日々の思想

主観 太郎

自尊心と自己否定

 人は、自尊心と自己否定の狭間で揺れ動いていると思う。

 誰かに認められれば承認欲求が満たされ、目標を達成すれば自己実現欲求が満たされる。すると、自分に価値があると思えるようになってくる。自分は誰々に認められた人なのだと。自分は何々を達成した人なのだと。自分に誇りが持てるようになる。

 自分より優れた人間を見ると自分の不甲斐なさに気づき、何かに失敗すれば自分の欠落に失望する。すると、自分に価値がないように思えてくる。自分は誰々の下位互換なのだと。自分は何々ができない出来損ないなのだと。自分を否定するようになる。

 こんなことを、程度の差はあるにせよ毎日周期的に繰り返している。もちろん、良いことが続くときもあれば悪いことが続くときもある。だが、マクロに見てみればサインカーブを描いているだろう。

 そんな中で、強い人間というのはきっと、明確な意思を持つ人間だ。その意思に従い自分を律し、日々を過ごしている。自尊心を糧とし、自己否定をバネとし、意思の赴くままに邁進している。もっと言うならば、弁証法的に。誰に何を言われようとも。己の信ずるまま。彼らは、「活きている」。それがどんな形であろうとも。見る人が見れば顔をしかめるようなものだったとしても。

 誰もがこの意思を持ちたいと願う。願わない人は、すでに持っているのではないだろうか。持っている人は、そのまま突き進んでいいし、突き進んでほしい。だが、自己否定の重圧に耐えきれずにその意思を捨ててしまう人、捨てざるを得なかった人も大勢いるだろう。ここからが問題だ。

 意思を捨ててしまった、捨てざるを得なかった人には、意思を持っている人が輝いて見える。そして自分との比較で、自己否定の念が強くなってしまう。だが、彼らには意思を捨てるという自己防衛の手段がない。もう意思を持っていないからだ。彼らはどのように自らを防衛するのだろう。方法の一つが、意思ある者を攻撃することだ。しかも悲しいことに、意思敗れた者は数多く存在するから、寄ってたかって意思ある者を袋叩きにする。この方法のいいところは、連帯感が生まれ、承認欲求の充足により自尊心が生まれてくることだ。そこに生きがいを持つようになる。彼らも、悲しいことにきっと「活きている」。

 この歪みが表面化してしまったのが、現代の情報化社会なのではないだろうか。SNSというのは、自己発信を卑近なものにしたツールだ。現に私もこのような形で自分の考えを発信している。だが、発信されるメッセージは、常にポジティブなものであるとは限らない。意思あるものがネガティブなつぶやきに潰されてしまうこともあるだろう。

 ネガティブなものについて、一概に悪であると決めつけるつもりはない。それは見方によっては正義なのかもしれないし、なによりその発信者も「活きている」ときがあるからだ(「活きていない」ときが多々であると想像してしまうのは、私が悪いのだろうか)。このようなものについては、きっと明確な判断基準は存在せず、各々の考えによるところが大きい。善悪を決めるのは、己の判断なのだ。だからこそ、考えてほしい。誰かの考えに迎合することで自らの考えを述べるのではなく、自らの言葉で根拠を紡げるように。


 この文章が、誰かの考える契機になってくれれば幸いです。

 

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