[4-3]小鳥、抜け出す
帝国の手に落ち、幽閉されたというのに、ぼくは不思議と落ち着いていた。
皇帝の言う通り、ぼくの部屋には見えない壁が張りめぐらされているようだった。
手を伸ばしたら指先に固いものが当たる。これが結界ってやつなのかな。術者の皇帝以外は出入りできないって言ってたけど、ぼくはずっと部屋に閉じ込められたままなんだろうか。
結界がなかったとしても、部屋の外に出るのは危険だと兄さんは言ってたっけ。
帝国の王城には人喰いの
万が一にも見つかったりしたら、宿場町で絡まれた時みたいに襲われるのかな。
ひとまずぼくは顔を洗って、身なりを整えることにした。昼食の時は兄さんたちが来たのが突然すぎて、全然余裕がなかったんだよね。
奥に通じる扉を開けるとトイレがあった。あと、お風呂や洗面所も。
丁寧にたたまれたタオルが籠の中に入ってる。さわってみるとふわふわで、手触りがよかった。なにもかもそろってるなら、お風呂も入っちゃおうかな。
ひと通り顔と身体をきれいにして、髪と翼を丁寧に拭く。
服は……どうしよう。替えのものとかあるのかな。ないなら着回すしかないけど。後でクローゼットとかのぞいてみようか。
脱いだ服を畳んでいたら、ワンピースからころんと何かが落ちた。
あ、やばっ。ぼくってば、ポケットに何か入れてたみたい。
慌ててしゃがみ込んで拾い上げようと手を伸ばした瞬間、大きく胸が高鳴る。
雷が落ちたかのような衝撃が、ぼくの身体を走った。
指先がふるえて、動かなくなる。
マットの上に転がった折りたたみナイフが、脱衣所の明かりを反射して鈍く光っていた。
忘れるはずがない。ちゃんと覚えてる。
宿場町でヴェルクがぼくにプレゼントしてくれたものだ。
刀身が風の竜石で作られた魔法製のナイフ。なんでも切れるし、風魔法しか使えないぼくの補助道具になるって、贈ってくれた大切なもの。
手のふるえが止まらない。
なんとか力を振り絞り、ぼくは銀色のナイフを拾い上げた。両手で包み込み、宝物みたいにそのまま抱きしめる。
ううん、みたいじゃない。世界でたったひとつの、ぼくだけの宝物。
初めてヴェルクがぼくにプレゼントしてくれた大切なものだ。
——肝心な時、自分の身を守れるのは自分だけだ。
そう言ってあたたかく笑ったヴェルクの顔が、今も頭の中に焼き付いている。
ぐにゃりと視界が揺らぐ。
おかしいな。どうして、また涙が出てくるんだろう。
もう、自分の力だけでがんばるって決めたのに。
あふれた涙が頬を伝っていくのがわかった。
うつむいているとしずくが静かに落ちていって、バスマットに吸われていく。
あいたい。
望んじゃいけないのに。もう巻き込まないって決めたはず、なのに。
どうして、ぼくはワガママなんだろう。
今すごく、ヴェルクに
ヴェルクがぼくのことをどう思ってるのかわからないけど、ぼくはヴェルクに
助けてって縋ったりしたら、優しい彼のことだ、絶対助けてくれるに決まってる。だからもう頼らないって決めたのに、気持ちが止まらない。
「あいたいよぉ……」
しゃくり上げながらぼくは泣いた。
一人の力でできることなんて限界がある。そんなこと、ぼくはとっくに知っていた。
でも巻き込むこともできない。
ちゃんとわかってるつもりなのに、ぼくは、それでもヴェルクに
ずっと、ヴェルクのそばにいたかった。
ほんとは、ちゃんと考えたかった。
どんな問題や障害だって、一緒に乗り越えたかった。
他の誰でもなく、ぼくだけがヴェルクの隣にいたかった!
「泣いてちゃ、だめだ」
タオルに顔を押しつけて、涙を拭く。
そうだ。
泣いてばかりじゃだめだ。一人で泣いてたって何も変えられない。
部屋にこもってばかりなのは、ぼくらしくない。
ぼくは自由を愛する風の民、
結局、昨日の服に袖を通した。
いつも通り髪はハーフアップに結って、右手にナイフを持ったまま。
ぼくはカーテンを引き、窓を開け放す。結界に閉じ込められたこの部屋には、当然ながら風はこない。
眼下にはきれいな庭園が見える。
少し視線を上に向ければ、鮮やかな蒼天が広がっていた。雲は少なく、快晴に近い。翼を広げて飛ぶにはなんの問題もなさそう。
ナイフの突起の部分を押すと金属音が滑り、透明な青の刀身が表れた。
なんでも切れる、風の魔力をまとったナイフ。
その切先を透明の壁に向かって突き立てる。ほんの少し押しただけで、亀裂が入ったのがわかった。
そして次の瞬間。
皇帝の張った結界とやらは、大きな音を立てて粉々に砕けたのだった。
「ええええっ!?」
まるでガラスを粉々に砕いたような音だった。
目に見えない壁なのに、こんな大きな音がするだなんて聞いてない。いや、皇帝はなにも言ってなかったけど。
人知れず脱出するつもりだったのに、こんなの目立ちすぎる。
迷ってる暇なんてなかった。
ナイフの刀身を仕舞い、スカートのポケットに入れた。
窓の
真下の庭園。
形のいい緑色の葉っぱを彩るように、鮮やかな赤い花を咲かせている。
間近で見たらぼくの身長よりも高い木なんだろうけど、上から見ると豆粒みたいに小さく見える。
大丈夫。こわくない。
自分の翼で飛ぶのは五年ぶりだけれど、感覚は失われていないはず。たぶん、いける。
翼を広げるイメージを頭の中で思い描き、ぼくは足に力をこめた、——その時。
ぐいっと、後ろから引っ張られた。
首が絞まって呼吸が止まる。ブラウスの襟を誰かが後ろから引っ張ったんだ。
息ができなくなったのは一瞬だけ。
すぐに解放されたけど、強い力で窓から引き離される。
ぼくの身体は呆気なく絨毯の上に投げ出されてしまった。
「けほっ……な、なに……っ」
一瞬だけだったとはいえ、堰き止められた空気を身体が求めてる。
言葉にならない声さえ吐き出せないくらい、ぼくはひどく咳き込んだ。
何なんだ。一体、何が起こってるの。
その答えはすぐにもたらされることになった。
「それはこちらの台詞ですよ」
「きゃっ」
起き上がろうとしたら、腕をつかまれて引き倒される。
頭と背中を強く打ったみたい。すごく痛い。
「いけませんねぇ。せっかく陛下の慈悲で守られていたというのに、小鳥が自ら籠の中から出ようとするなんて」
腕も足も、全然動かせない。まるで床に縫いとめられてるみたい。
整った白い顔を暗い青紫色の髪が縁取っている。知らない顔だった。
紺青の瞳がぼくを見下ろす。
ガラス玉みたいに無機質で、黒く濁っている。ヒトの味を覚えた
「……はな、してっ」
喉を振り絞ったら声が出た。
身体を捩っても腕ひとつさえ動かせない。見たところ、ヴェルクよりも細い身体をしているのに、なんて力だろう。
やっぱり男の人には敵わない。
つかまれた肩が痛い。
逃げられない状況がひどくこわかった。指がふるえが止まらない。
「怖いですか? 大丈夫、陛下のものを取って食ったりはしませんよ。ああ、でも……そうですね」
すぅっと紺青の瞳が細くなった。
形のいい唇が狂気に歪む。上唇をぺろりと舐めた瞬間、相手の輪郭がとけた。
白い肌は青紫色の豊かな毛並みへ。
切長の瞳は鋭くなり、整った白い顔は獣へと変化した。
顔だけは覚えがある。
黒い鼻先に、大きな三角耳。森へ狩りに行った時、何度か見たことがある。
——狐だ。
「翼の端っこを
赤い舌先を出して、狐が
どこをどう見ても狐だけど、ぼくの知ってる狐じゃない。背後で揺れている尻尾はどう見ても二、三本以上ある。普通の狐じゃないし、ましてや獣の姿に変身できる
そもそも、
こいつがどういう部族かわからないけど、これが
「いいわけないだろっ」
「まあ、抵抗してもいいですけどね。ただの小鳥が僕に何かできるとも思えませんけど」
誰が大人しく食べられてやるものか。精一杯抵抗してやる。
——そう思っていたのに、やっぱり動けなかった。すごく悔しい。
開いた口から鋭い牙がたくさん見えた。
この人はどうやって他種族を食べるんだろう。やっぱり、人狼の
狐が頭をぼくの肩に埋める。ぬるい息が肌を舐める。ちくりと鋭利なものが肌に食い込むのがわかって、ぼくは死を覚悟した。
なにが幸運の精霊に愛されている、だ。どこが幸運体質なんだ。
全然うまくいかない。
一人でもうまくやってみせると覚悟を決めたのに、こんな呆気なく終わるなんてひどすぎる。
ああ、でも。最後にはヴェルクにちゃんと告白できたからよかったかな。
兄さんを取り戻せなかったのは心残りだけど、彼がしあわせなら、それで————。
「おやおや、これは珍しい。妖狐とは、珍しいものを所有していたのですね。かの魔王様は」
よく通る、楽しげな声だった。
そばに誰かが立っている気配がする。穏やかじゃない、明らかに敵意に満ちた視線。
「貴様は——!」
鈍い衝撃が続く。
狐のからだがぐらりと傾き、上から押さえ付けられていた圧力が消えた。身体を解放されたぼくはすぐに離れる。壁際にピタリと翼をくっ付け顔を上げたところで、やっと状況を把握した。
横たわった狐のそばに、真っ黒な衣装に身を包んだ人が立っていた。
背が高くて、姿勢がいい。
緩く波打つ銀糸の髪をひとつに結んだ
男の人の唇が動く。
くすり、という笑みがぼくの耳をかすめた。
「まさか魔王様の影武者が妖狐の
え、猫の天敵って狐じゃなかったっけ。
——って、そうじゃなくて!
「あ、あのっ」
声をかけると、金色の瞳が僕の方へ向いた。
ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
さっきまで鋭く見えたその瞳は、少し和んだような気がした。
「大丈夫ですか、小鳥のお姫様」
「ふえっ、お姫様!? だ、大丈夫、だけど……あなたは誰なんだ?」
この人までいきなり何言ってんの!?
ぼくが村長の妹だったから?
あ、でもこのお兄さんとは初めて会うし、ぼくの素性を知っているはずないよね。うん。
間近で見るその人は、薄い色の瞳を丸くさせた。
きょとんした顔で首を傾げる。
「おや、私のことをご存じではないですか?」
「うん、知らない。だって初めて会ったし」
なんでぼくが知ってる前提なんだろ。
少しクセのある長い銀の髪と金の瞳をもった
そもそも
見たところお兄さんの目は澄んだ色をしてるし、食べてる人ではなさそう。だけど油断はできない。だって、ここは帝国の王城で、皇帝の味方しかいない場所だもん。
軽く睨みつけてたら、
ややつり目がちな金の瞳を少し細め、恭しく頭を下げる。
「それは失礼致しました。私は怪盗リンクスアイズ。帝国では有名な、イージスの泥棒猫ですよ」
そう言ったあと、顔を上げたその怪盗は、唇を引き上げて悪戯っぽく笑った。
初対面なはずなのに、誰かに似ているような気がした。
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