4章 囚われの小鳥は王城脱出に挑む
[4-1]小鳥、目を覚ます
冷えきったぼくの頬に、褐色の長い指が触れる。
指先から熱が伝わってきてドキドキする。
太陽みたいにあたたかい、大きな手のひら。
——お前のことが気に入った。それに困った女を助けるのに、理由なんて必要ないだろ。
にぃっと白い歯を見せて笑うその笑顔が好きだった。
からだを抱く力強い腕も、お日さまみたいなぬくもりも、ぜんぶ。
初めて会った時、意志の強い瞳に心が惹かれていたんだ。
だけど、あの時。
ぼくは彼の手を取って、本当によかったのだろうか。
もしも、ヴェルクが亡国の王族だと皇帝にバレたりしたら、ただではすまない。最悪、付け狙われて殺されちゃう。
全部聞いてたのに。
ぼくだけは最初から、ヴェルクの過去を直接聞いていたはずなのに。どうしてこんな簡単なことが分からなかったんだろう。
結局ぼくは、自分のことしか考えていなかったんだ。
暗闇の中、陽だまりのような笑顔を浮かべるヴェルクに、手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、彼は煙のように消えてしまった。
お願い、消えないで!
もう巻き込んだりしないから。今度こそ自分でちゃんと考えて、自分の力でなんとかしてみせるから。
だからおねがい。
ヴェルクを消さないで……!
◇ ◆ ◇
「ヴェルク……っ」
気がつくと、ぼくは腕を伸ばしたまま起き上がっていた。
閉め切ったカーテンの隙間から白い光がもれている。ぼくの荒い呼吸音だけ、大きく聞こえていた。
「あ、れ……?」
今の、夢だったのかな。まだはっきりと頭の中に残ってる。
あったかい笑顔を浮かべるヴェルクが跡形もなく消えていく夢。
すごく気分が悪い。頭が石みたいに重かった。
こういう時は深呼吸だ。
両腕を広げて、深く息を吸う。そして吐く。
よし、だいぶマシになってきた。少なくとも気持ちは切り替わった気がする。
まずは状況を整理してみよう。
昨夜ぼくは兄さんを取り戻しに、ヴェルク達と帝国の王城に乗り込んだ。
無事に会うことはできたけど、なぜか兄さんはヴェルク達に魔法をぶつけて、皇帝の味方で——。
崩壊しかけた扉を背に、黒い竜に咥えられたヴェルク。シャウラ様達と一緒に、みんな姿を消した。
一瞬のうちに消えたのは、みんなは逃げることができたということ。
なのに、どうしてこんなに胸が痛むんだろう。
心臓のあたりを両手でおさえてみる。
でも痛みは消えない。せつない。
「ミスティア、起きてる?」
軽いノックのあと、聞き覚えのある声がした。兄さんだ。
あれ、でもどうして兄さんがぼくの部屋を訪問するんだろう。
今になってあたりを見渡してから、ようやく気付く。
ここは、ぼくの知っている部屋じゃない。カーティスの屋敷並みにすごく広いもん。
背丈よりも高いカーテンは初めて見る。皮張りのソファとピカピカに磨かれたテーブル。
ぼくがさっきまで寝ていたこのベッドだって、ギシギシ鳴らない立派なものだ。すごく手触りがいいシーツだし、掛け布団は羽根みたいに軽い。
たぶん、この部屋は城の一室。あのままぼくは兄さんに捕まってしまったんだ。
「ミスティア?」
「あっ、待って兄さん」
扉の向こうで兄さんが待ってる。
手櫛で髪を整えてから、ベッドから飛び降りた。
服は昨日のままだった。少しシワになってたから手で伸ばす。あまり意味がないかもしれないけど、気持ちだけでもきれいにしたい。
部屋の扉は大きくて、きれいなデザインだった。ドアノブが縦長だ。回すタイプじゃない。
ちょっと待って、これどうやって開けるんだろう。
押したり引いたりしてもビクともしない。どうなってるの? これ魔法かなにかでできた扉なの? それとも鍵かかってるのかな。
最後の手段として体当たりをしてみようかなと考えていた矢先、突然、扉が開いた。
「きゃうっ」
見事にごちんと大きな音を立てて、扉の角に顔面を直撃させてしまった。
いたい、痛すぎるよぅ!
「何をしている」
甘やかな低い声音がすっと耳の中に入って、ふるえた。
ジンジンと痛む額をおさえたまま、すぐに姿勢をただす。
きゅうっと翼が縮んでいくのがわかった。
少し扉を開けた向こうでぼくに視線を向けていたのは、鋭い瞳をもつ帝国の支配者。皇帝だった。
「えっ」
なんで皇帝が顔を出すの!?
さっき聞こえたのは、たしかに兄さんの声だと思ったんだけど……。
昨日の夜と変わらず、皇帝は濁った紫色の目でぼくを見下ろしている。口は引き結んでいて、不機嫌そう。
「ミスティア、びっくりさせてごめんね。昨夜は眠れたかな」
無表情な皇帝の背後から、ひょっこり兄さんが顔を出した。
やっぱり気のせいじゃなかったみたい。
「ローウェル、遊んでいないで早く済ませろ」
扉を大きく開けて、皇帝はそう言った。
少し翼をふくらませて、兄さんはにこにこと笑う。
「じゃあ陛下が早く入ってください。後がつかえてますから」
「………………」
また兄さんってば、皇帝に失礼な口をきいてる。怖くないのかな。叱られたりしないんだろうか。
ぼくの方が見ているとハラハラするし、緊張で心臓の鼓動がばくばくと早くなっていく。
皇帝は何も言わなかった。
無言のまま部屋に入ったと思ったら、ソファにどかりと座ってしまった。まるで自分の部屋みたいにくつろいでいる。いや、ここは王城だから、皇帝にとっては自分の家みたいなものなんだろうけど。
皇帝の髪は昨日と同じく、左サイドで緩く結ばれていた。着ているものはすごく立派な立ち襟の宮廷服。彩度の強い紫色を基調としたもので、不思議とよく似合ってた。
後から入ってきた兄さんはワゴンテーブルを押しながら入ってきた。
銀色のソレにはたくさん乗せられている。パンが入ったバスケットに、スープが入った陶器の器がみっつ。下の段には水を張った口の広い器に、タオルがふたつ。
「え、と、兄さん。これは……?」
新たな展開に、また状況が飲み込めなくなってきた。
兄さん、皇帝と一緒になって何しにきたんだろう。
「一緒に昼食を取ろうと思ってね。でも王城の食堂はおっかない
仲良く食べようって、そんな。
今って、のんびりご飯食べても構わない状況なのかな。マイペースすぎる。
ううん、それよりも。
「昼食? それに三人って……」
「うん? ああ、この部屋には時計がないもんね。気づいてないかもしれないけれど、もうお昼前なんだよ。おれも陛下もさっき起きたところだから、まだなにも食べていなくて」
やっぱり、皇帝も含めた三人だった!
兄さんはともかく、皇帝とご飯一緒にって怖すぎるんだけど。そもそも
ほんとに何考えてんの!?
「ローウェル、食事の前にやることがあるだろう。早く貴様の妹を
「はい、陛下」
信じられないことに、兄さんは皇帝の言うことに素直に頷いてしまった。
まさか、妹を帝国の皇帝に差し出す気なのか!?
最低! 人として
絶対に抵抗してやると思っていたのに、男である兄さんの力にぼくが敵うはずもなく。
ぐいぐいと背中を押されて、皇帝の隣に座らせられてしまった。
近くで見ると威圧感がすごい。鋭い目を見てると動けなくなっちゃいそう。眼光だけで人を殺せそうだよ、この人。
皇帝の長い指先がのびてくる。
きゅうと心が縮んでいく。ついでに翼も畳んで目を思いっきり
まるで、傷口をやさしくなでられているような。
そう。狩りで怪我した時に、よく兄さんがかけてくれた治癒魔法みたいな、あの感覚に近い。
目を開けると、ちょうど皇帝が手を引っ込めるところだった。
おでこに触ると、もう腫れていなかった。いつの間にか痛みも完全に引いている。
「次は目だ。ローウェル、タオルを寄越せ」
「どうぞ」
「きゃうっ」
にこやかに兄さんがタオルを手渡すと、皇帝はいきなりぼくの目にソレを押し付けてきた。
熱い、と思ったけど、目に当ててるとちょうどいい温度であたたかい。これっていわゆる、蒸しタオルってやつ?
「しばらくそうしていろ。……ふん、そろそろいいだろう。ローウェル、もう一つのも寄越せ」
ぼくの手からタオルをひったくると、新しいタオルを押し付けられた。
こんどは冷たい。ひんやりしていて気持ちいい。
「えと、あの。え? どういうこと!?」
さっぱり状況が掴めないよ! 二人ともマイペースすぎ!!
少しは説明してほしい。
なんでぼくは皇帝の手ずから蒸しタオルなんて渡されて、ちゃっかりケアされてんの!?
もう怖いのなんて、どっか行っちゃったよ。
「もしかして気付いてなかった? 昨日は散々泣いたからね。ミスティアの目、結構腫れていたんだよ」
「いや、そうじゃなくて。えと、なんで皇帝が……」
やばっ! 思わず皇帝って呼び捨てにしちゃった。不敬にあたるって怒られるかな。
タオルをずらして、おそるおそる皇帝の顔をのぞいてみる。
相変わらず口は固く閉じていて、無表情。鋭く睨んできたりはしてないから、たぶん怒ってはないと思う。
くすくすと兄さんが笑う、やけに機嫌のいい声が聞こえてくる。
「タルヴォス陛下はね、医者としての技術をお持ちなんだ。今のはミスティアのことを心配して、診察してくださったんだよ」
ここで初めて皇帝が唇を引き上げた。でも目は全く笑っていない。
ぼくのことを心から心配、してるんだろうか。とてもそうは見えないけれど……。
一度見つめられるとなぜか目を離せない。睨め付けてくるその瞳は、まるで毒のようだと思った。
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