麗ごとを並べようとも、これらの問題はれっきとして存在しているし、なおかつ深刻だ。気合だ、などという精神論の正否は分からないが、辛い道のりであることは確かだ。多くの場合逃げ道は存在する、存在してしまうから。

 ここから、人は妥協を始める。得点可算型だった人生というゲームが、減点型に変貌する。いかに落ちないか。いかに自分の納得できるラインで踏みとどまるか。そしてそれはきっと、諦めの始まりだ。下げていって下げていって、自分の持ち分がゼロになったときが諦めの境地だ。

 でも、それじゃダメだと思う自分もいて。そのときに理想を修正する。悲しいことに下方であることが大概だが。

 修正した理想を追いかけて、妥協して、諦めて。また修正して、妥協して、諦めて。これを延々と繰り返す。もちろん、その過程で得たものも多くあるだろう。だが、どうしても、人は得たものに関心が薄く、追いかけるものに注意がいってしまう。それはきっと間違ったことじゃない。パソコンのような二進法の基準が私たちの中にも存在していて、0を1にしないと満足中枢が刺激されないのだろう。

 そうして私たちの現実が形作られる。現在ではなくて、現実。だから、積み上げてきたもの、そのうえで放棄したものも含めて現実。この現実から見て、昔の自分はどう目に映るだろう。これこそ人によるだろう。大言壮語だったか。そうでもなかったか。上手く生きてきたけどつまらなかったか。下手くそに生きてきたけど楽しかったか。

 そしてきっと一番大事なことが、私たちがこれから現実をどう作っていくかだ。己が道を突き進む、他人に献身する、等々何でも構わない。やりたいようにやればいい。大きくなるにつれて責任というものはどうしても大きくなるが、できるだけ放棄しないように。

 私は、過去の自分が泣かないような生き方をしたい。簡単なことではないかもしれないけれど、過去の自分に胸を張れるような生き方をしたい。たくさん妥協もしたし、たくさん諦めもした。きっと、過去の自分が望んでいたような道のりは歩んでいない。それでも、色々な経験をした。望んだものでなかったとしても。こうして生きてきて、ここに着地した。

 この現実を過去の自分に誇れるように。そのために今日も足掻いている、つもりだ。

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